「タウンハウス」の版間の差分
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*戦前の[[大阪]]は、[[区画整理]]がなされた土地の上に整然と長屋が建てられ、長屋は都市型住居としてひとまず完成の域に達した。大阪市住宅調査︵1941︶によると大阪市の専用住宅のうち約90%が借家であった。さらに借家調査︵1940︶では、借家のうち約95%が長屋建であった<ref>寺内信﹃大阪の長屋-近代における都市と住居﹄INAX出版 1992</ref>。 *[[1975年]]以降の顕著な動向の一つが、低層集合住宅の復活である。民間分譲では、桜台コートビレッジ︵1969 - 1970︶、サンハイツ[[金沢八景]]︵1974︶、さらにライブタウン浜田山︵1977︶、南桜井ガーデンタウン︵1978︶など多数の事例がある。公営賃貸では、[[建設省]]から茨城県に出向していた[[蓑原敬]]と建築家 藤本昌也らによる[[茨城県]]の六番池団地︵[[1976年|1976]]︶、会神原団地、三反田団地、小野崎団地ほか、石川県の諸江団地や秋田県でも生み出された。公共の分譲住宅として、東京[[多摩ニュータウン]]のタウンハウス諏訪︵[[1979年|1979]]︶、京都の高野第2団地︵1980︶、大阪の庭代台タウンハウス︵1976︶など続々と建設された<ref name="center">小林秀樹﹃日本における集合住宅の定着過程﹄財団法人日本住宅総合センター 2001</ref>。 *なお、タウンハウス諏訪やライブタウン浜田山は接地型住宅と言われる。接地型住宅とは、すべての家が土地に接する集合住宅のこと。<ref>{{Cite book|和書 |title=建築物・様式ビジュアルハンドブック |year=2009年 |publisher=株式会社エクスナレッジ |page=87 |author=戸谷英世・竹山清明}}</ref>
*[[1980年代]]の後半に入ると、[[バブル経済]]による地価高騰によってタウンハウスの成立する市場は失われていった。タウンハウス形式では中堅所得層の資金負担の限界を超えるようになり、住宅価格を下げるために中高層住宅あるいは超高層住宅へと課題が移っていった。都市の郊外では、工事費が割安な木造の一戸建て住宅を好むニーズが根強く、しだいにタウンハウス建設は下火になっていった<ref name="center"/>。 *近年、タウンハウスの特長が見直され、地価が落ち着くとともに民間分譲分野でもセボン、スターツディベロップメント、アーキネット︵[[コーポラティブハウス]]︶、オープンハウス、コスモスイニシアなどが取り組んでいる。 |