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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
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[[Image:Orchestra Hall Chicago.JPG|thumb|本拠地の[[シンフォニーセンター|オーケストラ・ホール]]]]
'''シカゴ交響楽団'''(シカゴこうきょうがくだん {{lang-en|The '''Chicago Symphony Orchestra'''}} 略称:{{lang|en|'''CSO'''}})は[[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]][[シカゴ]]を本拠地とする[[オーケストラ]]。▼
▲'''シカゴ交響楽団'''︵シカゴこうきょうがくだん {{lang-en|The '''Chicago Symphony Orchestra'''}} 略称‥{{lang|en|'''CSO'''}}︶は、[[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]][[シカゴ]]を本拠地とする[[オーケストラ]]。 ==概要==▼
「{{仮リンク|アメリカ5大オーケストラ|en|Big Five (orchestras)}}("{{lang|en|Big Five}}")」<ref>他の4つは[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]、[[ボストン交響楽団]]、[[クリーヴランド管弦楽団]]、[[フィラデルフィア管弦楽団]][http://www.scena.org/columns/lebrecht/000705-NL-big.html]</ref>の1つとされ、アメリカばかりでなく世界最高の[[オーケストラ]]の1つとされる。▼
▲== 概要 ==
▲﹁ == 歴史と音楽監督の変遷 ==
=== 初代トーマス、第2代ストック時代 ===
創立は1891年、[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]のヴァイオリン奏者の経歴を持つ[[セオドア・ト
初期から[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]や[[リヒャルト・シュトラウス]]の作品にも力を入れていた。1905年には﹁セオドア・ト ストックはセオドア・ト
=== 第3代デフォー、第4代ロジンスキー、第5代クーベリック時代 ===
1942年のストックの死後、第3代音楽監督には[[モントリオール交響楽団]]音楽監督だった[[デジレ・デフォー]]が就任する。積極的に現代音楽の紹介に努めたが、[[シカゴ・トリビューン]]専属の女性音楽批評家[[クラウディア・キャシディ]]の痛烈な批評もあり、1947年に辞任する。 第4代音楽監督には、前年にニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団で理事会と対立して音楽監督を辞任した[[アルトゥール・ロジンスキ 1948年、第5代音楽監督として当時世界的な巨匠指揮者であった[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]を迎えるべく、内密に交渉を進めていた。しかし、ユダヤ系の音楽家たちが﹁フルトヴェングラーが音楽監督になったら、CSOとの共演は行わない﹂との声明を出し、このプランは消えてしまった︵ユダヤ系でも[[ブルーノ・ワルター]]や[[ユーディ・メニューイン]]はこの声明を支持しなかった︶。 42 ⟶ 45行目:
1950年、当時まだ36歳だったチェコ人指揮者[[ラファエル・クーベリック]]を第5代音楽監督として迎え入れる。[[マーキュリー・レコード|マーキュリー]]に[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の名盤を残すが、キャシディの批評に嫌気がさしたこともあり辞任した。 === 第6代ライナー時代
