「ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)」の版間の差分
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| 人名 = ウィリアム・オーガスタス
| 各国語表記 = William Augustus
| 家名・爵位 =
| 画像 = Cumberland-Reynolds.jpg|200px
| 画像サイズ =
| 画像説明 = カンバーランド公肖像画 サー・[[ジョシュア・レノルズ]]作
| 在位 = [[1726年]][[7月27日]] - [[1765年]][[10月31日]]
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =グレートブリテン王子、公爵
| 敬称 =His Royal Highness, The Duke of Cumberland
| お印 =
| 出生日 =
| 生地 = {{GBR1606}}、[[ロンドン]]、[[レスターハウス]]
| 死亡日 =
| 没地 = {{GBR1606}}、ロンドン
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{GBR1606}}、[[ウエストミンスター寺院]]
| 配偶者1 =
| 子女 =
| 家名 = [[ハノーヴァー朝|ハノーヴァー家]]
| 父親 = [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]
| 母親 = [[
| 役職 = イギリス陸軍将校他
}}
'''カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス''' == 生涯 ==
=== 幼年時代 ===
[[File:William Augustus, Duke of Cumberland by Charles Jervas.jpg|thumb|150px|left|幼少時のカンバーランド]]
1721年、[[レスターフィールズ]]︵現在の[[ウェストミンスター]]、[[レスター・スクウェア]]︶の[[レスターハウス]]で生まれた。ここは祖父である[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]がイギリス国王として即位した後に両親が移り住んだ場所であった<ref name=odnb>{{cite web|url=http://www.oxforddnb.com/view/article/29455|title=Prince William, Duke of Cumberland|publisher=Oxford Dictionary of National Biography|accessdate=5 May 2012}}</ref>。ウィリアムには[[名親]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]や[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー王妃]]︵ウィリアムの父方の叔母︶がいたが、王や王妃自身ではなく代理の人物が務めたといわれる<ref>{{cite web|url=http://users.uniserve.com/~canyon/christenings.htm#Christenings |title=Yvonne's Royalty Home Page: Royal Christenings |publisher=Users.uniserve.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。1726年7月27日<ref name="creation">{{cite web|url=http://mypage.uniserve.ca/~canyon/peerage_titles.htm#Holders |title=Yvonne's Royalty: Peerage |publisher=Mypage.uniserve.ca |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>、わずか4歳にしてカンバーランド公、[[ハートフォード・カウンティ]]の[[バークハムステッド侯爵]]、[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[ケニングトン伯爵]]、[[コーンウォール・カウンティ]]の[[トレメイトン子爵]]、そして[[オルダニー島]]の男爵に叙された<ref name="gaz">{{LondonGazette|issue=6494|supp=| 幼いカンバーランドは母 カンバーランドは子供の頃から勇敢であり、肉体的な能力にもすぐれていて、それが両親のお気に入りだった<ref>Van der Kiste, p. 111</ref>。4歳の時に[[第二歩兵近衛連隊]]に登録され、[[バス勲章]]を授与された<ref name=Kiste78>Van der Kiste, p. 78</ref>。国王夫妻はカンバーランドを[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]に入れるつもりだった。[[1740年]]、カンバーランドは志願兵として[[ジョン・ノリス]]指揮下の艦隊で、{{要出典範囲|1740年には[[ジェンキンスの耳の戦争]]などの戦闘に参加した|date=2012年9月}}が、すぐに[[イギリス海軍|海軍]]に嫌気がさし、代わりに、[[1741年]][[2月20日]]に[[グレナディアガーズ|第一近衛歩兵連隊]]の[[大佐]]の地位を約束された<ref>{{LondonGazette|issue=8094|supp=| === オーストリア継承戦争 ===
[[
