「ウスマーン・イブン・アッファーン」の版間の差分
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[[File:Rashidun Caliph Uthman ibn Affan - عثمان بن عفان ثالث الخلفاء الراشدين.svg|right|190px]]
{{基礎情報 君主
| 人名 = ウスマーン・イブン・アッファーン
| 各国語表記 = {{lang|ar|عثمان ابن عفّان بن ابي العاص بن امية}}
| 君主号 = [[カリフ]]
| 画像 = Balami_-_Tarikhnama_-_the_election_of_'Othman_as_the_caliphate_of_Medina_(cropped).jpg
| 画像サイズ = 300px
| 画像説明 = カリフに選出されるウスマーン
| 在位 = [[644年]] - 656年
| 戴冠日 = 644年[[11月7日]]
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}}
'''ウスマーン・イブン・アッファーン'''︵{{lang-ar|عثمان ابن عفّان بن ابي العاص بن ムハンマドの妻[[ハディージャ・ビント・フワイリド|ハディージャ]]を除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている<ref name="seito11">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、11頁</ref>。[[クルアーン]]︵コーラン︶の読誦に長けた人物として挙げられることが多い7人のムハンマドの直弟子には、ウスマーンも含まれている<ref>小杉﹃イスラーム文明と国家の形成﹄、297頁</ref>。[[651年]]頃、ウスマーンの主導によって、各地に異なるテキストが存在していたクルアーンの版が統一される<ref>佐藤﹃イスラーム世界の興隆﹄、83,358頁</ref>。656年にウスマーンは反乱を起こした兵士によって{{仮リンク|ウスマーンの暗殺|en|Assassination of Uthman|label=殺害}}され、その死はイスラーム史上初めてカリフが同朋のイスラム教徒に殺害された事件として記憶された<ref>ルイス﹃イスラーム世界の二千年﹄、101頁</ref>。莫大な財産を有していたことから、ウスマーン・ガニー︵﹁富めるウスマーン﹂の意︶と呼ばれた<ref name="seito7">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、7頁</ref>。また、ムハンマドの2人の娘と結婚していたことから、ズンヌーライン == 生涯 ==
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=== イスラームへの改宗 ===
ウスマーンが改宗した理由について、彼がムハンマドの娘の[[ルカイヤ・ビント・ムハンマド|ルカイヤ]]に恋焦がれていたためだと言われている<ref>余部﹃イスラーム全史﹄、39頁</ref><ref>アンヌ=マリ・デルカンブル﹃ムハンマドの生涯﹄︵改訂新版, 後藤明監修, 小林修、高橋宏訳, ﹁知の再発見﹂双書, 創元社, 2003年9月︶、47頁</ref>。ウスマーンは密かにルカイヤを想っていたがムハンマドに結婚を言い出す事が出来ず、ルカイヤはムハンマドの従兄弟ウトバの元に嫁いだ<ref name="seito9">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、9頁</ref>。叔母のスウダーに相談したウスマーンは、やがてムハンマドに重大な出来事が起こり、その時にはルカイヤが自分の下に嫁ぐと言われ、叔母からの助言を心に留め置いた<ref name="seito9"/>。610年初頭、ウスマーンは旅先でマッカに預言者が現れた声を聞き、マッカに戻ったウスマーンは友人の[[アブー・バクル]]の勧めを受けてムハンマドに帰依した<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、10頁</ref>。 クライシュ族内ではウマイヤ家とムハンマドが属する[[ハーシム家]]の対立が ムハンマドがハーシム家の人間から迫害を加えられた時、ウトバ親子もムハンマドを ウスマーンとルカイヤは幸福な結婚生活を送っていたがクライシュ族内でのイスラーム教徒への迫害は激しさを増し、ウスマーンはムハンマドと話し合った末、交易でつながりのあったエチオピアへの避難を決定した<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、18-19頁</ref>。[[615年]]<ref name="horupu"/>、ウスマーン夫妻は信徒を連れて[[エチオピア]]に移住する。移住先のエチオピア王国では歓迎を受け、マッカ時代と同じように交易を続け、貧窮した人間に援助を与えた<ref name="seito19">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、19頁</ref>。また、エチオピア滞在中にルカイヤとの間に男子が生まれ、ウスマーンは息子にアブドゥッラーと名付けた<ref name="seito19"/>。移住から2年後にマッカのクライシュ族がイスラム教を受け入れた報告を受け取り、ウスマーン夫妻は何人かの信徒を連れてマッカに帰国した<ref name="seito20">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、20頁</ref>。帰国後、報告が誤りだと分かった後もウスマーンたちはマッカに留まり続け、迫害に耐え続けた。 55 ⟶ 56行目:
