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== 生涯 ==
[[1902年]]に渡米し、自転車店との兼業[[農家]]を営む父・千五郎と、[[1915年]]に渡米した農場労働者の母・ちせの次男として、カリフォルニア州セルマで生まれる。両親は、共に[[広島県]]の出身である<ref name="rafu"/><ref name="ken"/>。 両親の方針により、8歳の時に父の故郷である現在の広島県[[海田町]]に送られ、13歳まで祖父母の下で[[尋常小学校]]に通いながら、[[日本語]]と[[日本の文化]]を学んだ<ref name="chu">[https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/20885 ︻平和記念式典70年70回︼<上>始まり 市民の熱意、開催後押し]</ref>。 28行目:
帰国後は、ハイスクールを経て[[メリーランド大学カレッジパーク校|メリーランド大学]]へ進学したものの、当時の{{仮リンク|アメリカ合衆国における反日感情|en|Anti-Japanese sentiment in the United States|label=排日的風潮}}から、希望する形での就職は叶わず、卒業後は[[八百屋|青果店]]で働く事を余儀なくされた<ref name="ken"/>。 [[1941年]]2月17日に[[アメリカ陸軍|陸軍]]へ入隊し、当初はカリフォルニア州[[モントレー湾]]近郊の{{仮リンク|フォート・オード|en|Fort Ord}}で、{{仮リンク|第153歩兵連隊 (アメリカ軍)|en|153rd Infantry Regiment (United States)|label=第153歩兵連隊}}の一員として訓練を受けていた。しかし、[[太平洋戦争]]の開戦と、それに伴う[[大統領令9066号]]の発令により、自身以外の家族達は、[[アリゾナ州]]の[[ポストン戦争強制収容センター]]へ送致される事となった。その理不尽に憤りながらも、母国への忠誠心を示したいと考えたタガミは、軍が日本語の流暢な人材を求めている事を知り、[[1942年]]6月に[[ミネソタ州]]{{仮リンク|キャンプ・サベージ|en|Camp Savage}}に移転したばかりの[[アメリカ陸軍情報部|陸軍情報部語学学校︵MISLS︶]]へ転属した<ref name="ken"/>。 サベージ移転後のMISLS第1期生となったタガミは、同校を首席で卒業した。これにより、タガミは前線には赴かず、講師として後身の指導にあたるよう請われた、同期生10人の内の1人となった。しかし、太平洋戦争の激化に伴い、タガミは前線への派遣を、自ら希望するようになった<ref name="ken"/>。 その後は、[[1944年]]7月から[[1945年]]4月にかけて、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]において、壊滅状態にあった﹃{{仮リンク|メリル略奪隊|en|Merrill’s Marauders}}﹄に成り代わるものとして、{{仮リンク|第124騎兵連隊 (アメリカ軍)|en|124th Cavalry Regiment (United States)|label=第124騎兵連隊}}の隷下で編成された﹃マーズ任務部隊﹄において、タガミは15人から成る語学要員分遣隊の隊長に任ぜられた。同任務部隊は、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の前線の背後における任務を与えられ、[[国民革命軍]]に武器と食料を供給する為の[[援蒋ルート]]における掃討作戦にあたった。そうした中で、タガミ達は[[捕虜]]の尋問のほか、[[鹵獲]]した文書の翻訳に従事した<ref name="ken"/>。 [[日本の降伏|終戦]]後は、首都[[ワシントンD.C.]]の[[ペンタゴン]]に派遣され、日本語文書の翻訳に従事した。やがて、連合国軍占領下の日本において、復興の支援にあたる事を希望するようになり、[[1946年]]12月に、ダグラス・マッカーサー[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]最高司令官の[[副官]]兼個人通訳に就任。通訳だけにとどまらず、日本人の生活習慣や文化、[[日本法|法律]]に関して、マッカーサーに助言し続けたタガミは、戦後の日本が[[民主主義]]社会へ移行するうえで、非常に大きな役割を果たしたと言える<ref name="ken"/>。 GHQ時代のエピソードとしては、アメリカの報道機関が、昭和天皇に対して、その私生活を撮影させる事を要求した際、タガミは彼等へ圧力を掛けるよう、マッカーサーに進言した。これを受けてマッカーサーは、﹁陛下にも私生活がある。プライバシーは守られるので、見せたくなかったら、“NO”と仰っていただいて構いません﹂というメッセージをタガミに託し、[[皇居]]へ差し向けた。その際、天皇はタガミに感謝の意を表したうえで、﹁ご両親は日本人ですか?﹂と問いかけ、﹁私は、日系の人々に感謝しております。どうか日米の架け橋になって、今後も宜しく頼みます﹂と述べたという<ref name="ken"/><ref name="chu"/><ref>[https://www.d3b.jp/npcolumn/13116 書評﹃JAPと呼ばれて﹄――第一級のオーラル・ヒストリー]</ref>。 [[1951年]]4月に、マッカーサーがGHQ最高司令官を解任されて以降は、[[対敵諜報部隊]]に務める事となった。[[1961年]]に軍を退役してからも、[[1978年]]にリタイアするまで、民間人の立場で[[アメリカ合衆国連邦政府|政府]]を支えるべく、アジア全域を股にかける活動を続けた。[[1996年]]には、{{仮リンク|アメリカ軍情報部殿堂|en|Military Intelligence Hall of Fame}}入りを果たした<ref name="ken"/>。 2005年11月24日に、隠居先のハワイ州オアフ島ミリラニで逝去。享年87歳<ref>[https://ancestors.familysearch.org/en/G329-JPY/kan-tagami-1918-2005 Brief Life History of Kan Tagami - FamilySearch]</ref>。
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