[[1742年]]、カンバーランドは陸軍[[少将]]となり、翌[[1743年]]に初めて自らが戦う戦場を目の当たりにした<ref name=odnb/>。勇猛な息子︵martial boy︶といわれたカンバーランドは[[デッティンゲンの戦い]]の勝利を父と分かち合い<ref>{{LondonGazette|issue=8286|supp=| [[File:MarechalMauricedeSaxedeLaTour.jpg|thumb|120px|left|フランス軍元帥モーリス・ド・サックス]]
[[1745年]]、カンバーランドはイギリス陸軍総司令官の称号を得て、経験がなかったにもかかわらず、[[フランドル]]でイギリスとハノーファー、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]連合軍の総指揮を執った。当初カンバーランドはフランスに攻撃を仕掛け、[[パリ]]攻略に持って行く流れを作りたがったが、顧問の軍人達から敵軍が圧倒的な数的優勢に立っているため、不可能であると説得された<ref>Browning p. 206</ref>。やがてフランス側の意図が[[トゥルネー]]を取ることであることが明らかになり、カンバーランドは[[モーリス・ド・サックス]][[元帥]]が包囲しているこの町の救援に向かった<ref>Browning p. 212</ref>が、[[1745年]][[5月11日]]の[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]の結果、イギリス・オランダ・オーストリア連合軍はフランスに敗れた。 敗因はサックスがイギリス軍相手に戦場を選び、近くの森に狙撃兵を多数配備したのに対し、カンバーランドは作戦計画を立てた時点で森に兵が隠れているという脅威を無視しており、代わりにフォントノワの包囲に専心して、近くにいたフランス軍の主軍に攻撃を仕掛けたことと、フランスの拠点への攻撃の集中で、連合軍が勝つだろうと多くが思ったにもかかわらず森から狙撃兵を追わなかったこと、フォントノワを陥落させようとするオランダ軍のために、カンバーランドの兵が撤退せざるを得なくなったことなどであった。 62 ⟶ 57行目:
===カロデンの戦い===
[[File:Cumberland's Stone - geograph.org.uk - 976487.jpg|thumb|180px {{Main|カロデンの戦い}}
[[1746年]][[1月30日]]にカンバーランドは[[エディンバラ]]に着き、すぐにチャールズの探索に入った。[[アバディーン]]まで遠回りをして<ref>{{LondonGazette|issue=8521|supp=| 1746年の[[4月8日]]、カンバーランドはアバディーンを出発して[[インヴァネス]]に向かい、[[4月16日]]に天王山ともいうべきカロデンの戦いを戦い、チャールズを完敗させた<ref name=pollard/>。カンバーランドは兵たちに、ジャコバイトの反逆者の残党に対して、容赦ない攻撃を加えるように命令した︵このジャコバイト軍では、フランス軍の兵や、イギリスや[[アイルランド]]生まれの者も正規な兵士とされていた︶。カンバーランドの軍は戦場をくまなく歩き回り、まだ息のある敵兵を突いて去って行った<ref name=thompson>Thompson, p.519</ref>。カンバーランドは、足元に横たわっている負傷兵が反乱軍であると知り、[[少佐]]にその者を撃つように命じた。少佐が命令を拒むと、一 その後イギリス軍は、ハイランドのジャコバイトが支配する地域でのいわゆる﹁平和活動﹂に乗り出した。反乱軍はみな殺され、兵士でないものも殺された。反乱軍に関係した集落は焼かれ、[[家畜]]は大々的に没収された<ref>Plank, p.116</ref>。100人以上の反逆者が[[絞首刑]]にされた<ref>Clee, p.42</ref>。女たちは投獄され、多くの人間が裁判のため船でロンドンに運ばれたが、8か月に及ぶ旅の途中でその多くが死んだ<ref name=thompson/>。 === 屠殺者カンバーランド ===
[[File:Frederick, Prince of Wales 1754 by Liotard.jpg|thumb|120px
﹁屠殺者﹂は、政治がらみの皮肉として、ロンドンで最初に記録に残されたものである<ref>{{cite web|url=http://www.fullbooks.com/The-Letters-of-Horace-Walpole-Volume15.html |title=The Letters of Horace Walpole, Volume 1 by Horace Walpole Part 15 out of 18 |publisher=Fullbooks.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref><ref name=Britannica>{{cite web|author=Encyclopædia Britannica |url=http://www.britannica.com/eb/article-9028181/William-Augustus-duke-of-Cumberland |title=Encyclopadia Britannica |publisher=Britannica.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。兄で王太子のフレデリック・ルイスは、父王の代理で従軍する許可が下りておらず、カンバーランドへの悪意のある攻撃を奨励しているようにも見えた。カンバーランドによって、すぐに戦争が終わったと言っても過言ではない。スコットランド住民の大部分、そのスコットランド人以外のイギリス国民、そして植民地の住人が、ジャコバイトの威嚇からの救世主として彼を持てはやした。その一例として、カンバーランドは[[グラスゴー大学]]から、名誉学位を授与されていた<ref name=Britannica/>。 100 ⟶ 95行目:
