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{{基礎情報 過去の国
[[Image:Urartu743.png|thumb|250px|ウラルトゥ王国の最大版図(黄色)(紀元前743年頃)。緑色は[[アッシリア]]帝国の版図]]
|略名 = ウラルトゥ
'''ウラルトゥ'''は[[紀元前9世紀]]ごろから[[紀元前585年]]まで[[アナトリア]]に存在した[[王国]]。その版図は、現在の[[トルコ]]東部の[[ヴァン湖]]周辺を中心に、[[メソポタミア]]北部から[[コーカサス]]南部にわたった。
|日本語国名 = ウラルトゥ
|公式国名 = Biainili<ref>Paul Zimansky, "Urartian material culture as state assemblage", Bulletin of the American Association of Oriental Research 299 (1995), 105</ref>
|建国時期 = [[紀元前860年|前860年]]
|亡国時期 = [[紀元前585年|前585年]]
|先代1 = ミタンニ
|次代1 = メディア王国
|次代2 = :en:Satrapy of Armenia
|次代3 =
|次代4 =
|国旗画像 =
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
|国旗説明 =
|国旗幅 = <!--初期値125px-->
|国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない-->
|国章画像 = <!--画像ファイル名を入力-->
|国章リンク =
|国章説明 =
|国章幅 = <!--初期値85px-->
|標語 =
|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 = 13-Urartu-9-6mta.gif
|位置画像説明 = 前9世紀から前6世紀のウラルトゥの版図
|公用語 = [[ウラルトゥ語]]、[[:en:Proto-Armenian language|古アルメニア語]]
|首都 = {{仮リンク|アルザシュクン|en|Arzashkun}}<br>{{仮リンク|トゥシュパ|en|Tushpa}} ([[紀元前832年|前832年]]以降)
|元首等肩書 = [[#歴代国王|国王]]
|元首等年代始1 = [[紀元前858年|前858年]]
|元首等年代終1 = [[紀元前844年|前844年]]
|元首等氏名1 = [[アラマ]]
|元首等年代始2 = 前844年
|元首等年代終2 = [[紀元前828年|前828年]]
|元首等氏名2 =[[サルドゥリ1世]]
|元首等年代始3 = 前828年
|元首等年代終3 = [[紀元前810年|前810年]]
|元首等氏名3 = [[イシュプイニ]]
|元首等年代始4 = [[紀元前595年|前595年]]
|元首等年代終4 = [[紀元前585年|前585年]]
|元首等氏名4 = [[ルサ4世]]
|元首等年代始5 =
|元首等年代終5 =
|元首等氏名5 =
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|面積測定時期2 =
|面積値2 =
|面積測定時期3 =
|面積値3 =
|面積測定時期4 =
|面積値4 =
|面積測定時期5 =
|面積値5 =
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|人口測定時期2 =
|人口値2 =
|人口測定時期3 =
|人口値3 =
|人口測定時期4 =
|人口値4 =
|人口測定時期5 =
|人口値5 =
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = [[紀元前860年|前860年]]
|変遷2 = トゥシュパへ遷都
|変遷年月日2 = [[紀元前832年|前832年]]
|変遷3 = 滅亡
|変遷年月日3 =[[紀元前585年|前585年]]
|変遷4 =
|変遷年月日4 =
|変遷5 =
|変遷年月日5 =
|通貨 =
|注記 =
}}
{{アルメニアの歴史}}
'''ウラルトゥ''' (Urartu) は[[紀元前9世紀]]ごろから[[紀元前585年]]まで[[アナトリア]]に存在した[[王国]]。その版図は、現在の[[トルコ]]東部の[[ヴァン湖]]周辺を中心に、[[メソポタミア]]北部から[[コーカサス]]南部にわたった。
 
== 名称 ==
「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競った[[アッシリア|アッシリア人]]たちが呼んだ名である。王国は、[[ウラルトゥ語]]で'''ビアインリ'''(Biainli)と呼ばれ、これは「ヴァン」(Van)の語源となった。また、「ウラルトゥ」の名は[[アララト山]](Ararat)とも関係づけられる。
「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競った[[アッシリア|アッシリア人]]たちが呼んだ名である。王国は、[[ウラルトゥ語]]で'''ビアインリ''' (Biainli)と呼ばれ、これは「[[ヴァン]] (Van)」の語源となった。また、「ウラルトゥ」の名は[[アララト山]] (Ararat) とも関係づけられる。
 
また、「[[ハルディ神|ハルディ]] ([[:en:Ḫaldi|en]])」と呼ばれる神を信仰していたことから、「'''ハルディア''' (Haldia)」とも称された<ref name=sugi>杉「ウラルトゥ王国」『アジア歴史事典 1』</ref>。
 
