「アキテーヌ公」の版間の差分
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== 歴史 ==
=== 成立 ===
アキテーヌ地方は6世紀初頭までは[[西ゴート王国]]の領土であったが、[[507年]]のヴイエの戦いにおいて[[クロヴィス1世]]がピレネーまでの領域を征服し、[[フランク王国]]の領土となった。クロヴィス1世の死後、その王領は諸子に分割相続され、王家で継承された。しかし、[[カリベルト2世]]の死以後、現地の公に率いられた独立の勢力がたびたびフランク王権と対立した。8世紀当初にはボルドーの伯[[ウード (アキテーヌ公)|ウード]]がフランク王国から独立した支配を固めていた。しかし、[[729年]]にイベリア半島から{{仮リンク|アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー|en|Abdul Rahman Al Ghafiqi}}率いる[[ウマイヤ朝]]の軍勢がアキテーヌに侵入し、ウードはイスラム軍に敗れた。そこで、ウードは[[カール・マルテル]]に援軍を求め、[[732年]]、[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]においてカール・マルテルはイスラム軍を破った。[[760年]]、フランク王ピピン3世は、アキテーヌ公ワイファリに対し、彼が不法に略取している教会領の返還を命じたが、ワイファリは逆に[[オータン]]、シャロン、[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]などの地方にまで侵略してきた。結局、ワイファリは[[768年]]に部下により暗殺され、アキテーヌ公による抵抗は一旦終結した<ref>柴田 他、p. 158</ref>。翌[[769年]]には、ワイファリの息子で跡を継いだウナール2世が再び叛乱を起こし、[[カール大帝|カール1世]]は弟[[カールマン (フランク王)|カールマン]]とともにこれを鎮圧した<ref>佐藤、p. 23</ref>。[[778年]]、カール1世は[[ヒスパニア]]に遠征したが失敗に終わった。そこで、ヒスパニアと接する地域であり、これまで王権と対立してきたアキテーヌを確実に掌握するために、生まれたばかりの王子ルートヴィヒ︵後の[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]︶を王とするアキテーヌ王国を創設する一方、アキテーヌ地方の9人の伯を全員フランク人から選んで、多くの修道士とともに送り込んだ<ref>佐藤、p. 33</ref><ref>柴田 他 、p. 158</ref>。アキテーヌ王国はその後ルートヴィヒ1世の息子ピピン1世、さらにその息子ピピン2世に継承され、ピピン2世の後は西フランク王家がその所領を相続し、[[西フランク王国]]の一部となった。アキテーヌ公位については、9世紀後半から10世紀後半にかけて、[[ポワティエ家|ポワトゥー伯家]]、[[ギレム家|オーヴェルニュ伯家]]、[[トゥールーズ家|トゥールーズ伯家]]の間で争われたが、10世紀後半にポワトゥー伯ギヨーム3世がアキテーヌ公となって以降は、ポワトゥー伯家が12世紀まで公位を継承した<ref name=H52>堀越、p. 52</ref>。11世紀半ばにはポワトゥー伯家はガスコーニュ公領も継承し<ref name=H52 />、当時のアキテーヌ公の権力はロワールからピレネーの山麓まで、そしてオーヴェルニュの中央山岳地帯から大西洋にまで広がっており、フランス王の領地よりはるかに広大で豊かであった<ref>桐生 、p. 15</ref>。 === イングランド王家による領有 ===
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* アクフレ(926年 - 927年)
; [[トゥールーズ家|ルエルグ伯家]](トゥールーズ伯家)
* レーモン3世ポンス(932年 - 950年) [[トゥールーズ伯]]
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