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| 所属組織 = {{USARMY}}
| 軍歴 = 1941 - 1961
| 最終階級 = [[File:US-O4 insignia.svg|17px]] [[少佐]]
| 除隊後 =
| 廟 =
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'''カン・タガミ'''︵Kan Tagami、漢字‥'''田上 寛'''<ref name="rafu">[https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=trs19410217-02.1.7&srpos=13&e=-------en-10-%2cjnh-11--txt-%e7%94%b0%e4%b8%8a%e5%8d%83%e4%ba%94%e9%83%8e------ Rafu Shinpō 1941.02.17 Edition 02: Page 7]</ref>、[[1918年]][[2月21日]] - [[2005年]][[11月24日]]︶は、[[アメリカ合衆国]]の軍人。[[連合国軍占領下の日本]]において、[[ダグラス・マッカーサー]]の個人[[通訳]]を務め、[[昭和天皇]]と一人で謁見した唯一の[[日系アメリカ人|日系]][[二世 (日系人)|2世]]として知られる。 また、{{仮リンク|オークリーフ・クラスター|en|Oak leaf cluster}}付きの[[ブロンズスターメダル|青銅星章]]をはじめとして、[[アメリカ従軍記章]]、{{仮リンク|アジア・太平洋従軍章|en|Asiatic–Pacific Campaign Medal}}、{{仮リンク|進駐軍記章|en|Army of Occupation Medal}}、[[第二次世界大戦戦勝記念章]]、{{仮リンク|戦闘歩兵バッジ|en|Combat Infantryman’s Badge}}、{{仮リンク|朝鮮従軍記章|en|Korean Service Medal}}、[[国土防衛従軍章]]、{{仮リンク|国連朝鮮戦争従軍章|en|United Nations Service Medal Korea}}、{{仮リンク|予備軍年功記章|en|Armed Forces Reserve Medal}}、{{仮リンク|キャリア・インテリジェンス・メダル|en|Career Intelligence Medal}}など、全部で11の勲章を授与された<ref name="ken">https://digitalcommons.kennesaw.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1029&context=mast_etd</ref>。 == 生涯 ==
[[1902年]]に渡米し、自転車店との兼業[[農家]]を営む父・千五郎と、[[1915年]]に渡米した農場労働者の母・ちせの次男として、カリフォルニア州セルマで生まれる。両親は、共に[[広島県]]の出身である<ref name="rafu"/><ref name="ken"/>。 両親の方針により、8歳の時に父の故郷である、現在の広島県[[海田町]]に送られ、13歳まで祖父母の下で[[尋常小学校]]に通いながら、[[日本語]]と[[日本の文化]]を学んだ<ref name="chu">[https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/20885 ︻平和記念式典70年70回︼<上>始まり 市民の熱意、開催後押し]</ref>。 帰国後は、ハイスクールを経て[[メリーランド大学カレッジパーク校|メリーランド大学]]へ進学したものの、当時の{{仮リンク|アメリカ合衆国における反日感情|en|Anti-Japanese sentiment in the United States|label=排日的風潮}}から、希望する形での就職は叶わず、卒業後は[[八百屋|青果店]]で働く事を余儀なくされた<ref name="ken"/>。 [[1941年]]2月17日に[[アメリカ陸軍|陸軍]]へ入隊し、当初はカリフォルニア州[[モントレー湾]]近郊の{{仮リンク|フォート・オード|en|Fort Ord}}で、{{仮リンク|第153歩兵連隊 (アメリカ軍)|en|153rd Infantry Regiment (United States)|label=第153歩兵連隊}}の一員として訓練を受けていた。しかし、同年12月7日の[[太平洋戦争]] サベージ移転後のMISLS第1期生となったタガミは、同校を首席で卒業した。これにより、タガミは前線には赴かず、講師として後身の指導にあたるよう、上層部より請われた その後は、[[1944年]]7月から[[1945年]]4月にかけて、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]において、壊滅状態にあった﹃{{仮リンク|メリル略奪隊|en|Merrill’s Marauders}}﹄に成り代わるものとして、{{仮リンク|第124騎兵連隊 (アメリカ軍)|en|124th Cavalry Regiment (United States)|label=第124騎兵連隊}}の隷下で編成された﹃マーズ任務部隊﹄において、タガミは15人から成る語学要員分遣隊の隊長に任ぜられた。同任務部隊は、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の前線の背後における任務を与えられ、[[国民革命軍]]に武器と食料を供給する為の[[援蒋ルート]]における掃討作戦にあたった。そうした中で、タガミ達は[[捕虜]]の尋問のほか、[[鹵獲]]した文書の翻訳に従事した<ref name="ken"/>。 38行目:
GHQ時代のエピソードとしては、アメリカの報道機関が、昭和天皇に対して、その私生活を撮影させる事を要求した際、タガミは彼等へ圧力を掛けるよう、マッカーサーに進言した。これを受けてマッカーサーは、﹁陛下にも私生活がある。プライバシーは守られるので、見せたくなかったら、“NO”と仰っていただいて構いません﹂というメッセージをタガミに託し、[[皇居]]へ差し向けた。その際、天皇はタガミに感謝の意を表したうえで、﹁ご両親は日本人ですか?﹂と問いかけ、﹁私は、日系の人々に感謝しております。どうか日米の架け橋になって、今後も宜しく頼みます﹂と述べたという<ref name="ken"/><ref name="chu"/><ref>[https://www.d3b.jp/npcolumn/13116 書評﹃JAPと呼ばれて﹄――第一級のオーラル・ヒストリー]</ref>。 [[1951年]]4月に、マッカーサーがGHQ最高司令官を解任されて以降は、[[対敵諜報部隊]]に務める事となった。[[1961年]]に軍を退役してからも 2005年11月24日に、隠居先のハワイ州オアフ島ミリラニで逝去。享年87歳<ref>[https://ancestors.familysearch.org/en/G329-JPY/kan-tagami-1918-2005 Brief Life History of Kan Tagami - FamilySearch]</ref>。
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[[Category:占領下の日本]]
[[Category:在日アメリカ人]]
[[Category:日米関係]]
[[Category:英語通訳]]
[[Category:殿堂入りした人物]]
[[Category:メリーランド大学カレッジパーク校出身の人物]]
[[Category:フレズノ郡出身の人物]]
[[Category:広島県出身の人物]]
[[Category:1918年生]]
[[Category:2005年没]]
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