=== ヒジュラ後 ===
マディーナで新たな生活を始めたウスマーンは、[[ユダヤ教徒]]に独占されている商行為にイスラム教徒も参入するべきだと考え、マッカから運び込んだ財産を元手に商売を始める<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、22頁</ref>。ウスマーンはマディーナでも慈善事業に携わり、ムハンマドの邸宅と[[モスク]]︵寺院︶の建立に必要な土地を購入する資金を捻出した<ref name="seito23">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、23頁</ref>。また、水の確保にも尽力し、ユダヤ教徒と交渉し [[624年]]頃にマディーナで[[天然痘]]が流行し、ルカイヤは天然痘に加えて[[マラリア]]に罹る<ref name="seito24">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、24頁</ref>。同624年の[[バドルの戦い]]ではウスマーンは従軍を志願したが、ムハンマドは自分の代理としてマディーナに残り、ルカイヤの看病をするように命じた。バドルでイスラム軍とクライシュ族が交戦している時にルカイヤは病没し、マディーナに勝利の知らせが届いたときには彼女の埋葬は終えられていた<ref name="seito24"/>。バドルの戦いから1年 [[628年]]3月にムハンマドがカアバ神殿巡礼のためにマッカに向かった時、同行したウスマーンはマッカのクライシュ族との交渉役を任せられる。交渉の後、ムハンマドとマッカの間に和約が成立した︵[[フダイビーヤの和議]]︶。和議はクライシュ族にとって一方的に有利な内容になっていたため、イスラム教徒の中には和議に不服な人間も多かったが、ウスマーンはクライシュ族の中にイスラム教徒が増えてやがて事態は好転すると考えていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、33頁</ref>。ウスマーンの予測は当たり、クライシュ族内の有力者にイスラームに改宗する者が多く現れる<ref name="seito34">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、34頁</ref>。信徒の増加に伴うマディーナのモスクの増築にあたっては、ウスマーンは工事費の全額を負担し、自らもレンガを運んで工事に参加した<ref name="seito34"/>。 632年6月9日にムハンマドが没し、マディーナでその知らせを聞いたウスマーンは憔悴するが、アブー・バクルの励ましを受けて立ち直る<ref name="seito46">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、46頁</ref>。アブー・バクルがカリフに就任した後、ウスマーンは[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]の次に[[バイア (イスラーム)|バイア]]︵忠誠の誓い︶を示した<ref name="#1">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、48頁</ref>。厳格なウマルがカリフに就任した後、ウマルは自分に正面から意見をするウスマーンに信頼を置いていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、50頁</ref>。ウスマーンは若者の多いイスラム教徒の間で温厚な人物として尊敬を受けていたが、ウマルの治世の末期まで目立った動向は無かった<ref name="horupu"/>。ウスマーンは政治顧問としてマディーナに留まり、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]︵イスラーム共同体︶の運営に従事していた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、50-51頁</ref>。 === カリフ即位後 ===
ウスマーンは死に瀕したウマルから後継者候補の一人に指名され、同じく後継者候補に指名された[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]、[[タルハ]]、[[ズバイル・イブン・アウワーム|ズバイル]]、[[アブドゥッラフマーン・イブン・アウフ]]、[[サアド・イブン・アビー・ワッカース]]らクライシュ族出身の[[ムハージルーン]]︵マッカ時代からのムハンマドの信徒でマディーナに移住した人間︶の長老と会議︵シューラー︶を開いた。カリフの候補者はウスマーンとアリーに絞られ、アウフが議長を務めた<ref name="kosugi180">小杉﹃イスラーム文明と国家の形成﹄、180頁</ref><ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、56-57頁</ref>。ウマルが没してから3日間、アウフは指導者層以外のマディーナの人間にもいずれがカリフに適しているかを諮り、最終的にウスマーンをカリフの適格者に選んだ<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、57-58頁</ref>。