==歴史==
[[Image:Urartu743.png|thumb|250px|ウラルトゥ王国の最大版図(黄色)(紀元前743年頃)。緑色は[[アッシリア]]帝国の版図]]
[[紀元前1250年]]ごろの[[アッシリア]]の文書は、「ウルアトリ(Uruatri)」または「ナイリ(Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。その民族は、[[紀元前860年]]から[[紀元前830年]]のあいだに、王[[アラマ]]と[[ルティプリ]]、その息子[[サルドゥリ1世]]のもとで王国を形成した。
 
=== 前史 ===
ウラルトゥ王国は、最盛期には[[アルメニア高原]]の全域を含み、東は現在の[[タブリーズ]]を越え、南は[[ティグリス川]]、西は[[ユーフラテス川]]の上流域にまで至った。首都は現在の[[ヴァン]]のあたりに置かれ、'''トゥシパ'''(Tushpa)と呼ばれた。
[[紀元前1250年]]ごろの[[アッシリア]]の文書は、「ウルアトリ (Uruatri)」または「ナイリ (Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。
 
=== 黎明期 ===
ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。
[[860]][[830]][[]][[]]{{||en|Arzashkun}}
 
=== 拡大期 ===
その息子[[サルドゥリ1世]]の下で、[[紀元前832年]]頃に現在の[[ヴァン]]のあたりに遷都し'''{{仮リンク|トゥシュパ|en|Tushpa}}''' (Tushpa) と呼ばれた。ウラルトゥ王国は[[メヌア|メヌア(メヌアシュ)]]から[[サルドゥリ2世|サルドゥリ(サルドゥリシュ)2世]]の時代が最盛期<ref name=sugi/>で、最盛期には[[アルメニア高原]]の全域を含み、東は現在の[[タブリーズ]]を越え、南は[[ティグリス川]]、西は[[ユーフラテス川]]の上流域にまで至った。
 
=== 衰退期・滅亡 ===
ウラルトゥ王国は、[[キンメリア人]]やアッシリアの攻撃に苦しんだ。[[紀元前714年]]には、ウラルトゥの王[[ルサ1世]](Rusa)が[[サルゴン2世]]率いるアッシリア軍に大敗した。[[紀元前585年]]に[[スキタイ人]]の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。その後はこの地に[[アルメニア人]]が定住した。
[[紀元前714年]]には、ウラルトゥの王[[ルサ1世]] (Rusa) が[[サルゴン2世]]率いるアッシリア軍に大敗して王は自殺に追い込まれた。この戦い以降、ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った([[ウラルトゥ・アッシリア戦争]]、[[紀元前714年]] - [[紀元前585年]])。ウラルトゥ王国は、[[キンメリア人]]やアッシリアの攻撃に苦しんだ。[[紀元前585年]]に[[スキタイ]]人の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。[[アケメネス朝]]の成立後、この地に[[アルメニア人]]が定住した({{仮リンク|アルメニア (サトラップ)|en|Satrapy of Armenia|label=アルメニア}}、[[紀元前553年]] - [[紀元前331年]])。
 
=== 発掘 ===
紀元後[[5世紀]]ごろ以降、ウラルトゥの存在は忘れ去られていたが、[[18世紀]]、[[19世紀]]の発掘によって再発見された。
 
== 言語系統 ==
[[ウラルトゥ語]]は、[[フルリ・ウラルトゥ語族]]に分類される[[膠着語]]である。[[フルリ人]]が築いた[[ミタンニ]]王国([[紀元前1500年]]頃 - [[紀元前1270年]]頃)で使用された[[フルリ語]]と近縁関係にある。
 
[[Image:Museum of Anatolian Civilizations066.jpg|thumb|250px|ケフ・カレシ出土の礎石(ルサ2世時代)。アナトリア文明博物館([[アンカラ]])蔵]]
== 歴代国王 ==
[[Image:Museum of Anatolian Civilizations066.jpg|thumb|250px|ケフ・カレシ出土の礎石(ルサ2世時代)。アナトリア文明博物館([[アンカラ]])蔵]]
 
=== 黎明期 ===
*[[アラマ]](紀元前858‐844年)
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*[[ルサ4世]](紀元前598‐590年)
 
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* [[:en:Boris Piotrovsky|Boris B. Piotrovsky]], The Ancient Civilization of Urartu (translated from Russian by James Hogarth), New York:Cowles Book Company, 1969.
* [[ボリス・ピオトロフスキー]]著, [[加藤九祚]]訳, 「埋もれた古代王国の謎―幻の国ウラルトゥを探る」岩波書店, (1981年)
* 杉勇「ウラルトゥ王国」(『アジア歴史事典 1』(平凡社、1984年))
 
 
== 関連項目 ==
* [[フルリ人]]
* [[ミタンニ]]
* [[メディア王国]]
* [[:en:Satrapy of Armenia]]
* [[アルメニア王国]]
 
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:うらるとう}}
[[Category:古代オリエント]]
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[[Category:カフカスの歴史]]
[[Category:ウラルトゥ|*]]
 
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