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[[ファイル:Tatar woman XVIII century.jpg|right|thumb|200px|18世紀のタタールの女性]]
{{モンゴルの歴史}}
'''タタール'''(Tatar)は、[[北アジア]]の[[モンゴル高原]]と[[シベリア]]と[[カザフステップ]]から[[東ヨーロッパ]]の[[リトアニア]]にかけての幅広い地域にかけて活動した[[モンゴル系民族|モンゴル系]]、[[テュルク系民族|テュルク系]]、[[ツングース系民族|ツングース系]]および[[サモエード人|サモエード系]]と[[フィン・ウゴル系民族|フィン=ウゴル系]]の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、[[中国]]から伝わった'''韃靼'''(だったん)という表記も用いてきた<ref>[[南宋]]の『蒙韃備録』によると、韃靼(タタール)は、[[華北平原|漢地]]付近にいた[[内モンゴル]]の'''熟韃靼'''・'''生韃靼'''と[[モンゴル高原|漠北]]
== 現在のタタール ==
タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。
現在では、旧[[ソビエト連邦]]を中心にシベリアから東ヨーロッパにかけて居住するテュルク系諸民族がタタール({{lang-tt|Татарлар}}, Tatarlar)を自称するが、彼らは必ずしも歴史上タタールと称されてきたあらゆる民族の末裔ではない。現在タタールと呼ばれる諸民族は[[ロシア連邦]]内の[[ヴォルガ川]]中流域([[イデル=ウラル]]地域)に住む[[ヴォルガ・タタール人]](カザン・タタール人)、ヴォルガ川下流域に住む{{仮リンク|アストラハン・タタール人|tt|Әстерхан татарлары|ru|Астраханские татары|en|Astrakhan Tatars}}、[[シベリア]]に住む{{仮リンク|シベリア・タタール人|tt|Себер татарлары|ru|Сибирские татары|en|Siberian Tatars}}、[[ウクライナ]]領の[[クリミア自治共和国]]に住む[[クリミア・タタール人]]、[[ベラルーシ]]、[[リトアニア]]および[[ポーランド]]に住む[[リプカ・タタール人]]などに
タタール人の人口が多い国はロシアで、統計上の総人口はおよそ550万人で[[ロシア人]]に次ぐ多数派民族である。このうち数が多いのはヴォルガ・タタール人で、ヴォルガ中流域の[[タタールスタン共和国]]に200万人、隣の[[バシコルトスタン共和国]]に100万人が居住する。また、[[中国の少数民族]]のひとつタタール族︵塔塔{{Lang|zh|尔}}族 {{ピン音|tătăĕrzú}}︶は、[[中華人民共和国|中国]]の[[新疆ウイグル自治区]]に居住するロシア系タタール人のことで、人口は約5000人。 == 語源と表記 ==
タタールの
伝統的にはもっぱら、[[中国語]]では'''韃靼'''︵ダーダー、{{ピン音|dádá}}︶、[[アラビア語]]では'''تتر'''︵タタル︶、[[ペルシア語]]では''' تاتار '''︵タータール︶、[[ロシア語]]では '''{{Lang|ru|Татар}}'''︵タタール︶、[[西ヨーロッパ]]の諸言語では '''Tartar'''︵タルタル︶と表記される<ref>[http://www.mongoljoho.com/m_history.html ﹁モンゴルの歴史 チンギス・ハーン以前のモンゴル﹂-タタル︵タタール︶]︵モンゴル国政府公認 観光・ビジネス情報センター︶</ref>。 == 概要 ==
タタル (Татарла, Татар - Tatarla, Tatar) という語は、[[テュルク系]][[遊牧国家]]である[[突厥]]︵とっけつ︶が[[モンゴル高原]]の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称である<ref name="a-jiten">護﹁韃靼﹂﹃アジア歴史事典﹄6巻、103頁</ref>。この語は[[テュルク語]]で﹁他の人々﹂を意味するとされ<ref name="ikuta"/>、その最古の使用例は[[突厥文字]]で記した碑文︵[[突厥碑文]]︶においてであった。まもなく中国側もテュルク語のタタルを取り入れ、﹃[[新五代史]]﹄や﹃[[遼史]]﹄において﹁達靼﹂ 後にタタルと自称する人々はモンゴル部族に従属して[[モンゴル帝国]]の一員となり、ヨーロッパ遠征に従軍したため、ヨーロッパの人々にその名を知られた。ヨーロッパではモンゴルの遊牧騎馬民族が﹁タルタル (Tartar)﹂と呼ばれるようになり、その土地名も﹁モンゴリア︵[[モンゴル高原]]︶﹂という語が定着するまでは﹁タルタリー﹂と呼ばれた。