644年11月7日、ウスマーンはマディーナのモスクでバイアを受け、カリフに即位する<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、58-60頁</ref>。ウスマーンはカリフという職務に強い重圧を感じ、最初の演説を行うために説教台に登った彼の顔色は悪く、演説はたどたどしいものとなったと伝えられている<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、61頁</ref>。クライシュ族の長老たちにはウスマーンの支持者が多く、アリーの主な支持者であるアンサール︵ヒジュラより前にマディーナに住んでいたイスラム教徒︶には発言権が無かったことが、ウスマーンのカリフ選出の背景にあったと考えられている<ref name="kosugi180"/>。さらに別の説として、ウマル時代の厳格な統治からの脱却を望んだ多くの人々が、禁欲的な生活を求めるアリーではなく、ウスマーンを支持したためだとも言われている<ref name="seito64">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、64頁</ref>。史料の中には、他の長老からの﹁先任の二人のカリフの慣行に従うか﹂という質問に、ウスマーンは﹁従う﹂と断言し、アリーは﹁努力する﹂と答えたことが選出の決め手になったと記したものもある<ref name="kosugi180"/>。 645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの地中海沿岸部は 治世の後半、エジプトやイラクではウスマーンの政策への不満が高まった<ref name="ii-jiten"/>。シリアにはウマルの時代に総督に任命された[[ムアーウィヤ]]を引き続き駐屯させ、エジプトにはウスマーンの乳兄弟であるイブン・アビー・サルフが総督として配属された。ウスマーンが実施したウマイヤ家出身者の登用政策は一門による権力の独占として受け取られ、イスラム教徒の上層部と下級の兵士の両方に不満を与えた<ref name="horupu"/>。[[バスラ]]や[[クーファ]]に駐屯する兵士は俸給の削減によって苦しい生活を送り、地方公庫からの現金の支給を要求したが、総督は彼らの要求を容れなかった<ref>佐藤﹃イスラーム世界の興隆﹄、83-84頁</ref>。ウスマーンの治世の末期には、反乱とウスマーンの暗殺が計画されている噂が流れていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、119頁</ref>。 75 ⟶ 76行目:
数百人の反乱者はウスマーンの邸宅を取り囲んで方針の転換を要求し、ウスマーンの政策に不満を抱くマディーナの住民は彼を助けようとしなかった<ref>余部﹃イスラーム全史﹄、60頁</ref>。ウスマーンはイスラームとマディーナの守護のために各地の総督に援軍の派遣を要請し、またウスマーンの元を訪れた教友たちは反乱者の討伐、あるいは亡命を進言したが、ウスマーンは攻撃を拒んで邸宅に残った<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、131-136頁</ref>。6月17日、兵士たちは彼の邸宅に押し入り、包囲の中でもウスマーンはクルアーンを読誦していた。アブー・バクルの子ムハンマドが最初にウスマーンを切りかかり<ref name="hit">ヒッティ﹃アラブの歴史﹄、344-345頁</ref>、ウスマーンは切りつけられながらもなおクルアーンの読誦を続けていた<ref name="maejima116">前嶋信次﹃イスラム世界﹄、116頁</ref>。深手を負った後もウスマーンはなおクルアーンを抱きかかえ、クルアーンは彼の血で赤く染まったという<ref name="maejima116"/><ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、141-142頁</ref>。ウスマーンを殺害した兵士たちは、国庫から財産を奪って逃走した<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、142頁</ref>。 ウスマーンの遺体は、殺害当日の日没の礼拝と夜の礼拝の間の時間にマディーナのハッシュ・カウカブに密かに埋葬される<ref name="seito147"/>。ウスマーンの墓の側には、彼を助けようとして殺害された召使いのサビーフとナジーフの遺体が埋葬された<ref name="seito147"/>。ハッシュ・カウカブは墓地であるバギーウの東に位置し、ハッシュ・カウカブを買い上げたウスマーンはこの場所が将来墓地となることを予見していたが、彼自身が最初に墓地に埋葬された人間となった<ref name="seito147"/>。ムアーウィヤはウマイヤ朝の建国後にハッシュ・カウカブのウスマーンの墓を詣で、土地の周りを取り囲んでいた壁を壊して、この地を墓地にするように命令した。また、ウスマーンが読んでいたと伝えられるクルアーンの写本は、[[タシュケント]]︵[[ウスマーン写本]]︶<ref>小松久男﹁ウスマーンのクルアーン﹂﹃岩波イスラーム辞典﹄収録︵岩波書店, 2002年2月︶、197頁</ref>、[[イスタンブール]]の[[トプカプ宮殿]]︵[[トプカプ写本]]︶<ref>佐藤﹃イスラーム世界の興隆﹄、84頁</ref>に保管されている。 没時のウスマーンの年齢は80歳、85歳、あるいはイスラム教徒にとって重要な年齢である63歳と諸説ある<ref name="seito4"/><ref group="注">預言者ムハンマド、前任のカリフであるアブー・バクルとウマルは全員63歳で亡くなったため、ウスマーンの没年を彼らに合わせ、彼の死に特別な意味合いを付加する試みがされたと考えられている︵森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、4頁︶</ref>。歴史家の[[マスウーディー]]はウスマーンが没した時、彼の財産として == 政策 ==
