「オテロ (ヴェルディ)」の版間の差分
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[[1871年]]に﹃[[アイーダ]]﹄の初演をみてから、ヴェルディは[[1874年]]に文豪[[アレッサンドロ・マンゾーニ|マンゾーニ]]を追悼する﹃[[レクイエム (ヴェルディ)|レクイエム]]﹄を完成させたのみで、活動が停滞していた。理由については、老化にともなう作曲意欲の停滞、楽譜出版社[[リコルディ]]社との契約トラブルなどが考えられているが、新作が万が一にでも不成功に終わることがあれば晩節を汚す、とヴェルディが題材選択にこれまで以上に慎重になっていた面も大きかったのだろう。 しかし、リコルディ社総帥[[リコルディ#ジュリオの時代|ジューリオ・リコルディ]]は、ヴェルディの新たな創作、それも[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の﹁[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]﹂のオペラ化を願っていた。慎重でありまた頑固なヴェルディの気質を熟知していたジューリオは、ヴェルディに直接提案するのでなく、まず外堀を埋める作戦に出た。彼はまず[[アッリーゴ・ボーイト]]に対して[[1879年]]3月より以前には台本化の依頼を行っていたとみられる。情報漏洩を恐れて、またオセロの肌の色にかけた一種のジョークとして、この計画は﹁チョコレート﹂と呼ばれていた。1879年7月初め、ジューリオ、[[フランコ・ファッチョ]]︵著名な指揮者、作曲家でありボーイトの親友︶、ヴェルディ夫妻がテーブルを囲んだ夕食の席で、ファッチ もっともヴェルディは相変わらず腰が重く、作曲作業に取り掛かる気配がなかったため、ジューリオ・リコルディはまず、[[1857年]]初演の﹃[[シモン・ボッカネグラ]]﹄の改訂をヴェルディ、ボーイトの共同で行うことを提案した。[[1881年]]に改訂初演されたこのオペラの成功で、ヴェルディもようやく作曲に対する情熱の再燃と、ボーイトに対する全面的な信頼を得たらしく、その後この両者は5年以上にわたる頻繁な意見交換を行いながら、オペラの完成をみたのだった。ヴェルディのボーイト宛の書簡によれば、ヴェルディの脱稿は[[1886年]]12月18日である。 63行目:
* 登場人物中、ヴェルディが最初に惹かれたのは悪役ヤーゴであった。1882年頃までは、作曲中のこのオペラを彼はしばしば﹃ヤーゴ﹄''Jago''と称している。彼が﹃オテロ﹄と呼ぶことに消極的だったもう1つの理由として、[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]が既に[[オテロ (ロッシーニ)|同名の作品]]を発表していた︵[[1816年]]︶こともある。ヴェルディはロッシーニをオペラ作曲の大先輩として深く敬愛していた。 * 1887年2月5日、[[ミラノ]]・スカラ座での初演はヨーロッパ音楽界を挙げての一大イヴェント化した観があった。観客の中には、イタリアの作曲家[[フランチェスコ・パオロ・トスティ]]、[[ウィーン]]の著名な音楽評論家[[エドゥアルト・ハンスリック]]などの姿もあった。 * 初演指揮者は、このオペラ制作に﹁チョコレート計画﹂の当初から関与したフランコ・ファッチ {{External media
|topic=『オテロ』序曲<br />(通常の上演では使用されない)
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