「ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Botによる: Bot作業依頼 {{London Gazette}}の更新に伴う修正 |
|||
(10人の利用者による、間の12版が非表示) | |||
21行目:
| 配偶者1 =
| 子女 =
| 家名 = [[ハノーヴァー朝|ハノーヴァー家]]
| 父親 = [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]
| 母親 = [[
| 役職 = イギリス陸軍将校他
}}
'''カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス'''︵{{lang-en-short|William Augustus, Duke of Cumberland}}, [[1721年]][[4月26日]] - [[1765年]][[10月31日]]︶は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の[[王族]]・[[軍人]]である。イギリス国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と[[ == 生涯 ==
33 ⟶ 35行目:
1721年、[[レスターフィールズ]]︵現在の[[ウェストミンスター]]、[[レスター・スクウェア]]︶の[[レスターハウス]]で生まれた。ここは祖父である[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]がイギリス国王として即位した後に両親が移り住んだ場所であった<ref name=odnb>{{cite web|url=http://www.oxforddnb.com/view/article/29455|title=Prince William, Duke of Cumberland|publisher=Oxford Dictionary of National Biography|accessdate=5 May 2012}}</ref>。ウィリアムには[[名親]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]や[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー王妃]]︵ウィリアムの父方の叔母︶がいたが、王や王妃自身ではなく代理の人物が務めたといわれる<ref>{{cite web|url=http://users.uniserve.com/~canyon/christenings.htm#Christenings |title=Yvonne's Royalty Home Page: Royal Christenings |publisher=Users.uniserve.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。1726年7月27日<ref name="creation">{{cite web|url=http://mypage.uniserve.ca/~canyon/peerage_titles.htm#Holders |title=Yvonne's Royalty: Peerage |publisher=Mypage.uniserve.ca |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>、わずか4歳にしてカンバーランド公、[[ハートフォード・カウンティ]]の[[バークハムステッド侯爵]]、[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[ケニングトン伯爵]]、[[コーンウォール・カウンティ]]の[[トレメイトン子爵]]、そして[[オルダニー島]]の男爵に叙された<ref name="gaz">{{LondonGazette|issue=6494|supp=|page=1|date=12 July 1726|accessdate=5 May 2012}}</ref>。{{要出典範囲|ジョージ2世はカンバーランドを溺愛し、長男である王太子[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]︵[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の父︶以上に遺産を残そうと考えていたともいわれる|date=2012年9月}}。 幼いカンバーランドは母 カンバーランドは子供の頃から勇敢であり、肉体的な能力にもすぐれていて、それが両親のお気に入りだった<ref>Van der Kiste, p. 111</ref>。4歳の時に[[第二歩兵近衛連隊]]に登録され、[[バス勲章]]を授与された<ref name=Kiste78>Van der Kiste, p. 78</ref>。国王夫妻はカンバーランドを[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]に入れるつもりだった。[[1740年]]、カンバーランドは志願兵として[[ジョン・ノリス]]指揮下の艦隊で、{{要出典範囲|1740年には[[ジェンキンスの耳の戦争]]などの戦闘に参加した|date=2012年9月}}が、すぐに[[イギリス海軍|海軍]]に嫌気がさし、代わりに、[[1741年]][[2月20日]]に[[グレナディアガーズ|第一近衛歩兵連隊]]の[[大佐]]の地位を約束された<ref>{{LondonGazette|issue=8094|supp=|page=2|date=16 February 1741|accessdate=5 May 2012}}</ref>。 41 ⟶ 43行目:
[[1742年]]、カンバーランドは陸軍[[少将]]となり、翌[[1743年]]に初めて自らが戦う戦場を目の当たりにした<ref name=odnb/>。勇猛な息子︵martial boy︶といわれたカンバーランドは[[デッティンゲンの戦い]]の勝利を父と分かち合い<ref>{{LondonGazette|issue=8286|supp=|page=2|date=20 December 1743|accessdate=5 May 2012}}</ref>、この戦いで脚に[[マスケット銃]]によるけがを負った<ref name=odnb/>が、戦後陸軍[[中将]]に就任した<ref>{{LondonGazette|issue=8240|supp=|page=4|date=12 July 1743|accessdate=5 May 2012}}</ref>。 [[File:MarechalMauricedeSaxedeLaTour.jpg|thumb|120px|left|フランス軍元帥モーリス・ド・サックス]]
[[1745年]]、カンバーランドはイギリス陸軍総司令官の称号を得て、経験がなかったにもかかわらず、[[フランドル]]でイギリスとハノーファー、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]連合軍の総指揮を執った。当初カンバーランドはフランスに攻撃を仕掛け、[[パリ]]攻略に持って行く流れを作りたがったが、顧問の軍人達から敵軍が圧倒的な数的優勢に立っているため、不可能であると説得された<ref>Browning p. 206</ref>。やがてフランス側の意図が[[トゥルネー]]を取ることであることが明らかになり、カンバーランドは[[モーリス・ド・サックス]][[元帥]]が包囲しているこの町の救援に向かった<ref>Browning p. 212</ref>が、[[1745年]][[5月11日]]の[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]の結果、イギリス・オランダ・オーストリア連合軍はフランスに敗れた。 敗因はサックスがイギリス軍相手に戦場を選び、近くの森に狙撃兵を多数配備したのに対し、カンバーランドは作戦計画を立てた時点で森に兵が隠れているという脅威を無視しており、代わりにフォントノワの包囲に専心して、近くにいたフランス軍の主軍に攻撃を仕掛けたことと、フランスの拠点への攻撃の集中で、連合軍が勝つだろうと多くが思ったにもかかわらず森から狙撃兵を追わなかったこと、フォントノワを陥落させようとするオランダ軍のために、カンバーランドの兵が撤退せざるを得なくなったことなどであった。 59 ⟶ 61行目:
[[1746年]][[1月30日]]にカンバーランドは[[エディンバラ]]に着き、すぐにチャールズの探索に入った。[[アバディーン]]まで遠回りをして<ref>{{LondonGazette|issue=8521|supp=|page=2|date=22 March 1746|accessdate=5 May 2012}}</ref>、来たる戦闘で彼の指揮下となる、装備を整えた部隊の鍛錬に時間を費やした。カンバーランドの鍛錬は、まず、射程内に敵が入るまで射撃を行わないこと、一度射撃すると敵の右側を[[銃剣]]で突くことだった。こうすることで、相手の剣を掲げた腕の下に入るからだった<ref>Bellesiles, p.145</ref>。 1746年の[[4月8日]]、カンバーランドはアバディーンを出発して[[インヴァネス]]に向かい、[[4月16日]]に天王山ともいうべきカロデンの戦いを戦い、チャールズを完敗させた<ref name=pollard/>。カンバーランドは兵たちに、ジャコバイトの反逆者の残党に対して、容赦ない攻撃を加えるように命令した︵このジャコバイト軍では、フランス軍の兵や、イギリスや[[アイルランド]]生まれの者も正規な兵士とされていた︶。カンバーランドの軍は戦場をくまなく歩き回り、まだ息のある敵兵を突いて去って行った<ref name=thompson>Thompson, p.519</ref>。カンバーランドは、足元に横たわっている負傷兵が反乱軍であると知り、[[少佐]]にその者を撃つように命じた。少佐が命令を拒むと、一 その後イギリス軍は、ハイランドのジャコバイトが支配する地域でのいわゆる﹁平和活動﹂に乗り出した。反乱軍はみな殺され、兵士でないものも殺された。反乱軍に関係した集落は焼かれ、[[家畜]]は大々的に没収された<ref>Plank, p.116</ref>。100人以上の反逆者が[[絞首刑]]にされた<ref>Clee, p.42</ref>。女たちは投獄され、多くの人間が裁判のため船でロンドンに運ばれたが、8か月に及ぶ旅の途中でその多くが死んだ<ref name=thompson/>。 123 ⟶ 125行目:
== 脚注 ==
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
183 ⟶ 185行目:
|years=[[1746年]] - [[1765年]]
|before=[[ジェームズ・ブリッジス (初代シャンドス公爵)|シャンドス公爵]]
|after=[[トマス・ヘイ (第9代キノ
}}
{{S-bef|before=[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|プリンス・オブ・ウェールズ]]}}
199 ⟶ 201行目:
[[Category:イギリス陸軍の軍人]]
[[Category:イギリスの枢密顧問官]]
[[Category:18世紀の軍人]]
[[Category:カンバーランド公]]
[[Category:グレートブリテン王子]]
[[Category:ジョージ2世の子女]]
[[Category:ハノーヴァー家]]
[[Category:バス勲章ナイト・コンパニオン]]
[[Category:ガーター勲章]]
[[Category:王立協会王族フェロー]]
[[Category:馬主]]
[[Category:競走馬生産者]]
[[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]]▼
[[Category:オーストリア継承戦争の人物]]
[[Category:1745年ジャコバイト蜂起の人物]]
[[Category:七年戦争の人物]]
[[Category:ウェストミンスター寺院に埋葬された人物]]
▲[[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]]
[[Category:1721年生]]
[[Category:1765年没]]
|