1953年、現在のシカゴ交響楽団のヴィルトゥオーソ・オーケストラとしての基礎を築き上げたハンガリー人指揮者[[フリッツ・ライナー]]が第6代音楽監督に就任する。ライナーはアンサンブルを練り上げ、首席奏者の入れ替えを積極的に行い︵チェロに若き日の[[ヤーノシュ・シュタルケル]]を招聘したのもライナーである︶格段のレベルアップを実現し、シカゴ交響楽団はアメリカ最高のオーケストラのひとつに数えられるようになった。ライナーの治世が、シカゴ交響楽団の第1期黄金時代であったことは確かである。ライナーはシカゴ交響楽団とともに[[RCAレコード|RCAレーベル]]におびただしい録音をおこない、中でも[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、リヒャルト・シュトラウス、[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]、ブラームス、ドヴォルザーク、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]などに名盤が残された。キャシディのライナー評も好意的であった。 1957年、ライナーは、合唱指揮者として名声を得ていた[[マーガレット・ヒリス]]を招聘して[[シカゴ交響楽団合唱団]]を創設した。ヒリスの指揮する同合唱団は1958年3月13・14日に[[ブルーノ・ワルター]]指揮のモーツァルトのレクイエムによってコンサート・デビューを果たし、さらに同年4月3・4・8日にライナー自身の指揮するヴェルディのレクイエムの演奏に参加した。さらに、1959年3月7日にはライナーの指揮する[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]の[[アレクサンドル・ネフスキー (プロコフィエフ)|アレクサンドル・ネフスキー]]によって最初のレコード録音をおこなうなど、着実に発展した。ヒリスはその後、1994年までの37年間にわたって同合唱団を指導することになる。
しかし、団員に対する辛辣で厳しいライナーの言動は伝説になるほどであった。国内の演奏旅行などでは非常に高い評価を受け、メンバーの士気も高揚したが、初めての国外演奏旅行︵ヨーロッパ︶の計画を巡って、関係者間で対立した挙句にライナーが演奏旅行の中止を宣言し、それはライナーと楽員との間に癒しがたい傷を与えた。1962年、ライナーの健康上の理由もあって次シーズンの音楽監督としての契約は更新されず、彼は音楽顧問という立場に退いた。ライナーは翌1963年にニューヨークでこの世を去った。▼ ▲このようにライナー時代のシカゴ交響楽団は世界の音楽界を瞠目させる輝かしい成果をあげていった。しかし、団員に対する辛辣で厳しいライナーの言動は伝説になるほどであった。国内の演奏旅行などでは非常に高い評価を受け、メンバーの士気も高揚したが、初めての国外演奏旅行︵ヨーロッパ︶の計画を巡って、関係者間で対立した挙句にライナーが演奏旅行の中止を宣言し、それはライナーと楽員との間に癒しがたい傷を与えた。1962年、ライナーの健康上の理由もあって次シーズンの音楽監督としての契約は更新されず、彼は音楽顧問という立場に退いた。ライナーは翌1963年にニューヨーク === 第7代マルティノン時代 ===
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マルティノン辞任からショルティ就任までの1968-69年のシーズンは、副指揮者の[[アーウィン・ホフマン]]が音楽監督代行としてつないだ。
=== 第8代ショルティ時代
1969年、第8代音楽監督として[[ゲオル === 第9代バレンボイム時代 ===
しかしながらこの時代の特に後半は、プログラム内容の不人気や固定化した客演奏者陣などで、定期会員が減少し赤字経営に陥った。また、ショルティ時代を支えたベテランメンバーの引退に伴って入団した奏者が試用期間を経て正式団員に採用されない・オーディションに合格しても採用を辞退する人が出るなど今までなら考えられないことも度々起こり、音楽監督バレンボイムに対する評価にも変化がみられ、GMの交代に続いてバレンボイムが音楽監督の契約を延長せず、以後客演も控える旨を発表し、理事会側も基本的に同意するに至った。一時はバレンボイム退任を撤回させたい一部の楽団員が、投票によりその意思を明らかにしようとする動きもあって、団内に波風が立ちかけた。▼ ▲しかしながらこの時代の特に後半は、プログラム内容の不人気や固定化した客演奏者陣などで、定期会員が減少し赤字経営に陥った。音楽監督バレンボイムに対する評価にも変化がみられ、GMの交代に続いてバレンボイムが音楽監督の契約を延長せず、以後客演も控える旨を発表し、理事会側も基本的に同意するに至った。一時はバレンボイム退任を撤回させたい一部の楽団員が、投票によりその意思を明らかにしようとする動きもあって、団内に波風が立ちかけた。 2006-2007年のシーズンは新音楽監督が決まらずに迎えることになるが、首席客演指揮者の[[ピエール・ブーレーズ]]が人事権などの一部を担う形で、新しいシェフの選考は継続される。[[2006年]]シーズンより、[[ベルナルト・ハイティンク]]が首席指揮者に、ピエール・ブーレーズが名誉指揮者に就任すること、これらの人選は新しい音楽監督の決定とは別の話であるとの発表が楽団からなされた。 === 第10代ムーティ時代 ===
