「サパルムラト・ニヤゾフ」の版間の差分
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{{大統領|人名 = サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ
|各国語表記 = Saparmyrat Ataýewiç Nyýazow
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|代数 = [[File:Emblem of Turkmenistan.svg|20px]] 初
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|出生日 = {{生年月日と年齢|1940|2|19|no}}
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|生死 = 死去
|死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1940|2|19|2006|12|21}}
|没地 = {{TKM}}<br />[[アシガバー
|配偶者 = {{仮リンク|ムザ・アレクセーエヴナ|ru|Ниязова, Муза Алексеевна|en|Muza Niyazova}}
|政党 = [[トルクメニスタン民主党]]
|imagesize=270px}}
'''サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ'''︵{{lang [[1993年]]からは﹁[[トルクメン人]]の長﹂を意味する﹁[[テュルクメンバシュ]]︵{{lang|tk|Türkmenbaşy}}︶﹂と名乗り、国内では'''サパルムラト・テュルクメンバシュ'''︵{{lang|tk|Saparmyrat Türkmenbaşy}}︶と称される。 37行目:
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[アシガバート]]の{{仮リンク|キプチャク (トルクメニスタン)|label=キプチャク村|ru|Кипчак (Туркмения)|en|Gypjak}}で生まれたニヤゾフは、非常に早い時期に[[孤児]]となっている。[[父]]の{{仮リンク|アタムラト・ニヤゾフ|ru|Ниязов, Атамурат|en|Atamyrat Niyazov}}︵{{仮リンク|トルクメニスタン人民英雄|ru|Герой Туркменистана|en|Hero of Turkmenistan}}︶は[[第二次世界大戦]]に[[分隊長]]として[[出征]]し、[[ドイツ国防軍]]と戦って[[1942年]]に[[戦死]]した。残りの家族・[[母]]の{{仮リンク|グルバンソルタン・エジェ|ru|Гурбансолтан-эдже|en|Gurbansoltan Eje}}︵トルクメニスタン人民英雄︶と2人の[[兄]]は[[アシガバート地震|1948年の地震]]で死亡 孤児となったニヤゾフは優秀な成績で学校を卒業し、[[1959年]]、地質探査従事者[[労働組合]]トルクメン地域委員会で[[教官]]として働く。[[1962年]]から共産党員となり、その後[[レニングラード工業大学]]に入学し[[1967年]]に卒業した。大学卒業後、ニヤゾフは[[ビュズメイ水力発電所]]で ニヤゾフは[[1970年]]から[[1980年]]までトルクメン共産党中央委員
▲孤児となったニヤゾフは優秀な成績で学校を卒業し、[[1959年]]、地質探査従事者[[労働組合]]トルクメン地域委員会で[[教官]]として働く。[[1962年]]から共産党員となり、その後[[レニングラード工業大学]]に入学し[[1967年]]に卒業した。大学卒業後、ニヤゾフは[[ビュズメイ水力発電所]]で{{仮リンク|電気技術者|label=電気技師|en|Electrical engineers}}として働いた。 [[1985年]]に[[ムハメットナザル・ガプロフ]]の後任として ▲ニヤゾフは[[1970年]]から[[1980年]]までトルクメン共産党中央委員会を務め、[[1976年]]、通信教育で[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]中央委員会附属高等党学校を卒業、[[1980年]]にアシガバート市委員会第一書記となった。1984年[[モスクワ]]で[[ミハイル・ゴルバチョフ]]に見いだされて、1985年3月に[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]]首相、同12月トルクメン共産党第一書記と超特急の出世をした。ニヤゾフはゴルバチョフの綱紀粛正・反民族主義の方針に合い、[[1984年]]から[[1985年]]までソ連共産党中央委員会の党組織業務教官を務めた。 ▲[[1985年]]に[[ムハメットナザル・ガプロフ]]の後任として[[トルクメン共産党]][[第一書記]]に就任して以来、2つの国の政界のトップとして活動した。[[1989年]]~[[1991年]]まで、ソ連[[人民代議員大会|人民代議員]]を務める。[[ペレストロイカ]]路線に忠実で、一定の[[民主化]]も行った。[[1990年]][[1月13日]]、トルクメン共和国[[最高会議]]議長となりニヤゾフの指導の下、議会で独立主権宣言が採択され[[10月17日]]に国民投票によりトルクメン共和国大統領に選出された。[[10月27日]]、国民投票の結果、トルクメニスタンは独立国家と宣言された。独立後は豊富な[[天然ガス]]資源で豊かな国を作ることを目標にし、[[電気]]・[[ガス]]・[[水道]]を無料にするなどの人気取り政策も行っている。 ちなみに、ニヤゾフをトルクメン共産党・第一書記に任命したのは[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]ソ連共産党[[書記長]]で、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[特別番組|スペシャル番組]]﹃[[緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!]]﹄では''﹁トルクメニスタンとサパルムラト・ニヤゾフ大統領の生みの親﹂''と紹介された。また、この番組において、トルクメニスタンでの政策に対してのゴルバチョフの意見や提案をニヤゾフ自身が﹁自分の国は自分で作る﹂と言い放つ形で断っていたことが明らかにされた。 52 ⟶ 50行目:
=== テュルクメンバシュ ===
[[ソビエト連邦の崩壊]]後[[憲法]]採択と関連して[[1992年]][[6月21日]]、ニヤゾフはトルクメニスタンの大統領に選出された。[[1993年]]、議会︵メジリス︶により'''テュルクメンバシュ'''︵[[国父]]︶の称号を授与された。独立後は[[個人崇拝]]色を強め、[[権威主義]]的な超独裁体制を敷き、人民会議により[[1999年]]12月には終身大統領と宣言され、旧ソ連初の終身大統領となった。メディアでも学校でも﹁祖国を、サバルムラト・テュルクメンバシュを、祖国の神聖な旗を裏切った時には、私の息は絶えるがよい﹂という誓いの詩が毎日唱えられた。2001年にはニヤゾフ著﹃[[ルーフナーマ]]︵魂の書︶﹄が発表され、﹁聖なる書﹂として扱われた。また、ニヤゾフは自らを[[預言者]]になぞらえていたが、[[イスラム教|イスラーム]]の教えと矛盾するため国外の[[ムスリム]]から批判された。 [[野党]]への[[弾圧]]、[[言論の自由]]を規制する︵[[プロテスタント]]の[[宣教師]]を弾圧、[[オペラ]]や[[バレエ]]など西洋芸術を否定するなど︶といった、ニヤゾフの独裁的な政治は[[欧米]]諸国からの批判を多く受けた。2003年からは最高機関である国民評議会︵ハルク・マスラハトイ︶議長。 64 ⟶ 62行目:
2005年に近く70歳を迎えるとして、ニヤゾフ自らは候補者とならない大統領選挙を[[2009年]]に実施することを発表した︵トルクメニスタンの憲法では、大統領は40~70歳までとされている︶。すでに憲法を超越する存在であったニヤゾフのこの発表は各国を驚かせた。しかし、すぐに国民評議会は﹁国父は二人も必要としない﹂として大統領選挙は不要とした。 そうした中で、[[2006年]][[12月21日]]未明にニヤゾフは急死した。トルクメニスタン政府により「[[心停止]]による急死」と発表された。66歳だった。ニヤゾフの死によって後継者を巡る混乱が懸念されていたが、ニヤゾフ政権下では副首相を務めた[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]大統領代行がトルクメニスタンの第2代大統領に就任する
ニヤゾフの[[遺体]]は現在、{{仮リンク|テュルクメンバシュ・ルーフ・モスク|label=キプチャク・モスク|en|Türkmenbaşy Ruhy Mosque}}敷地内にある[[霊廟]]に安置されている。 75 ⟶ 73行目:
== 政策 ==
{{See also|{{仮リンク|トルクメニゼーション|en|Turkmenization}}}}
=== 国家制度 ===
* 8月の第2[[日曜日]]を[[メロンの日]]に制定した<ref>﹁[http://www.eurasianet.org/turkmenistan.project/index.php?page=wnb/wnb040806&lang=eng#2a Turkmenistan Celebrates Melon Holiday]﹂。Turkmenistan Project、2004年8月6日。なおTurkmenistan Projectによると、オリジナルのソースは"ITAR-TASS news agency, Moscow, in Russian 0630 gmt 8 Aug 04, BBC Mon CAU 080804 ak/atd / excerpts"で、オリジナルのソースのタイトルは"Turkmens Celebrate Melon Holiday"という。</ref>。 85 ⟶ 84行目:
=== 教育 ===
* ニヤゾフの著書「[[ルーフナーマ]](Ruhnama)」は国民必読の書とされ、[[クルアーン]]と同等とされ、[[教科書]]としても使われた。現在では入手困難。
* * 過去10年間に外国の大学で取得された卒業証書を全て無効化。
=== 文化・芸術 ===
* オペラ、バレエ、[[軽演劇]]、[[サーカス]]の上演を禁止︵国立フィルハーモニー、オペラ・バレエ劇場、民族舞踊団、軽演劇・サーカス・センターを廃止︶<ref name="BBC">{{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4177622.stm |title=Turkmenistan bans recorded music |website=[[BBC]] News |date=2005-8-23 |accessdate=2021-8-23}}</ref>。 * 歌や音楽の発展を妨げるとして[[コンサート]]や[[テレビ]]などのみならず、[[結婚式]]などでも[[口パク]]で歌うことを禁止{{R|BBC}}<ref>「[http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1361133/detail 口パクが全面的に禁止された国=トルクメニスタン]」。ライブドア・ニュース、2005年8月24日
* 見苦しいとして若者が[[髭]]をのばすこと、男性が長髪にすることを禁止<ref>「[http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3486776.stm Young Turkmen face beard ban]」。BBC、2004年2月25日</ref>。
103 ⟶ 102行目:
=== 福祉 ===
* ニヤゾフブランドの商品が売られている。
** [[牛乳]]、[[乳製品]]のような生活必需品から[[酒]]や[[服]]に至るまで何でも有る。政策により生活必需品の価格はとても安く抑えられている。ちなみに、トルクメニスタンでは * すべての閣僚、地方行政府長官、軍人などに[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]の新車が支給された<ref>﹁[http://www.worldtimes.co.jp/w/rosia/news/030206-083439.html トルクメニスタン大統領、閣僚などにベンツを支給]﹂。世界日報、2003年2月6日。</ref>。 ** 前年支給されたベンツは補佐官などに譲ればよいと大統領は付け加えた。
117 ⟶ 116行目:
* [[国境なき記者団]]の2006年版﹃世界報道自由ランキング﹄にて、世界で2番目に[[報道の自由]]が無い国に認定されている︵ワースト1位は[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]︶<ref>﹁[https://rsf.org/en/worldwide-press-freedom-index-2006 Worldwide Press Freedom Index 2006]﹂。国境なき記者団、2006年</ref>。 ** 既に[[ケーブルテレビ]]局は全廃されており、ロシアのメディアを通じたテレビ放送枠も厳しく制限されている。
** |title = (@アシガバート)不思議の国トルクメニスタン|website = www.asahi.com|publisher = 朝日新聞デジタル|date = 2016-04-12|accessdate = 2020-04-15}}</ref>。
* [[インターネット]]の利用を禁止。
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{{トルクメン共産党第一書記}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:にやそふ さはるむらと}}
[[Category:サパルムラト・ニヤゾフ|*]]
[[Category:全体主義]]
[[Category:ファシズム]]
220 ⟶ 222行目:
[[Category:トルクメニスタンの紙幣の人物]]
[[Category:アシガバート出身の人物]]
[[Category:国葬された人物]]
[[Category:1940年生]]
[[Category:2006年没]]
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