ウスマーンは政策を決定する場合には、古参の信徒や有識者からなる委員の合議にかけて意見を聞いていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、72-73頁</ref>。アラブ人は短期間で広大な支配地を獲得したものの、統一された支配体制は未だに確立されていなかった<ref name="horupu"/>。行政の円滑化と中央集権化を推進するため、ウスマーンは自身の出身であるウマイヤ家の人間を中央・地方の要職に抜擢し<ref name="horupu"/>、彼がとった縁故主義は批判に晒された<ref name="hit"/><ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、99-101頁</ref>。ウスマーンによるウマイヤ家出身者の起用に対し、ムハンマドの寡婦[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]は、ムハンマドの形見の衣服がそのまま残っているほど時間が経っていないのに、ウスマーンはスンナを忘れたのかと批判した<ref>小杉﹃イスラーム文明と国家の形成﹄、187頁</ref>。アリーは、トラカーウ︵[[630年]]のムハンマドのマッカ征服に際してイスラームに改宗した人間︶であるウマイヤ家出身の総督が統治者にふさわしくないと考えていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、107頁</ref>。ウマイヤ家出身の総督の解任を望む多くの教友に対し、ウスマーンは総督たちの行状を確認するために古参の教友を各地に派遣し、解任に相当する事由がない報告を受け取った<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、105-106頁</ref>。 650年の征服戦争の終結は、軍事行動に従事した兵士から戦利品による収入を絶ち、兵士たちは政府から支給されるわずかな俸給で生活していかなければならなくなった<ref name="horupu"/>。兵士たちはマディーナで富と権力を独占するイスラーム教徒の上層部に不満を抱き、彼らの第一人者であるウスマーンに憎しみが集中した<ref name="horupu"/>。 ウスマーン時代に実施されたサワーフィー︵アラブ人がイラクで獲得した土地のうち、皇帝、神殿、貴族の所有地を指して呼ばれた地域︶の収入の変更について、[[歴戦の民]]︵[[シャイバーン族]]やマフズーム家の[[ハーリド・イブン・アル=ワリード]]配下の兵士など、アラブの征服事業に初期から参加していた兵士︶から反対の声が上がった<ref>余部﹃イスラーム全史﹄、51,58-60頁</ref>。従来はサワーフィーから上がる収益の80%が戦利品として土地の所有者の手に渡り、残りの20%がカリフの取り分とされていたが、戦利品の減少によって収益の全てがカリフの取り分とされた<ref name="amarube60">余部﹃イスラーム全史﹄、60頁</ref>。このため、655年にイラク総督は捕らえられ、代わりに現地の事情に詳しいアブー・ムーサー・アル=アシュアリーが総督に擁立された<ref name="amarube60"/>。 イスラーム国家が獲得した莫大な富について、ウスマーンは前任のカリフ・ウマルと同様に、イスラム教徒に危険な存在であると認識していた<ref name="seito64"/>。同時に財産は生活を富ませる事も出来るものだと捉えており、入手方法と使用方法が合法的なものであれば、一般の人々であっても享楽を楽しむことが許されると考えていた<ref name="seito65">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、65頁</ref>。金銭の欲望を制御してきた自分自身の経験から、ウスマーンはウマルのように金銭に対する欲望は際限のないものだと考えず、彼の統治下では豪奢な生活を送ることが認められていた<ref name="seito65"/>。ウスマーンの時代に、ウマイヤ家の総督を含む多くのウンマ︵イスラーム共同体︶の人々が奢侈を好むようになったと言われている<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、111頁</ref>。こうした社会状況下でウスマーンが自分自身、あるいは一門のために国庫の財産を流用している噂が流れたが<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、110-111頁</ref>、 ウスマーンの最大の事業として、各地に様々な版が存在していた[[クルアーン]]︵コーラン︶の統一が挙げられる<ref name="ii-jiten"/><ref>前嶋信次﹃イスラム世界﹄、117頁</ref>。ムハンマドの存命中からクルアーンを書物の形にまとめる事業が続けられていたが、ウスマーンの時代には少なくとも4種類のクルアーンのテキストが存在し、文章と読み方は互いに異なっていた<ref name="horupu"/>。新たに改宗した非アラブ人の間では、それぞれが読むクルアーンの文が異なる問題が顕著になっていた<ref name="maejima116"/><ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、91-92頁</ref>。