「スティーヴン・スピルバーグ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
タグ: 差し戻し済み ビジュアルエディター |
抜けの追加 #article-section-source-editor タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 iOSアプリ編集 |
||
(21人の利用者による、間の36版が非表示) | |||
1行目:
{{ActorActress
| 芸名 = Steven Spielberg[[File:Steven Spielberg Signature.svg|center|frameless|upright]]
| ふりがな = スティーヴン・スピルバーグ
| 画像ファイル = Steven_Spielberg_by_Gage_Skidmore.jpg
10行目:
| 死没地 =
| 民族 = [[ユダヤ系アメリカ人]]
| 身長 =
| 生年 = 1946
| 生月 = 12
19行目:
| 職業 = [[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]
| ジャンル = [[映画]]
| 活動期間 = [[1969年]] - 現在
| 活動内容 = [[1969年]]:テレビ脚本初執筆<br />[[1971年]]:テレビ映画初監督<br />[[1974年]]:劇場映画初監督。[[カンヌ国際映画祭 脚本賞]]受賞<br />[[1975年]]:『[[ジョーズ]]』でブレイク<br />[[1993年]]:[[アカデミー賞]]受賞<br />[[1998年]]:2度目のアカデミー賞受賞
| 配偶者 = [[エイミー・アーヴィング]]([[1985年]] - [[1989年]])<br />[[ケイト・キャプショー]]([[1991年]] - 現在)
| 著名な家族 = [[ジェシカ・キャプショー|ジェシカ]](義理の娘)<br />[[サーシャ・スピルバーグ|サーシャ]](娘)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''監督'''<br />『[[激突!]]』(1971年)<br />『[[ジョーズ]]』(1975年)<br />『[[未知との遭遇]]』(1977年)<br />『[[インディ・ジョーンズ シリーズ|インディ・ジョーンズ]]』シリーズ<br />『[[E.T.]]』(1982年)<br />『[[カラーパープル (1985年の映画)|カラー・パープル]]』(1985年)<br />『[[ジュラシック・パーク]]』シリーズ<br />『[[シンドラーのリスト]]』(1993年)<br />『[[プライベート・ライアン]]』(1998年)<br />『[[A.I.]]』(2001年)<br />『[[マイノリティ・リポート]]』(2002年)<br />『[[キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン]]』(2002年)<br />『[[ターミナル (映画)|ターミナル]]』(2004年)<br />『[[ミュンヘン (映画)|ミュンヘン]]』(2005年)<br />『[[戦火の馬 (映画)|戦火の馬]]』(2011年)<br />『[[リンカーン (映画)|リンカーン]]』(2012年)<br />『[[ブリッジ・オブ・スパイ]]』(2015年)<br />『[[レディ・プレイヤー1]]』(2018年)<br />『[[ウエスト・サイド・ストーリー (映画)|ウエスト・サイド・ストーリー]]』(2021年)<br>『[[フェイブルマンズ]]』(2022年)<hr />'''製作・製作総指揮'''<br />『[[ポルターガイスト (1982年の映画)|ポルターガイスト]]』(1982年)<br />『[[グレムリン (映画)|グレムリン]]』シリーズ<br />『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]]』シリーズ<br />『[[グーニーズ]]』(1985年)<br />『[[ロジャー・ラビット]]』(1988年)<br />『[[メン・イン・ブラック (映画)|メン・イン・ブラック]]』シリーズ<br />『[[父親たちの星条旗]]』(2006年)<br />『[[硫黄島からの手紙]]』(2006年)<br />『[[トランスフォーマー]]』シリーズ<br />『[[トゥルー・グリット]]』(2010年)<br />『[[ジュラシック・ワールド]]』シリーズ<br />『[[ファースト・マン]]』(2017年)
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー作品賞|作品賞]]'''<br />[[第66回アカデミー賞|1993年]]『[[シンドラーのリスト]]』<br />'''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第66回アカデミー賞|1993年]]『シンドラーのリスト』<br />[[第71回アカデミー賞|1998年]]『[[プライベート・ライアン]]』<br />'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />[[第59回アカデミー賞|1986年]]
| 東京国際映画祭 = '''黒澤明賞'''<br />[[第17回東京国際映画祭|2004年]]
38行目:
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 作品賞|作品賞]]'''<br />1993年『シンドラーのリスト』<br />'''[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1993年『シンドラーのリスト』<br />'''[[英国アカデミー賞 フェローシップ賞|フェローシップ賞]]'''<br />1985年
