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[[File:Location of jamestown virginia.jpg|thumb|位置]]
[[Image:Jamestownzuniga.jpg|thumb|1608年ごろのジェームズタウンのスケッチ]]
[[Image:1622 massacre jamestown de Bry.jpg|thumb|1622年のインディアンによる襲撃を描いた木版画]]
[[Image:Jamestown church ruins bw.jpg|thumb|古い教会の塔の廃墟]]
'''''''''Jamestown'''[[|]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]]
 
''''''Jamestown[[]][[]][[]][[]]
[[1607年]][[ロンドン・ヴァージニア会社]]によってスーザン・コンスタント、[[ゴッドスピード (船)|ゴッドスピード]]、ディスカバリーの3隻の船で105名の植民団が送り込まれ、砦に囲まれた入植地を建設した。町の名前は英国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]にちなむ。その年越冬に成功し、[[インディアン]]の大きな襲撃に遭うこともなかったため入植は成功した。英国最初の北米植民団は[[1558年]]に送り込まれたが、全滅しており、ジェームズタウンが最初の永続的植民地となる。
 
==位置==
[[1619年]]にはアメリカで最初に選出された代表市民議会がジェームズタウン教会で開催された。[[1622年]]に[[ポウハタン]]族[[インディアン]]の大反乱があり、350人が殺されたが、鎮圧に成功した。経済的には[[タバコ]]栽培で成り立った。河口付近は湿地が多かったが、それでもここに入植したのは海から離れているので[[スペイン]]艦隊から見つからず、しかも川が深い場所だったのでいつでもすぐ逃げられるよう外洋船を停泊させることができたからだった。しかし伝染病が発生しやすいので、[[1699年]][[ヴァージニア植民地]]政府は近くのウィリアムズバーグに移転した。現在、跡地には入植当時の要塞や建物、木造船などが再現されている。
'''''''''Jamestown'''[[|]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[:en:Jamestown Island|]]
 
今日のジェームズタウンは、[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]]と[[ヨークタウン (バージニア州)|ヨークタウン]]とで作る[[:en:Historic Triangle|歴史三角形]]として知られる重要な国家資産の一部([[:en:Historic Jamestown|歴史的ジェームズタウン]])であり、これら三史跡を結ぶ[[:en:Colonial Parkway|植民地道路]]の西終端でもある。
 
==歴史==
{{see also|バージニア植民地#歴史}}
 
===建設===
[[1607年]]、[[ヴァージニア会社|ロンドン・ヴァージニア会社]]によって[[スーザン・コンスタント]]、[[ゴッドスピード (船)|ゴッドスピード]]、[[ディスカヴァリー (1602年の船)|ディスカバリー]]の3隻の船で105名の植民団が北米植民地開拓に送り込まれた。船長[[クリストファー・ニューポート]]の下、4か月の航海の末に、[[プエルトリコ]]を経由して、1607年4月26日に{{仮リンク|ヘンリー岬|en|Cape Henry}}についに上陸した。現在の[[ハンプトン・ローズ]]地域を探索した後、[[ジェームズ川]]の島内に砦に囲まれた入植地を建設した。こうして、5月4日([[:en:Old Style and New Style dates|O.S.]], 5月14日[[:en:Old Style and New Style dates|N.S.]])にジェームズ砦としてジェームズタウン植民地は設立された。この町の名前は[[イングランド王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]にちなむ。
 
[[ポウハタン]]族[[インディアン]]が彼らを手厚く歓待し、食料を分け与えてくれた。英国最初の北米植民団は[[1585年]]に送り込まれたが、全滅しており([[ロアノーク植民地]]参照)、ジェームズタウンが最初の永続的植民地となる。
 
植民当初は延命に不可欠な農耕につくのを嫌がり、インディアンの支援を受けるも食糧は底を突き、病気が蔓延した<ref name="#1">[[#ナッシュ|ナッシュp.45]]</ref>。[[1608年]]1月にクリストファー・ニューポート率いるイングランドからの第一次支援団が到着した時、最初の入植者はわずかに38名だけしか生き残っていなかった<ref name="#1"/>。この時、新たに120人が送り込まれた。ニューポートは、砦の補強などを行った後、イングランドに戻るとすぐさま次の補給団を率いることを任命された。開拓の指導者であった[[ジョン・スミス (探検家)|ジョン・スミス]]はジェームズタウンの第一の関心を黄金から作物と家畜に変えることと主張し、一時的に事態は改善した<ref name="#1"/>。しかし、同年12月に第二次支援団がジェームズタウンに再び到着した時には、食料が尽きたため半数以上の植民者が死亡していた。この時、第二次支援団によって初めてイギリス人以外の労働者もジェームズタウンに送られた。彼らはドイツ、ポーランド、スロバキア人の職人たちで、ジェームズタウンの工芸輸出品を育てるために雇われた。職工たちによってガラス細工のかまどが建設され、{{仮リンク|ジェームズタウン・ガラスハウス|en| Jamestown Glasshouse}}はアメリカで最初の工場となった。また、ガラス製品はジェームズタウンの最初のヨーロッパへ輸出品となった。
 
