[[ポウハタン]]族[[インディアン]]が彼らを手厚く歓待し、食料を分け与えてくれた。英国最初の北米植民団は[[1585年]]に送り込まれたが、全滅しており︵[[ロアノーク植民地]]参照︶、ジェームズタウンが最初の永続的植民地となる。
植民当初は延命に不可欠な農耕につくのを嫌がり、インディアンの支援を受けるも食糧は底を尽突き、病気が蔓延した<ref name="#1">[[#ナッシュ|ナッシュp.45]]</ref>。[[1608年]]1月にクリストファー・ニューポート率いるイングランドからの第一次支援団が到着した時、最初の入植者はわずかに38名だけしか生き残っていなかった<ref name="#1"/>。この時、新たに120人が送り込まれた。ニューポートは、砦の補強などを行った後、イングランドに戻るとすぐさま次の補給団を率いることを任命された。開拓の指導者であった[[ジョン・スミス (探検家)|ジョン・スミス]]はジェームズタウンの第一の関心を黄金から作物と家畜に変えることと主張し、一時的に事態は改善した<ref name="#1"/>。しかし、同年12月に第二次支援団がジェームズタウンに再び到着した時には、食料が尽きたため半数以上の植民者が死亡していた。この時、第二次支援団によって初めてイギリス人以外の労働者もジェームズタウンに送られた。彼らはドイツ、ポーランド、スロバキア人の職人たちで、ジェームズタウンの工芸輸出品を育てるために雇われた。職工たちによってガラス細工のかまどが建設され、{{仮リンク|ジェームズタウン・ガラスハウス|en| Jamestown Glasshouse}}はアメリカで最初の工場となった。また、ガラス製品はジェームズタウンの最初のヨーロッパへ輸出品となった。
これらの努力にも関かかわらず入植最初の2年でイングランドの投資家たちに利益を持ち帰られないスミスは1609年に解任され、新たに{{仮リンク|ジョージ・パーシー|en|George Percy}}がジェームズタウン開拓を率いることになった。1609年8月にイングランドからの第3次支援団の7隻が、10月には途中ハリケーンで逸れた1隻が到着した。1609年から1610年にかけての冬は、ネズミ、ヘビ、馬の生皮、果ては人肉まで食べて飢えをしのぐありさまで、総勢500人の入植者のうち生存者はわずか60名となった<ref name="#1"/>︵﹁{{仮リンク|飢えの時|en|Starving Time}}﹂︶。生き残った者も飢餓で全滅寸前であった1610年の春、イングランドからの第3次支援団の最後の1隻︵途中[[バミューダ諸島|バミューダ]]に漂着し、そこで冬を越した︶が到着したが、食料はわずかしか積んでいなかった。第3次支援団として送られた9隻のうち1隻は行方不明となっている。6月7日、植民団はジェームズタウンを放棄しイングランドに帰還することが決定された。しかしその2日後、第4次支援団が食料や医師などの人員を積んで、すんでのところで到着し、ジェームズタウンを放棄しないよう指示した。この判断は植民者たちから不評であったが、これが功を奏してジェームスタウンはイギリス初の恒久的植民地として生き延びることとなった。
それ以降もロンドン会社が次々と送り込む人の波で状況は次第に改善されていった。1610年にバミューダを経てやってきた第3次支援団の一人[[ジョン・ロルフ]]が持ち込んだ新しいタバコの株は、ジェームズタウンで初めてまともに利益を生み出す輸出品に育った。1619年には初めて黒人の労働者がタバコ栽培のためにジェームズタウンに送られた︵当初は奴隷ではなかったが1640年頃から[[奴隷制]]が見られ始めるようになり、1660年には奴隷制がバージニアに定着する︶。ようやく1620年代には飢えることのない状況になった<ref>[[#ナッシュ|ナッシュpp.45-46]]</ref>。