新GMの熱心なアプローチが実り、2006年秋に[[リッカルド・ムーティ]]の31年振りとなる復帰公演が予定されたが、ムーティの急病で指揮者・曲目とも変更となった。その代替として2007-2008年シーズンのオープニング・ガラおよびそれに続く定期公演、さらにヨーロッパツアー等の重要公演がムーティに託された。その後も30年以上の空白があったとは思えないほどの客演回数が予定され、シカゴ・トリビューン紙が支持を打ち出すなど、後継候補として最有力視されていた。そして、2008年になり、2010年のシーズンより、ムーティが第10代音楽監督︵首席指揮者を含めると第11代︶に就任することが発表された。当初ムーティは年齢を理由として契約の更新に否定的だったが、2014年には契約更新を発表した 2019年の3月に、楽団員の年金制度などを巡って運営側と楽団員が深刻な対立状態となってストライキに突入したが、ムーティはその早い時期から楽団員のピケに参加するなど楽団員を支持する姿勢を取ってきた。そしてコロナ禍でのオーケストラ自体の活動が休止したこともあり、契約を2023年まで延長している。
そして、2022-3年のシーズン終了とともに音楽監督は退任し、終身名誉音楽監督の称号を贈呈された。次のシーズンでは演奏旅行も予定されている。
2024年4月、シカゴ交響楽団は次期(第11代)音楽監督を[[クラウス・マケラ]]とすることを公表した。マケラは2027年9月に就任する予定とされている。
== 歴代コンサートマスター ==
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== 現在 ==
シカゴ交響楽団はアメリカで最も経営効率が良いオーケストラとして知られている。1904年に作られた本拠地の[[シンフォニーセンター|オーケストラ・ホール]]︵座席数2,566︶はややドライと思われていたものの音響的に悪くはなかった。マルティノン時代に構造的に老朽化したホールを改築する際、音響も改善しようとして失敗し、本格的にドライなホールとなってしまっ 現在はステージを半円形にして広げたり、ステージ後方にバルコニー席を設けたりしているが、音響の良化には繋がっていない、と話す楽団員も多い。
近年登場した指揮者は、ピエール・ブーレーズ、[[ジェームズ・レヴァイン]]、[[レナード・スラットキン]]、[[ネーメ・ヤルヴィ]]、[[クリストフ・エッシェンバッハ]]、[[チョン・ミョンフン]]、[[シャルル・デュトワ]]、ベルナルド・ハイティンク、[[エサ=ペッカ・サロネン]]、[[マイケル・ティルソン・トーマス]]、[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]、[[プラシド・ドミンゴ]](歌手ではなく指揮者として)、日本人では[[朝比奈隆]]がブルックナーの《[[交響曲第5番 (ブルックナー)|交響曲第5番]]》《[[交響曲第9番 (ブルックナー)|交響曲第9番]]》、[[井上道義]]がマーラーの《[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]》を、[[秋山和慶]]が[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]《[[展覧会の絵]]》を指揮している。▼
特に指揮台あたりでは後列からのサウンドがあまり響かないため、その反面として強力なブラス・セクションが継承されてきた。そのメンバーは[[アドルフ・ハーセス]](tp)を始め、[[ヴィンセント・チコヴィッツ]](tp)、[[エドワード・クラインハマー]](バスtrb)、[[フィリップ・ファーカス]](hrn)や[[フランク・ブロウク]](hrn)、[[アーノルド・ジェイコブス]](tb)のような金管の名奏者が揃い、さらには[[ジェイ・フリードマン]](trb)、[[グレン・ダドソン]](trb)、[[デール・クレヴェンジャー]](hrn)、[[チャールズ・ガイヤー]](tp)、[[フィリップ・スミス (音楽家)|フィリップ・スミス]](tp)、[[ジョージ・ヴォスバーグ]](tp)、[[チャールズ・ヴァーノン]](バスtrb)、[[ジーン・ポコーニ]](tb)らが次々と加わってきた。
== 参考文献 ==▼
『名門オーケストラを聴く! CDでたどるその栄光の歴史と名盤』(音楽之友社、1999年)▼