| エミー賞 = '''[[プライムタイム・エミー賞 作品賞 (ミニシリーズ部門)|作品賞(ミニシリーズ部門)]]'''<br />2002年『[[バンド・オブ・ブラザーズ]]』<br />2003年『[[TAKEN]]』<br />[[第62回プライムタイム・エミー賞|2010年]]『[[ザ・パシフィック]]』<br />'''アニメーション番組賞'''<br />1996年『[[ピンキー&ブレイン]]』
| AFI賞 = '''[[
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 映画部門 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞(ドラマ部門)]]'''<br />[[第40回ゴールデングローブ賞|1982年]]『E.T.』<br />[[第51回ゴールデングローブ賞|1993年]]『シンドラーのリスト』<br />[[第56回ゴールデングローブ賞|1998年]]『プライベート・ライアン』<br />2022年『[[フェイブルマンズ]]』<br /> '''[[ゴールデングローブ賞 映画部門 作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)|作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)]]'''<br />[[第79回ゴールデングローブ賞|2021年]]『[[ウエスト・サイド・ストーリー (映画)|ウエスト・サイド・ストーリー]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第51回ゴールデングローブ賞|1993年]]『シンドラーのリスト』<br />[[第56回ゴールデングローブ賞|1998年]]『プライベート・ライアン』<br />2022年『[[フェイブルマンズ]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第69回ゴールデングローブ賞|2011年]]『[[タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 テレビドラマ部門 作品賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)|作品賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)]]'''<br />[[第59回ゴールデングローブ賞|2001年]]『バンド・オブ・ブラザーズ』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第56回ゴールデングローブ賞|2008年]]
| ブルーリボン賞 = '''外国語作品賞'''<br />[[1982年]]『E.T.』<br />[[1986年]]『[[カラーパープル (1985年の映画)|カラーパープル]]』<br />[[1993年]]『ジュラシック・パーク』
| その他の賞 = '''[[大統領自由勲章]]'''<br />[[2015年]]
| 備考 = [[アンブリン・エンターテインメント]]及び[[ドリームワークス]]の共同創業者<br />[[第66回カンヌ国際映画祭]] 審査委員長(2013年)
83行目:
スタジオと契約し、1969年にプロ監督として初めて手掛けた作品は、[[ロッド・サーリング]]が脚本を手掛けたテレビシリーズ﹃[[四次元への招待]]﹄パイロット版の一編﹁アイズ﹂。1971年には﹃[[刑事コロンボ]]﹄の第3作目である﹁構想の死角﹂で監督を務めたほか、テレビ映画として撮った﹃[[激突!]]﹄が評判を呼び、海外で劇場公開されたことで、スピルバーグの名が世界に知られるようになる。1974年に﹃[[続・激突!カージャック]]﹄で、劇場用映画監督に進出する。 1975年に公開された﹃[[ジョーズ]]﹄は、それまでの﹃[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]﹄の記録を破り、1977年に﹃[[スター・ウォーズ]]﹄に抜かれるまで世界歴代興行収入1位を記録する大ヒットとなり、一流監督の仲間入りを果たす。 === 1980年代 ===
初期の頃は、娯楽映画で評価を得ていたが、やがて様々なジャンルの映画を手がけるようになる。1作目が1981年、2作目が1984年、3作目が1989年に公開された、考古学教授でありトレジャーハンターの大冒険を描いた﹃[[インディ・ジョーンズ]]﹄シリーズも大ヒットとなった。1982年に公開された、不恰好だが愛くるしい宇宙人と子供たちとの交流を描いたファンタジー作品﹃[[E.T.]]﹄では、2度目の世界歴代興行収入1位を記録。 [[1985年]]には『[[カラーパープル (1985年の映画)|カラーパープル]]』で初めて[[シリアス]]な作風に挑戦し、[[第58回アカデミー賞]]には[[アカデミー作品賞|作品賞]]を含む10部門11候補にあがったが、無冠に終わっている。無冠の候補数としては史上最多記録である。
また1980年頃より、自ら監督を務めない作品でも、プロデューサーとして名を連ねることが多くなった。ただし、必ずしも製作指揮をとっていたわけではなく、製作資金を確保するために名前を貸したケースも多く、その中には興行的に失敗した作品も少なくない︵詳細は''[[#製作総指揮作品]]''を参照︶。 92 ⟶ 94行目:
=== 1990年代 ===
[[ファイル:Steven Spielberg - GianAngelo Pistoia 1.jpg|サムネイル]]
