「アッリーゴ・ボーイト」の版間の差分
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﹁メフィストーフェレ﹂の大失敗以降のボーイトは、楽譜出版業者ジューリオ・[[リコルディ]]の勧めもあり、他のオペラ作曲家のための台本執筆を行うようになる。[[アルフレード・カタラーニ|カタラーニ]]の"La Falce[[:it:La falce|︵イタリア語版︶]]"、[[アミルカレ・ポンキエッリ|ポンキエッリ]]の﹁[[ラ・ジョコンダ]]﹂"La Gioconda"︵後者はTobia Gorrioなる筆名でなされた︶などを経て、[[1881年]]からは、かつての芸術上の確執を乗り越え、ヴェルディとの一連の共同作業に入ることになる。 かつては不仲ともいえたヴェルディとボーイトが共同作業に入った理由としては以下の3つが指摘されている。まずヴェルディはかつてのボーイトの批判に立腹してはいたが、その批判の内容には認めるべきものも感じており、特にイタリア・オペラの興隆のためには、管弦楽法を更に充実させた多くの歌劇作品の登場が不可欠だと感じていた点ではボーイトと同意見であったこと。次に、 リコルディの引き合わせもあって、はじめに二人が着手したのはヴェルディ中期の代表作﹁[[シモン・ボッカネグラ]]﹂の改訂であった。[[1857年]]初演のこの作品にヴェルディ自身は深い思い入れをもっていたが、台本の複雑さなどから上演が稀な作品となってしまっていた。ボーイトはその卓越した文学上の才能により、より見通しのよい改訂版︵[[1881年]]改訂初演︶の台本を完成、この作品の成功に貢献して、ヴェルディの全面的な信頼を勝ち得る。続いて、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の原作を基盤にした﹁[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]﹂︵[[1887年]]︶および﹁[[ファルスタッフ]]﹂︵[[1893年]]︶では、ヴェルディの老熟した作曲技法とボーイトの鋭い文学的感性が見事に一体化した。なお、この時代のヴェルディとボーイトの共同作業の様子は、公刊された往復書簡集にて垣間見ることができる。 |