ウスマーンはザイド・イブン・サービトを中心とする委員にクルアーンの﹁正典﹂を編集させ、他の版をすべて破棄させた。後世に作成されたクルアーンは、すべてウスマーン版︵rasm Uthmānī︶のクルアーンに合致するものとされている<ref name="ii-jiten"/>。ウスマーンの編纂事業より前に成立したクルアーンの中には廃棄を逃れたものもあり、イブン・アビー・ダーウードらによってクルアーン解釈学の資料として用いられた<ref name="amarube137">余部﹃イスラーム全史﹄、137頁</ref>。当時の人間からは不信仰にあたる行いとして激しい非難を受け<ref name="horupu"/>、ウスマーンを嫌った後世の人間はアブー・バクルがクルアーンを統一した伝承を作り上げた<ref name="amarube137"/>。だが、思想を異にする多くの分派、神学者、法学者が用いるクルアーンの内容が統一されたことで、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]︵共同体︶やイスラーム法の一体性が確保された<ref name="kosugi185">小杉﹃イスラーム文明と国家の形成﹄、185頁</ref>。さらに、政治・信条を巡る議論の正典への波及を防ぎ、共通の議論の場が提供されたことで、[[イスラーム文明]]に安定と発展がもたらされた<ref name="kosugi185"/>。 また、ウスマーンの時代にはイスラーム国家の海軍が整備された<ref name="horupu"/>。ウマルの時代に海軍の増強は行われなかったが、度重なる == 人物像 ==
ウスマーンは謙虚な性格の人物で、自慢する事を嫌い、自分の考えを他人に強制しようとしなかった<ref name="seito8"/>。若年期のウスマーンは[[果実酒]]と賭け事を遠ざけて、若者たちのふざけ合いにも加わらない、倫理が失われていた当時のマッカで節度を保った生活を送っていた<ref name="seito8"/>。カリフとなった後も粗末な衣服を着て一般の信徒に混ざってモスクで昼寝をし、財産の多くを困窮した人間の救済に充てていた<ref>森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、75-76頁</ref>。毎週の金曜日には奴隷を買い取り、彼らを奴隷身分から解放していたと伝えられている<ref ウスマーンは黄を帯びた白色の顔で、見事な顎鬚を持つ気品のある容貌の人物だと伝えられている<ref name="seito7">森、柏原﹃正統四カリフ伝﹄下巻、7頁</ref>。金の針金で歯を束ねて飾り立て、顔にわずかに残っていた天然痘の跡はウスマーンの男性的な魅力をより高めていた<ref name="seito7"/>。優れた容貌と莫大な財産を持つウスマーンには多くの女性が近づいてきたが、ウスマーンは妻以外の女性と関係を持つことは無かった<ref name="seito8"/>。 ウスマーンは在位中に国家の混乱を収拾することができなかったため、統治能力について否定的な評価を下されることが多い<ref name="ii-jiten"/>。また、前任のカリフであるアブー・バクルやウマルのような尊敬を集める事はできなかった<ref name="louis100"/>。他の3人の正統カリフと違ってウスマーンは軍事的実績には乏しいが、資産を生かした軍事費の援助には誰よりも貢献していた<ref>小杉﹃イスラーム文明と国家の形成﹄、181頁</ref>。[[630年]]に == 家族 ==
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== 参考文献 ==
* 余部福三『イスラーム全史』([[勁草書房]], 1991年6月)
* 小杉泰「ウスマーン・イブン・アッファーン」『岩波イスラーム辞典』収録([[岩波書店]], 2002年2月)
* 小杉泰『イスラーム文明と国家の形成』(諸文明の起源, [[京都大学学術出版会]], 2011年12月)
* 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』(世界の歴史, [[中央公論社]], 1997年9月)
* 嶋田襄平「ウスマーン・イブン・アッファーン」『世界伝記大事典 世界編』2巻収録(桑原武夫編, [[ほるぷ出版]], 1980年12月)
* 前嶋信次『イスラム世界』(新装版, 世界の歴史, [[河出書房新社]], 1974年5月)
* 森伸生、柏原良英『正統四カリフ伝』下巻(日本サウディアラビア協会, 1996年12月)
* フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』(岩永博訳, [[講談社学術文庫]], [[講談社]], 1982年12月)
* バーナード・ルイス『イスラーム世界の二千年』(白須英子訳, [[草思社]], 2001年8月)
{{先代次代|[[正統カリフ]]|[[644年]] - [[656年]]|[[ウマル・イブン・ハッターブ]]|[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]}}
{{Normdaten}}▼
{{DEFAULTSORT:うすまん いふん あつふあん}}
[[Category:ウスマーン・イブン・アッファーン|*]]
[[Category:正統カリフ]]
[[Category:ウマイヤ家]]
[[Category:暗殺された人物]]▼
[[Category:6世紀生]]
[[Category:656年没]]
▲[[Category:暗殺された人物]]
▲{{Normdaten}}
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