[[1993年]]には﹃[[ジュラシック・パーク (映画)|ジュラシック・パーク]]﹄を大ヒットさせ、3度目の世界歴代興行収入1位を記録。1997年に﹃[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]﹄に破られるまで続いた。[[第66回アカデミー賞|同年のアカデミー賞]]では、[[ホロコースト]]を描いた﹃[[シンドラーのリスト]]﹄で[[アカデミー作品賞|作品賞]]、[[アカデミー監督賞|監督賞]]を受賞する。スピルバーグは、この作品の製作に意欲的で報酬を断っている。また映画製作と並行し、ホロコーストの生存者が存命のうちに証言を映像で記録し、収集保管を趣旨とする﹁Survivors of the Shoah Visual History Foundation﹂︵[[ショアー財団#南カリフォルニア大学財団映像歴史教育研究所|ショアー生存者映像歴史財団]]︶の創設準備に取りかかり、5万人の証言を集めることを当初目標にかかげる<ref>{{ [[1994年]]に[[ドリームワークス]]を設立。[[第71回アカデミー賞|1998年の第71回アカデミー賞]]では、[[第二次世界大戦]]における[[ノルマンディー上陸作戦]]を舞台に兵士達の過酷な運命を描いた『[[プライベート・ライアン]]』で、2度目の[[アカデミー監督賞]]を受賞する。1999年4月に南カリフォルニア大学のロバート・ゼメキス・センターに50万ドルを寄付した。
=== 2000年代 ===
[[2001年]]に[[英国王室]]︵[[エリザベス2世]]︶より、[[ナイト]]爵を授与された。ホロコーストの生存者・目撃者の証言映像作成と収集活動をスピルバーグが評議員を務めた[[南カリフォルニア大学]]に移管、非営利団体﹁南カリフォルニア大学財団映像歴史教育研究所﹂としてカリフォルニア州で法人登記が行われる<ref>{{ ドリームワークスの経営者としての活動が多くなり、監督作品を出すペースもやや遅くなりつつある一方でプロデューサー︵製作総指揮︶としての活動が盛んになり、﹃[[トランスフォーマー (2007年の映画)|トランスフォーマー]]﹄や﹃[[イーグル・アイ]]﹄で大ヒットを飛ばす。3年ぶりの監督作であり19年ぶりの続編となる﹃[[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]]﹄では興行的には成功したものの、[[ゴールデンラズベリー賞]]で[[第29回ゴールデンラズベリー賞#最低リメイク及び続編賞|最低リメイク及び続編賞]]を受賞する不名誉な結果となった。 === 2010年代 ===
2011年には、[[第一次世界大戦]]を舞台とした演劇の映画化である﹃[[戦火の馬]]﹄と、自身にとっては初の[[3次元コンピュータグラフィックス|3D]][[アニメーション映画]]となった﹃[[タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密]]﹄が公開。前者では[[アカデミー作品賞]]にノミネートされ、後者では[[ゴールデングローブ賞 アニメ映画賞]]を受賞。この頃、[[パラマウント映画]]との関係が悪化するなどで契約上のトラブルが多くなり、長年温めている企画である[[エイブラハム・リンカーン]]の映画も制作に取り掛かるまでに時間を要したが、2011年秋にようやく撮影を開始し、2012年に﹃[[リンカーン (映画)|リンカーン]]﹄が完成。[[第85回アカデミー賞]]では最多ノミネートを記録し、主演を務めた[[ダニエル・デイ=ルイス]]が[[アカデミー主演男優賞]]を受賞。自身の監督作品の中では初の演技部門での受賞となった。 2013年2月には[[第66回カンヌ国際映画祭]]の審査委員長に就任し、5月15日から26日の間で審査員長を務めた。「映画が世界共通の言語であることを長年に渡って証明し続けてきた、最も権威ある映画祭の審査委員長を務めることを大変光栄に思っている」と語っている。
2015年、[[大統領自由勲章]]を受章<ref>{{ 2016年には『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』では初めて[[ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ|ディズニー]]で映画を制作した。
=== 2020年代 ===
2021年に[[ウエスト・サイド物語 (映画)|同名ミュージカル映画]]のリメイク作品『[[ウエスト・サイド・ストーリー (映画)|ウエスト・サイド・ストーリー]]』、2022年に初の自伝的作品『[[フェイブルマンズ]]』を監督。両作品ともアカデミー[[アカデミー作品賞|作品賞]]・[[アカデミー監督賞|監督賞]]に2年連続でノミネートされ、[[ゴールデングローブ賞]]では2年連続で作品賞を受賞した。
2023年には長年シリーズを監督してきた[[インディ・ジョーンズ シリーズ]]の最新作『[[インディ・ジョーンズと運命のダイヤル]]』が公開。監督は新たに[[ジェームズ・マンゴールド]]に託し、自身は製作を務めた。
== 受勲・名誉賞 ==
121 ⟶ 130行目:
スピルバーグは自身が[[ボーイスカウト]]を経験したことから、[[ボーイスカウトアメリカ連盟]]のバッジ制度に映画製作の[[メリットバッジ]]創設を支援し、身を立てる技術として映画制作を促進した。このバッジは1989年9月に[[ジャンボリー#アメリカジャンボリー|アメリカジャンボリー]]で初の授与式が行われ、出席したスピルバーグは、バッジの審査条件である映像作品を持ち寄った少年たちの相談に応じた<ref>{{cite journal|title= Boys' Life—A magazine for boys|publisher=Boy Scouts of America|location= Irving, Texas|issn= 0006-8608|number=September 1989}}</ref>。 同じ1989年には﹁[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]﹂が公開、映画冒頭のシーンには{{仮リンク|アメリカのボーイスカウトの制服と記章|en|Uniform and insignia of the Boy Scouts of America}}を身につけた10代のインディアナ・ジョーンズが登場し、よく見ると{{仮リンク|ライフスカウト|en|Life Scout}}記章を身に付けている。スピルバーグはスカウト時代の自分の経験を尊び、インディアナ・ジョーンズをボーイ・スカウトに仕立てたと回想している。 アメリカ連盟は職業人として成し遂げたスピルバーグの功績を認め、他者への奉仕ならびに新しいメリットバッジ創設に献身したことを称えて{{仮リンク|イーグルスカウト功労者賞|en|Distinguished Eagle Scout Award}}を授与した<ref>{{ === 映画賞 ===