カンバーランド公位は一旦消滅し、後に甥の[[ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)|ヘンリー・フレデリック]]が、再度設けられたカンバーランド公爵に叙された<ref>[http://www.hereditarytitles.com/Page34.html HRH The duke of Cumberland and Teviotdale]</ref>。
=== 競走馬の生産 ===
カンバーランドは[[競走馬]]生産に力を入れ、1750年からウィンザーで馬産を始めた<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Herod.html Herod]</ref>。[[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]、[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]といった[[サラブレッド]]前史における最重要とも言える名馬を送り出したことはカンバーランドの功績であり、現代競馬に多大な貢献をしたと言える<ref>[http://specialweek.gozaru.jp/horses/herod.html ヘロド]</ref>。 == グレートブリテン王国の称号、栄典そして公式紋 ==
===称号===
* ウィリアム王子殿下<ref name="gaz" />
* カンバーランド公爵殿下<ref name="gaz" />
=== 栄典 ===
[[File:Arms of William Augustus, Duke of Cumberland.svg|thumb|150px
'''グレートブリテン王国の栄典'''
* [[ガーター勲爵士]] (1730年)<ref name=odnb/>
* [[バス勲爵士]](1725年)<ref name=Kiste78/>
* [[枢密顧問官]](1742年)<ref>{{LondonGazette|issue=8119|supp=|
'''学問関連'''
* [[ダブリン大学]][[総長]](1751年-1765年)<ref>{{cite web|url=http://www.tcd.ie/chancellor/former/|title=Former Chancellors|publisher=University of Dublin|accessdate=5 May 2012}}</ref>
=== 公式紋 ===
1725年[[7月20日]]、君主の孫として、カンバーランドはグレートブリテン王国の[[公式紋]]の使用を許可された。この時の紋章は、銀の地に5つの星、真ん中の星に赤の十字、、それ以外の星は赤のカントン︵盾︶を背景にしている。[[1727年]][[8月30日]]には、王子の公式紋の使用を許可された。それには星が3つ、中央の星に十字があしらわれている<ref>{{cite web|author=Francois R. Velde |url=http://www.heraldica.org/topics/britain/cadency.htm |title=Marks of Cadency in the British Royal Family |publisher=Heraldica.org |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。 == 後年へ遺されたもの ==
[[Image:CumberlandObelisk.jpg|thumb|120px|right|ウィンザー・グレートパークのオベリスク]]
[[ヴァージニア]]の[[プリンス・ウィリアム郡]]は彼の名にちなむ<ref>{{cite web|url=http://capitolwords.org/date/2006/09/29/E1975-2_commemorating-the-275th-anniversary-of-prince-will/|title=Commemorating the 275th anniversary of Prince William County, Virginia|publisher=Sunlight Foundation|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[13植民地|アメリカ植民地]]には、他にもさまざまなところで彼にちなんだ地名があり、[[カンバーランド川]]<ref>{{cite web|url=http://historicalmarkers.photoshelter.com/image/I0000j6uhnukVrCw|title=KY-2045 Naming of the Cumberland River|publisher=Historical markers|accessdate=5 May 2012}}</ref>、[[カンバーランド峡谷]]<ref>{{cite web|url=http://historicalmarkers.photoshelter.com/image/I0000cXU4MXgbB00|title=VA-K1 Cumberland Gap|publisher=Historical markers|accessdate=5 May 2012}}</ref>、[[カンバーランド山脈]]などがある<ref>{{cite web|url=http://www.1911encyclopedia.org/Cumberland_Mountains|title=1911 Classic Encyclopedia|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[2005年]]には、{{仮リンク|BBCヒストリーマガジン|en|BBC History}}の'''イギリス史上最悪の人物賞'''の[[18世紀]]部門賞を﹁受賞﹂した<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/low/uk/4561624.stm |title='Worst' historical Britons list |publisher=BBC News |date=2005-12-27 |accessdate=2010-06-21}}</ref>。{{要出典範囲|彼の伝記が[[1766年]]および[[1876年]]に出版された|date=2012年9月}}。 129 ⟶ 124行目:
[[ウィンザー・グレートパーク]]には、カンバーランドの軍功を記念した[[オベリスク]]がある。このオベリスクにはこう刻まれている。﹁このオベリスクは国王ジョージ2世の、王子カンバーランド公爵ウィリアムの戦功と父王への謝意を記念するという命令により建立された。この[[銘板]]は国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世陛下]]により刻まれた﹂とある。現地のガイドによると、元々は﹁カロデン﹂の地名が入っていたが、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]がカロデンの地名を撤去させたということである<ref>East Berks Ramblers Map, ISBN 978-1-874258-18-6</ref>。 == 脚注 ==
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|last=Browning|first=Reed|title=The War of the Austrian Succession|publisher=Palgrave MacMillan|year=1995|isbn=978-0-312-12561-5}}
* Charteris, Evan: ''William Augustus, Duke of Cumberland and the seven years' war'', London 1925.
149 ⟶ 144行目:
* {{cite book|last=Thurley|first=Simon|title=Hampton Court: A Social and Architectural History|publisher=Yale University Press|year=2003|isbn=978-0-300-10223-9}}
* {{cite book|last=Van der Kiste|first=John|title=George II and Queen Caroline|publisher=Sutton Publishing|year=1997|isbn=0-7509-1321-5}}
* {{1911|wstitle=Cumberland, William Augustus, Duke of|volume=7|page=623-624}}
* Whitworth, Rex: ''William Augustus, Duke of Cumberland: a life'', London 1992.
== 参考図書 ==
* {{cite book|last=Henderson|first=Andrew|title=A Life of the Duke of Cumberland|year=1766}}
* {{cite book|last=Maclachlan|first=Campbell|title=William Augustus, Duke of Cumberland|publisher=|year=1876|isbn=}}
162 ⟶ 157行目:
* [[カンバーランド川]]
== 外部リンク ==
* [http://www.highlanderweb.co.uk/culloden/theduke.htm Culloden - The Black Watch]
* [http://www.yourphotocard.com/Ascanius/Home.htm Ascanius; or, the Young Adventurer]
* {{UK National Archives ID|F71108}}
* {{UK National Archives ID|F257997}}
{{S-start}}
{{S-hou|ハノーヴァー家|1721年|4月26日|1765年|10月31日|ヴェルフ|name=ウィリアム・オーガスタス}}
190 ⟶ 185行目:
|years=[[1746年]] - [[1765年]]
|before=[[ジェームズ・ブリッジス (初代シャンドス公爵)|シャンドス公爵]]
|after=[[トマス・ヘイ (第9代キノ
}}
{{S-bef|before=[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|プリンス・オブ・ウェールズ]]}}
206 ⟶ 201行目:
[[Category:イギリス陸軍の軍人]]
[[Category:イギリスの枢密顧問官]]
[[Category:18世紀の軍人]]
[[Category:カンバーランド公]]
[[Category:グレートブリテン王子]]
[[Category:ジョージ2世の子女]]
[[Category:ハノーヴァー家]]
[[Category:バス勲章ナイト・コンパニオン]]
[[Category:ガーター勲章]]
[[Category:王立協会王族フェロー]]
[[Category:馬主]]
[[Category:競走馬生産者]]
[[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]]▼
[[Category:オーストリア継承戦争の人物]]
[[Category:1745年ジャコバイト蜂起の人物]]
[[Category:七年戦争の人物]]
[[Category:ウェストミンスター寺院に埋葬された人物]]
▲[[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]]
[[Category:1721年生]]
[[Category:1765年没]]
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