「イスタンブール」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
Fryed-peach (会話 | 投稿記録) m →呼称 |
||
90行目:
古代の[[ビュザンティオン]]︵ビザンティオン︶、コンスタンティノポリス︵[[コンスタンティノープル]]︶と同じ街である<ref name=Hidaka7>[[#日高ら(1990)|日高ら(1990)、p.7-9、1.イスタンブールへようこそ、- 雑踏の中で]]</ref>。最初に知られている都市の名称はビュザンティオン︵ギリシア語 {{lang|el-latn|''Byzántion''}}︶またはビザンティウム︵ラテン語 {{lang|la|''Byzantium''}}︶でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建した{{仮リンク|ビザス|en|Byzas}}の名が元になっている{{efn|name=byz-date|The foundation of Byzantion (Byzantium) is sometimes, especially in encyclopedic or other tertiary sources, placed firmly in 667 BC. However, historians have disputed the precise year the city was founded. Commonly cited is the work of 5th-century-BC historian [[Herodotus]], which says the city was founded seventeen years after the city of [[Chalcedon]],<ref>Herodotus ''Histories'' 4.144, translated in {{harvnb|De Sélincourt|2003|p=288}}</ref> which came into existence around 685 BC. However, [[Eusebius]], while concurring with 685 BC as the year Chalcedon was founded, places Byzantion's establishment in 659 BC.<ref name="isa199">{{harvnb|Isaac|1986|p=199}}</ref> Among more modern historians, Carl Roebuck proposed the 640s BC<ref>{{harvnb|Roebuck|1959|p=119}}, also as mentioned in {{harvnb|Isaac|1986|p=199}}</ref> while others have suggested even later. Further, the foundation date of Chalcedon is itself subject to some debate; while many sources place it in 685 BC,<ref>{{harvnb|Lister|1979|p=35}}</ref> others put it in 675 BC<ref name="fre10">{{harvnb|Freely|1996|p=10}}</ref> or even 639 BC (with Byzantion's establishment placed in 619 BC).<ref name="isa199" /> As such, some sources have opted to refer to Byzantium's foundation as simply located in the 7th century BC.}}<ref name="roo177">{{harvnb|Room|2006|pp=177}}</ref>。[[コンスタンティヌス1世]]の後、新しい[[ローマ帝国]]の東の首都を330年に創建し都市は﹁コンスタンティヌスの都市﹂を意味するコンスタンティノポリス {{lang|la|''Constantinopolis''}}︵コンスタンティノープル {{lang|en|''Constantinople''}}︶と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、{{lang|el|''Κωνσταντινούπολη''}} ︵コンスタンディヌーポリ︶と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは﹁新ローマ﹂を意味する {{lang|el-latn|''Nea Roma''}} の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった<ref>{{harvnb|Gregory|2010|pp=62–3}}</ref>。 コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、[[オスマン語]]ではコスタンティニイェ {{lang|osm-latn|''Kostantiniyye''}} ({{lang-ota|قسطنطينيه}}) といい、オスマン支配期に主に使われた名称である。それにもかかわらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル {{lang|en|''Constantinople''}} を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている<ref name="maag286">{{harvnb|Masters|Ágoston|2009|p=286}}</ref>。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを対象として言い表すのに使っていたが、スタンブール {{lang|tr|''Stamboul''}} の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた<ref name="maag286" />。ペラ {{lang|el|''Pera''}}︵ギリシャ語では﹁横切って﹂などの意味︶は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人は{{仮リンク|ベイオール|en| ﹁イスラムの街﹂や﹁イスラムで満たされた﹂を意味するイスラムボル {{lang|tr|''Islambol''}} は時折イスタンブールを表す口語として使われ、オスマンが硬貨の一部にも刻印されているが<ref>{{harvnb|Finkel|2005|pp=57, 383}}</ref>、これが現代の名称であるイスタンブールの前の名称であることは誤りで、イスラムボルの以前から存在しており、オスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から用いられていた<ref name="roo177" />。 イスタンブール {{lang|tr|''İstanbul''}}︵{{IPA-tr|isˈtanbuɫ}} 口語では {{IPA-tr|ɯsˈtambuɫ|}}︶の語源は一説に[[中世ギリシャ語]]の表現である {{lang|el|"εἰς τὴν [[ポリス|Πόλιν]]"}}︵発音 {{IPA-el|is tin ˈpolin|}}︶からで﹁都市で﹂や﹁都市に﹂を意味する<ref name=Ino56 />。これは当時、イスタンブール周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を﹁都心﹂{{lang|en|"the City"}}と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル {{lang|en|''Constantinople''}} から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある<ref name="roo177" />。 |