スピルバーグはアカデミー賞を3回受賞した。[[アカデミー監督賞]]は8回ノミネートされ受賞2回︵﹃[[シンドラーのリスト]]﹄と﹃[[プライベートライアン]]﹄︶、[[アカデミー作品賞|作品賞]]は﹃シンドラーのリスト﹄で受賞したほか、ノミネート作は10本を数える。1987年には創作プロデューサーとして[[アービング・G・タルバーグ賞]]を受けた。 2006年には[[シカゴ国際映画祭]]夏季映画祭︵Summer Gala︶から7月15日に{{仮リンク|ヒューゴ賞金賞生涯功労賞|en|Chicago International Film Festival#Grand Prize: Gold Hugo}}を授与されている<ref>{{cite news|title=スピルバーグに生涯功労賞 (Spielberg receives Lifetime Achievement Award|language=en|publisher=シカゴ国際映画祭|date=July 17, 2006|url=https://www.chicagofilmfestival.com/cgi-bin/WebObjects/CIFFSite.woa/wa/pages/SummerGala06|accessdate=October 21, 2006|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061016164659/http://www.chicagofilmfestival.org/cgi-bin/WebObjects/CIFFSite.woa/wa/pages/SummerGala06|archivedate=October 16, 2006 }}</ref>。 133 ⟶ 142行目:
1998年、[[ドイツ連邦共和国功労勲章]]を受章している。[[ローマン・ヘルツォーク]]大統領が章を授け、映画﹁シンドラーのリスト﹂と[[ショアー財団]]設立の功績を称えた<ref>{{cite web|title = Steven Spielberg erhält das Bundesverdienstkreuz|language=de|publisher = Berlin Online|date = September 11, 1998|url = http://www.berlinonline.de/berliner-zeitung/archiv/.bin/dump.fcgi/1998/0911/seite1/0064/index.html| accessdate= December 19, 2008|archive-url = https://web.archive.org/web/20091019070726/http://www.berlinonline.de/berliner-zeitung/archiv/.bin/dump.fcgi/1998/0911/seite1/0064/index.html| |archive-date= October 19, 2009|dead-url = yes|df = mdy-all}}</ref>。 <!-- ﹁職歴﹂の節からいったんコメントアウトしたナイト爵叙勲の部分をここに移動。-->2001年、[[イギリス]]のエンターテインメント業界への貢献に対し、[[英国王室]]︵[[エリザベス2世]]︶より[[ナイト]]爵を授与され、イギリス国籍がないため名誉爵位の扱いである{{efn|スピルバーグは[[大英帝国勲章]]{{仮リンク|英国名誉ナイトコマンダー|en|List of honorary British knights and dames}}︵KBE︶に叙せられた<ref>{{ 2004年、[[ジャック・シラク]]大統領より[[レジオン・ドヌール]]勲章シュヴァリエ︵第5の階級︶に迎えられる<ref>{{cite news|title=Le Président de la République remet les insignes de chevalier de la Légion d'Honneur à M. Steven Spielberg|publisher=[[エリゼ宮殿]]|date=September 5, 2004|language=fr|url=https://www.elysee.fr/elysee/elysee.fr/francais_archives/actualites/a_l_elysee/2004/septembre/popup/steven_spielberg_legion_d_honneur-photo_1-5.22276.html|accessdate=September 29, 2007|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071206131550/https://www.elysee.fr/elysee/elysee.fr/francais_archives/actualites/a_l_elysee/2004/septembre/popup/steven_spielberg_legion_d_honneur-photo_1-5.22276.html|archivedate=December 6, 2007|df= }}</ref>。[[レジオンドヌール勲章]]の叙勲は2008年である<ref>{{cite news|title=フランス、スピルバーグを叙勲 (French honour for Steven Spielberg)|publisher={{仮リンク|PA (通信社)|en|Press Association|label=PA}}|date=May 21, 2008|url=http://ukpress.google.com/article/ALeqM5jS1sYgmE95AtZeoVHxjt38GsqF1A|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120309151510/http://ukpress.google.com/article/ALeqM5jS1sYgmE95AtZeoVHxjt38GsqF1A|archivedate=2012-03-09|accessdate=May 22, 2008|dead-url=yes }}{{dead link|date=June 2016|bot=medic}}{{cbignore|bot=medic}}</ref>。 142 ⟶ 151行目:
名誉学位を各校から贈られており、1999年に[[ブラウン大学]]から、[[ボストン大学]]からは第136回卒業式︵2009年5月17日︶において、同年10月には{{仮リンク|フィラデルフィア自由勲章|en|Philadelphia Liberty Medal}}を前アメリカ合衆国大統領[[ビル・クリントン]]から授けられる。授与式の出席者には[[ウーピー・ゴールドバーグ]]、[[ペンシルベニア州|ペンシルベニア]]州知事{{仮リンク|エド・レンデル|en|Ed Rendell}}および{{仮リンク|マイケル・ナッター|en|Michael Nutter}}[[フィラデルフィア]]市長が顔をそろえた。[[ハーバード大学]]は2016年5月26日付で名誉芸術博士号を授与。 2008年6月[[アリゾナ州立大学]]よりヒュー・ダウンズ優秀コミュニケーション賞︵Hugh Downs Award for Communication Excellence︶を受ける<ref>{{ === アメリカの各章 ===
149 ⟶ 158行目:
また2006年12月3日に[[ケネディ・センター名誉賞]]受賞。俳優の[[リーアム・ニーソン]]の祝辞、[[第二次世界大戦]]の[[退役軍人]]より映画﹁プライベートライアン﹂に寄せる謝意のメッセージが発表されると、[[レナード・バーンスタイン]]作﹁[[キャンディード]]﹂︵指揮はスピルバーグ作品で多くの主題歌を振った[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]︶の上演で授賞式はお開きとなった{{citation needed|date=October 2014}}。 [[アメリカ国立公文書記録管理局]]は2013年11月19日、功労賞︵Records of Achievement Award︶を贈り、副賞として[[アメリカ合衆国憲法修正第13条]]の1861年に議会で可決しながら批准されなかった版と、1865年に[[エイブラハム・リンカーン]]大統領が署名して成立した改正案の合計2点の複製品が添えられた。改正案ならびにその批准の過程はスピルバーグの映画作品﹁[[リンカーン (映画)|リンカーン]]﹂の主題である<ref>{{ 2015年11月24日、アメリカ大統領[[バラク・オバマ]]は[[ホワイトハウス]]でスピルバーグに[[大統領自由勲章]]を贈る<ref>{{ === 名誉の殿堂入り ===
{{仮リンク|SF名誉の殿堂|en|Museum of Pop Culture#Science Fiction and Fantasy Hall of Fame}}入りを果たすのは2005年であり、文学作品以外として初の事例だった<ref name=sfhof2005>{{ === 視聴者賞 ===
195 ⟶ 204行目:
1981年に「私はアカデミー賞を獲れないだろう」と発言したスピルバーグだが、1998年の『プライベート・ライアン』でアカデミー監督賞(2度目の)受賞スピーチでは「どうしても欲しかった」と語った。
﹃[[未知との遭遇]]﹄と﹃[[レイダース/失われたアーク︽聖櫃︾]]﹄で[[アカデミー監督賞|監督賞]]、﹃E.T.﹄で監督賞と[[アカデミー作品賞|作品賞]]にノミネートされたが受賞は出来ず、﹃[[カラーパープル (1985年の映画)|カラー・パープル]]﹄では作品、[[アカデミー脚色賞|脚色]]、[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]を含む10部門にノミネートされながら全て逃し、自身は監督賞にノミネートもされないという苦い思いを味わった。1980年代はスピルバーグにとって娯楽性の高い作風からシリアス路線へと移行した時期だが、[[アーヴィング・G・タルバーグ賞]]を1987年に40歳という異例の若さで受賞した際には﹁[[アカデミー監督賞|オスカー]]が獲れないのはヒット連発に対する嫉み﹂という噂が立つことになった<ref group=注釈>あからさまに﹁彼︵スピルバーグ︶は充分成功しているから受賞の必要なし﹂と発言する[[ジョン・ヒューストン]]の例もある。</ref>。﹃[[ジュラシック・パーク]]﹄を大ヒットさせた同じ年に﹃[[シンドラーのリスト]]﹄でアカデミー監督・作品賞をダブル受賞。 ﹃[[マイノリティ・リポート]]﹄と﹃[[キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン]]﹄︵2002年︶、﹃[[宇宙戦争 (2005年の映画)|宇宙戦争]]﹄と﹃[[ミュンヘン (映画)|ミュンヘン]]﹄︵2005年︶とシリアスな作品とより娯楽性の高い作品が同じ年に作られた︵﹃ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書﹄も2016年の内に実写パートを撮り終えた﹃レディ・プレイヤー1﹄のポストプロダクションが長引いている間に短期間で作り上げ、2017年末には限定公開されたある種の並行製作作品︶が、3度目の受賞には至っていない。 201 ⟶ 210行目:
== 逸話 ==
; 親日家