これらの努力にもかかわらず入植最初の2年でイングランドの投資家たちに利益を持ち帰られないスミスは1609年に解任され、新たに{{仮リンク|ジョージ・パーシー|en|George Percy}}がジェームズタウン開拓を率いることになった。1609年8月にイングランドからの第3次支援団の7隻が、10月には途中ハリケーンで逸れた1隻が到着した。1609年から1610年にかけての冬は、ネズミ、ヘビ、馬の生皮、果ては人肉まで食べて飢えをしのぐありさまで、総勢500人の入植者のうち生存者はわずか60名となった<ref name="#1"/>(「{{仮リンク|飢えの時|en|Starving Time}}」)。生き残った者も飢餓で全滅寸前であった1610年の春、イングランドからの第3次支援団の最後の1隻(途中[[バミューダ諸島|バミューダ]]に漂着し、そこで冬を越した)が到着したが、食料はわずかしか積んでいなかった。第3次支援団として送られた9隻のうち1隻は行方不明となっている。6月7日、植民団はジェームズタウンを放棄しイングランドに帰還することが決定された。しかしその2日後、第4次支援団が食料や医師などの人員を積んで、すんでのところで到着し、ジェームズタウンを放棄しないよう指示した。この判断は植民者たちから不評であったが、これが功を奏してジェームスタウンはイギリス初の恒久的植民地として生き延びることとなった。
 
それ以降もロンドン会社が次々と送り込む人の波で状況は次第に改善されていった。1610年にバミューダを経てやってきた第3次支援団の一人[[ジョン・ロルフ]]が持ち込んだ新しいタバコの株は、ジェームズタウンで初めてまともに利益を生み出す輸出品に育った。1619年には初めて黒人の労働者がタバコ栽培のためにジェームズタウンに送られた(当初は奴隷ではなかったが1640年頃から[[奴隷制]]が見られ始めるようになり、1660年には奴隷制がバージニアに定着する)。ようやく1620年代には飢えることのない状況になった<ref>[[#ナッシュ|ナッシュpp.45-46]]</ref>。
 
===発展===
[[1619年]]にはアメリカで最初に選出された代表市民議会が{{仮リンク|ジェームズタウン教会|en|Jamestown Church}}で開催された(アメリカ初の議会、地方政府)。当初はイングランド人の男性のみに選挙権があったが、すぐにポーランド人やスロバキア人にも認められるようになった。土地の権利についても取り決めが行われ、バージニアに最初の4つのシティ (cittie) 、{{仮リンク|チャールズ・シティ|en|Charles City (Virginia Company)}}、{{仮リンク|エリザベスシティ|en|Elizabeth City (Virginia Company)}}、{{仮リンク|ヘンライコ・シティ|en|Henrico City (Virginia Company)}}、{{仮リンク|ジェームズ・シティ|en|James City (Virginia Company)}}が設置された。ジェームズタウンはジェームズ・シティの管轄となった。
 
 
[[1622年]]に起こった[[ポウハタン]]族[[インディアン]]による一斉蜂起である「[[ジェームズタウンの虐殺]]」では、当時のジェームズタウンにおける英国白人人口の約1/3にあたる347人が殺されたが、弾圧に成功した。
 
20050
 
[[1676年]]、[[ベイコンの反乱]]によってジェームズタウンは焼き払われたが、すぐさま復興された。
 
[[1619年]]にはアメリカで最初に選出された代表市民議会がジェームズタウン教会で開催された。[[1622年]]に[[ポウハタン]]族[[インディアン]]の大反乱があり、350人が殺されたが、鎮圧に成功した。経済的には[[タバコ]]栽培で成り立った。河口付近は湿地が多かったが、それでもここに入植したのは海から離れているので[[スペイン]]艦隊から見つからず、しかも川が深い場所だったのでいつでもすぐ逃げられるよう外洋船を停泊させることができたからだった。しかし伝染病が発生しやすいので、[[1699年]][[ヴァージニア植民地]]政府は近くのウィリアムズバーグに移転した。現在、跡地には入植当時の要塞や建物、木造船などが再現されている
 
===終焉===
[[伝染病]]が発生しやすかったことから、[[1699年]]に[[ヴァージニア植民地]]政府は近くの[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]]に移転した。現在、跡地には入植当時の要塞や建物、木造船などが再現されている。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=ロデリック・ナッシュ|others=足立康訳|year=1989|month=4|title=人物アメリカ史(上)|series=新潮選書|publisher=新潮社|isbn=4-10-600358-9|ref=ナッシュ}}
 
== 関連項目 ==
* [[ジェームズタウンの虐殺]]
 
==外部リンク==
*[http://www.apva.org/tour/tour.html Jamestown Rediscovery](英語)
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:しえむすたうん}}
[[Category:イングランドの歴史]]
[[Category:アメリカ大陸の植民地化]]
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (-1776)]]
[[Category:バージニア州の歴史]]
 
[[Category:13植民地の歴史]]
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[[Category:歴史上の都市]]
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[[Category:アメリカ合衆国の考古遺跡]]
[[de:Jamestown (Virginia)]]
[[Category:ジェームズ1世]]
[[en:Jamestown, Virginia]]
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