首席トランペットは2001年にハーセスが引退した後、弟子で元4番トランペットからサンフランシスコ響の副首席に移って間もないクレイグ・モリスが採用されたが、試用期間満了前に退団となった。2005年から元フィラデルフィア管の副首席でアトランタ響の首席クリス・マーチンが就任したが、2017年からニューヨークフィルの首席に移って以降、多くの客演首席がトライアルを兼ねて演奏に加わった。そして2019年の来日公演で客演首席を務めたエステバン・バタヤンが首席となった。
==脚注==▼
ホルンは2013年に首席クレヴェンジャーの引退以来、副首席のダニエル・ギングリッチが代理を務め、2019年に、ダラス響からベルリン・フィル首席になったデビッド・クーパーが首席として採用された。しかしクーパーの契約は2023年シーズン以降、延長しないことになり(契約打ち切りはクーパー本人の希望ではない)、彼はロスフィルに移籍した<ref>{{Cite web |title=David Cooper |url=https://www.laphil.com/musicdb/artists/9194/david-cooper |website=LA Phil |access-date=2024-04-19 |language=en}}</ref>。
ギングリッチは1975年の入団以降の活躍、そしてクレベンジャーの後任を務めた功績をムーティが認めて、私的ではあるが名誉首席の称号を定期公演の中でサプライズ授与した。2024年現在はマーク・アーモンド(元サンフランシスコ交響楽団准首席奏者)が首席を務めている。アーモンドは[[インペリアル・カレッジ・ロンドン]]でウィルス学の博士号を取得した呼吸器内科医(病院勤務経験あり)でもある<ref>{{Cite web |title=Mark Almond {{!}} Chicago Symphony Orchestra |url=https://cso.org/about/performers/cso-musicians/brass/horn/mark-almond/ |website=Experience the Chicago Symphony Orchestra |access-date=2024-04-19 |language=en-us}}</ref>。
▲近年登場した指揮者は、ピエール・ブーレーズ、[[ジェームズ・レヴァイン]]、[[レナード・スラットキン]]、[[ネーメ・ヤルヴィ]]、[[クリストフ・エッシェンバッハ]]、[[チョン・ミョンフン]]、[[シャルル・デュトワ]]、ベルナルド・ハイティンク、[[エサ=ペッカ・サロネン]]、[[マイケル・ティルソン・トーマス]]、[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]、[[プラシド・ドミンゴ]]︵歌手ではなく指揮者として︶、 日本人では[[朝比奈隆]]がブルックナーの《[[交響曲第5番 (ブルックナー)|交響曲第5番]]》《[[交響曲第9番 (ブルックナー)|交響曲第9番]]》、[[井上道義]]がマーラーの《[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]》を、[[秋山和慶]]が[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]《[[展覧会の絵]]》を指揮している。
2023-24年のシーズンには久石譲と、山田和樹が客演する。
▲== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
▲== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2019年9月|section=1}}
▲*『名門オーケストラを聴く! CDでたどるその栄光の歴史と名盤』(音楽之友社、1999年)
== 外部リンク ==
* [http://www.cso.org/ Chicago Symphony
* [http://www.kajimotomusic.com/artist_jap/cso_2009.html 招聘事務所によるプロフィール]
{{Normdaten}}
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[[Category:アメリカ合衆国のオーケストラ]]
[[Category:シカゴの組織]]
[[Category:シカゴの
[[Category:1891年設立の組織]]
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