: 親日家としても有名で、﹃[[宇宙戦争 (2005年の映画)|宇宙戦争]]﹄の日本限定のCMを公開したり、自らの作品及び製作に携わった作品の予告編の前振りに出演することがある。﹃1941﹄の日本版サントラの解説によると食べ物の中で寿司が好物とのこと。{{要出典範囲|ウナギの蒲焼きが大好物|date=2011年11月}}とも言われる。自宅の門には日本語で﹁スチーブン スピルバーグ﹂と彫られた木製の表札が掛かっており、これは三船敏郎が﹃1941﹄に出演した際にプレゼントしたものである。2001年に﹃[[A.I.]]﹄と﹃[[鉄腕アトム]]﹄の類似性について尋ねられた際、﹁日本のテレビ局のインタビューを受けるまで、﹃鉄腕アトム﹄という作品の存在すら知らなかった﹂と答えた<ref>[http://www.eiga-portal.com/butaiaisatsu/ai-eisei/01.shtml DVD映画ポータル - スティーブン・スピルバーグ監督 サテライト記者会見 ﹁A.I.﹂]︵2001年6月19日、帝国ホテルにて︶</ref>。ただし手塚治虫とは一時親交があった。手塚治虫はテレビのインタビューで、ス ; 自ら監督・製作した映画への出演
253 ⟶ 262行目:
* [[レバノン侵攻 (2006年)|2006年のレバノン侵攻]]の間、イスラエルに100万ドルの寄付をしたため、翌2007年に[[アラブ連盟]]がスピルバーグの映画をボイコットすることとなった<ref>[https://www.haaretz.com/1.5094885 "Spielberg movies banned by Arab League, WikiLeaks cable reveals."] ''[[ハアレツ|Haaretz]]'', 18 December 2010.</ref><ref>{{Cite news|title = Spielberg donates $US1m to Israeli relief|agency = Associated Press|date = August 10, 2006|accessdate =December 18, 2010|url=https://www.theage.com.au/entertainment/celebrity/spielberg-donates-us1m-to-israeli-relief-20060810-ge2w7a.html|newspaper=The Age|location=Melbourne}}</ref>。 * 2007年2月20日、スピルバーグ、カッツェンバーグ、[[デヴィッド・ゲフィン]]は[[バラク・オバマ]]の基金パーティに民主党員を招待した<ref>[https://news.yahoo.com/s/ap/20070126/ap_en_ot/celebrities_obama_8 Obama excites entertainment community]{{リンク切れ|date=January 2011}} By JOCELYN NOVECK, AP National Writer</ref>。しかしながら2007年6月14日、スピルバーグは大統領選では[[ヒラリー・クリントン]]を支援した︵カッツェンバーグとゲフィンはオバマを支持し続けた︶。だが2008年8月、スピルバーグはオバマのためのビデオを監督し、[[バラク・オバマ大統領就任式]]にも出席した。 * 2008年2月、[[ダルフール紛争]]での中国政府の対応に不満を持ったスピルバーグは、[[クインシー・ジョーンズ]]らと[[2008年北京オリンピック|同年の北京オリンピック]]の芸術顧問を降板した<ref>{{Cite news|title=Spielberg drops out as Beijing Olympics advisor|year=2008|work=Los Angeles Times|author=Rachel Abramowitz|url=https://www.latimes.com/entertainment/news/movies/la-et-spielberg13feb13,1,7027646.story?ctrack=2&cset=true
|accessdate=2007-02-13}} {{リンク切れ|date=2010年8月|bot=RjwilmsiBot}}</ref>。スピルバーグは﹁これ以上この仕事を続けるのは私の良心が耐えられない﹂という声明を発表した。また、﹁スーダン政府には継続しているこれら犯罪行為の責任があるが、国際社会、特に中国はもっと手を打つべきだ﹂とも述べた<ref>{{Cite news|title=Spielberg in Darfur snub to China|work=BBC|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7242016.stm |accessdate=2008-05-16|date=2008-02-13}}</ref>。[[国際オリンピック委員会]]︵IOC︶はスピルバーグの決断を尊重したが、IOC会長の[[ジャック・ロゲ]]はインタビューで﹁︵スピルバーグは︶確かに創造性の面で開幕式へ多くものを提供しただろう。﹂と認めた<ref>{{Cite news|title=Rogge respect for Spielberg move|work=BBC|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/olympics/7247590.stm 274 ⟶ 283行目:
=== 発達障害 ===
2012年10月、[[ディスレクシア]]であることを明かした<ref>{{Cite web == フィルモグラフィー ==
280 ⟶ 289行目:
=== 監督作品 ===
{| class="wikitable
|-▼
▲!公開年!!邦題<br />原題!!備考
|-
| 1969 || [[四次元への招待]]<br />''Night Gallery'' || (テレビシリーズ/パイロット版)
|-
| rowspan=" ▲|-
| [[激突!]]<br />''Duel'' || rowspan="3" | (テレビ映画)▼
|-
| 1972 || [[恐怖の館 (映画)|恐怖の館]]<br />''Something Evil''
▲| [[激突!]]<br />''Duel'' || (テレビ映画)
|-
|
|-
| 1974 || [[続・激突! カージャック]]<br />''The Sugarland Express'' || 兼 ストーリー原案
298 ⟶ 310行目:
| 1977 || [[未知との遭遇]]<br />''Close Encounters of the Third Kind'' || 兼 脚本
|-
| 1979 || [[1941 (映画)|1941]]<br />'' 1941 '' || rowspan="2" |
|-
| 1981 || [[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]<br />''Raiders of the Lost Ark''
|-
| 1982 || [[E.T.]]<br />''E.T. the Extra-Terrestrial'' || 兼 製作
310 ⟶ 322行目:
| rowspan="2"| 1985 || [[世にも不思議なアメージング・ストーリー]]<br />''Amazing Stories'' || (テレビシリーズ)
|-
| [[カラーパープル (1985年の映画)|カラー・パープル]]<br />''The Color Purple'' || rowspan="2" | 兼 製作
|-
| 1987 || [[太陽の帝国]]<br />''Empire of the Sun''
|-
| rowspan="2"| 1989 || [[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]<br />''Indiana Jones and the Last Crusade'' ||
318 ⟶ 330行目:
| [[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]<br />''Always'' || 兼 製作
|-
| 1991 || [[フック (映画)|フック]]<br />''Hook'' || rowspan="2" |
|-
| rowspan="2"| 1993 || [[ジュラシック・パーク (映画)|ジュラシック・パーク]]<br />''Jurassic Park''
|-
| [[シンドラーのリスト]]<br />''Schindler's List'' || 兼 製作
|-
| rowspan="2"| 1997 || [[ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク]]<br />''The Lost World: Jurassic Park'' || rowspan="2" |
|-
| [[アミスタッド]]<br />''Amistad''
|-
| 1998 || [[プライベート・ライアン]]<br />''Saving Private Ryan'' || 兼 製作
334 ⟶ 346行目:
| rowspan="2"| 2002 || [[マイノリティ・リポート]]<br />''Minority Report'' ||
|-
| [[キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン]]<br />''Catch Me If You Can'' || rowspan="2" | 兼 製作
|-
| 2004 || [[ターミナル (映画)|ターミナル]]<br />''The Terminal''
|-
| rowspan="2"| 2005 || [[宇宙戦争 (2005年の映画)|宇宙戦争]]<br />''War of the Worlds'' || ([[H・G・ウェルズ]]原作[[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|宇宙戦争]]の再映画化)
342 ⟶ 354行目:
| [[ミュンヘン (映画)|ミュンヘン]]<br />''Munich'' || 兼 製作
|-
| 2008 || [[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]]<br />''Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull'' || rowspan="2" |
|-
| rowspan="2"| 2011 || [[タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密]]<br />''The Adventures of Tintin: Secret of the Unicorn''
|-
| [[戦火の馬 (映画)|戦火の馬]]<br />''War Horse'' || rowspan="7" | 兼 製作
|-
| 2012 || [[リンカーン (映画)|リンカーン]]<br />''Lincoln''
|-
| 2015 || [[ブリッジ・オブ・スパイ]]<br />''Bridge of Spies''
|-
| 2016 || [[BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント]]<br />''The BFG''
|-
| 2017 || [[ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書]]<br />''The Post''
|-
| 2018 || [[レディ・プレイヤー1]]<br />''Ready Player One''
|-
| 2021 ||[[ウエスト・サイド・ストーリー (映画)|ウエスト・サイド・ストーリー]]<br />''West Side Story''
|-
| 2022 ||[[フェイブルマンズ]]<br />''The Fablemans'' || 兼 脚本・製作 上記の幼少期のエピソードを投影した自伝的内容。 |-
| rowspan="
|-
| {{0}}<br />''Bullitt''
|-
|<br />''Untitled UFO's Movie''
|}
=== 製作作品 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;"
|-▼
!公開年!!邦題<br />原題!!備考
|-
| 1982 || [[ポルターガイスト (1982年の映画)|ポルターガイスト]]<br />''Poltergeist'' || 兼 原案・脚本
|-
| 1991 || [[アメリカ物語2/ファイベル西へ行く]]<br />''An American Tail: Fievel Goes West'' || rowspan="11" |
▲|-
| 2005 || [[SAYURI]]<br />''Memoirs of a Geisha''
|-▼
| rowspan="2"| 2006 || [[父親たちの星条旗]]<br />''Flags of Our Fathers''
|-
|-
|
|-
| 2014 || [[
|-
|
|-
|
|-
| [[マエストロ: その音楽と愛と]]<br />''Maestro''
|-
|-
| TBA || [[地球最後の日]]<br />''When Worlds Collide''
|}
509 ⟶ 525行目:
* [[ポルターガイスト (1982年の映画)|ポルターガイスト]](''Poltergeist''、1982年)
* [[A.I.]](''A.I. Artificial Intelligence''、2001年)
* [[フェイブルマンズ]](''The Fabelmans''、2022年'')''
=== ミュージックビデオ ===
スピルバーグは長年、ミュージックビデオを監督したことはなかった。2022年、[[マムフォード・アンド・サンズ|マーカス・マムフォード]]のために「Cannibal」のミュージック・ビデオを初めて監督した。スピルバーグ自身がスマホで撮影したワンショットのビデオで、スピルバーグが座っている事務用イスは妻のケイト・キャプショーが動かした<ref>{{Cite news|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/steven-spielberg-mv_jp_62d75eece4b0a6852c30d50d|title=スピルバーグ監督はスマホでも凄かった。1ショットで撮影した初のMVがこれだ【動画】|date=2022-07-20|publisher=HUFFPOST|accessdate=2024-01-02}}</ref>。
* Cannibal(''Marcus Mumford''、2022年)
=== カメオ出演 ===
532 ⟶ 553行目:
|[[カンヌ国際映画祭 脚本賞|脚本賞]]||{{won}}
|-
!rowspan="
|[[第48回アカデミー賞|1975年]]||[[アカデミー作品賞|作品賞]]||『[[ジョーズ]]』||{{nom}}
|-
545 ⟶ 566行目:
|監督賞||{{nom}}
|-
|[[第58回アカデミー賞|1985年]]||作品賞||『[[カラーパープル (1985年の映画)|カラーパープル]]』||{{nom}}
|-
|[[第59回アカデミー賞|1986年]]||[[アービング・G・タルバーグ賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}}
577 ⟶ 598行目:
|監督賞||{{nom}}
|-
|rowspan="3"|[[第
|-
|監督賞||{{nom}}
583 ⟶ 604行目:
|脚本賞||{{nom}}
|-
|[[第96回アカデミー賞|2023年]]||作品賞||『[[マエストロ:その音楽と愛と]]』||{{nom}}
!rowspan="31" style="text-align:left"|[[ゴールデングローブ賞]]▼
|-
|rowspan="2"|1975年||[[ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞 (ドラマ部門)]]||rowspan="2"|『ジョーズ』||{{nom}}
|-
645 ⟶ 668行目:
|-
|脚本賞||{{nom}}
|-
|[[第81回ゴールデングローブ賞|2023年]]||作品賞 (ドラマ部門)||『マエストロ:その音楽と愛と』||{{nom}}
|-
!rowspan="18" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]]
916 ⟶ 941行目:
!style="text-align:left"|[[アニー賞]]
|2014年||ウィンザー・マッケイ賞||style="text-align:center"|-||{{won}}<ref>2014年2月3日中日新聞朝刊27面</ref>
▲|-
|}
973 ⟶ 997行目:
{{アカデミー賞監督賞 1981-2000}}
{{アービング・G・タルバーグ賞}}
{{AFI生涯功労賞}}
{{英国アカデミー賞監督賞}}
{{全米監督協会賞 長編映画監督賞}}
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}
{{AARP大人のための映画賞 監督賞}}
{{全米映画批評家協会賞 監督賞}}
{{クリティクス・チョイス・ムービー・アワード 監督賞}}
989 ⟶ 1,015行目:
[[Category:SF映画監督]]
[[Category:ドリームワークス]]
[[Category:大英帝国勲章受章者]]▼
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]
996 ⟶ 1,021行目:
[[Category:セザール賞受賞者]]
[[Category:アニー賞受賞者]]
[[Category:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者]]
[[Category:ドイツ連邦共和国功労勲章受章者]]
1,006 ⟶ 1,032行目:
[[Category:シンシナティ出身の人物]]
[[Category:ディスレクシアと診断された人物]]
[[Category:2008年北京オリンピック]]
[[Category:1947年生]]
[[Category:存命人物]]
|