中でもロシア語の﹁タタール({{Lang|ru|Татар}})﹂はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル︵タタール人︶の支配を受けた国であり、ロシア人にとって﹁[[タタールのくびき]] ({{lang|ru|татарское иго}})﹂という苦い歴史として認識されている。東ヨーロッパではモンゴル帝国の崩壊後にロシアの周縁で継承政権を形成した[[ムスリム]]︵イスラム教徒︶の諸集団をタタールと称した。彼らの起源は、モンゴル帝国の地方政権のうちで後のロシア領を支配した[[ジョチ・ウルス]]において[[イスラム教]]を受容しテュルク化したモンゴル人と彼らに同化した土着のテュルク系、[[フィン・ウゴル語派|フィン・ウゴル系]]諸民族などで、これが現在のロシア・東ヨーロッパのタタール民族に繋がっている。 一方、東アジアでもモンゴル帝国の崩壊後も﹁タタル﹂の語は使われ続け、漢字で﹁韃靼﹂と記された<ref name="ca-jiten">赤坂﹁韃靼﹂﹃中央ユーラシアを知る事典﹄、325-326頁</ref>。この韃靼はかつての達靼︵[[タタル部]]︶ではなく、モンゴル人全体を指しているため、使い方としてはヨーロッパと類似している。 以上のように、﹁タタル﹂という呼び名は突厥碑文の他称に始まり、のちに突厥碑文のタタルから派生したタタル部︵達靼︶が自称するようになった。同じく突厥碑文のタタルから派生したモンゴルが巨大なユーラシア帝国に形成すると、タタル部はその一員となるが、この時代にモンゴル帝国の遊牧民全体がヨーロッパ、中国から﹁タルタル、韃靼﹂と他称された。また、ロシア・東ヨーロッパではモンゴル帝国を政治的に継承した諸民族が﹁タタール﹂と呼ばれ、その子孫であるテュルク系[[ムスリム]]は今もなお﹁タタール人﹂と自称している。 == 東アジアのタタール ==
=== 三十姓タタルと九姓タタル ===
突厥碑文には、﹁'''三十姓タタル'''︵オトゥズ・タタル、Otuz Tatar︶﹂や、﹁'''九姓タタル'''︵トクズ・タタル、Toquz Tatar︶﹂という複数の部族︵姓︶からなる集団が登場する。このうちの三十姓タタルは中国史書に記されている[[室韋]]︵しつい︶に比定されている。 [[8世紀]]の﹃[[ホショ・ツァイダム碑文]]︵キョル・テギン碑文︶﹄に、﹁[[バイカル湖]]の東岸方面のクリカン︵[[骨利幹]]︶と[[シラムレン川]]のキタン︵契丹︶の間に、オトゥズ・タタル︵三十姓タタル︶がいた﹂と刻まれたように<ref>宮脇 2002,p40</ref>、[[突厥]]の時代から室韋は三十姓タタルと呼ばれていたのであるが、一方で﹃[[シネ・ウス碑文]]﹄などに﹁トクズ・タタル︵九姓タタル︶﹂という集団が[[セレンゲ川]]下流近くに居住していたことも記されている。九姓タタルと三十姓タタルとの関係はわかっていないが、九姓タタルが三十姓タタルと同じ起源であるとすれば、これも室韋から分かれた集団であると推測できる。しかし 860年代に九姓タタルは[[回鶻]](ウイグル)を滅ぼした[[黠戛斯]](キルギス)を撃退し、[[オルホン川]]流域に割拠した。[[13世紀]]にモンゴルが強大になるまでモンゴル高原の支配部族であった[[ケレイト]]王家はおそらく九姓タタルの後身である可能性が高い<ref>宮脇 2002,p41</ref>。
一方で、室韋の旧地に残っていた三十姓タタルは、かつて九姓タタルが住んでいたセレンゲ川上流域や、[[ケルレン川]]上流にまで住地を広げ、11世紀から13世紀にかけて活躍するモンゴルやタタルといった部族の起源となる。 === タタル部 ===
{{main|タタル部}}
[[ファイル:Map of 13c Mongolia.png|thumb|350px|13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。]]
モンゴル高原中央部で黠戛斯︵キルギス︶の[[遊牧国家]]が倒れると、タタル諸部族は南下を開始し、モンゴル高原の中部から東部に広く分布するようになった。高原の東南に遊牧していたキタイ︵[[契丹]]︶が[[遼]]を建国すると、これらの遊牧諸部族は遼の支配を受け、ときに遼に反抗しながら部族の興亡を続ける。この時期に台頭したのが、[[ケレイト]]部、[[ジャライル]]部、[[メルキト]]部、[[モンゴル]]部、[[バルグト]]部といった諸部族であり、これらと並んで有力部族となったのが'''タタル部'''である。すなわち、この時代のタタル部とはかつて突厥が三十姓タタルと他称した室韋の後裔の一部であり、タタルを自称の部族名とした集団であった。﹃[[元朝秘史]]﹄によると、タタル部族には'''アルチ''' [[12世紀]]、[[南宋]]・[[金 (王朝)|金]]代の中国ではモンゴル高原東部・北東部に居住するタタル部など諸部族を﹁'''黒韃靼'''﹂、モンゴル高原南部︵[[内蒙古]]︶に居住する[[オングト]]など諸部族を﹁'''白韃靼'''﹂と呼んでいた<ref name="a-jiten"/><ref name="ca-jiten"/><ref>南宋の使節[[趙キョウ (宋)|趙珙]]の報告書﹃黒韃備録﹄﹃黒韃事略﹄より。</ref>。 タタル部は遼に代わって成立した金と結んで、モンゴル部の[[アンバガイ・カン]]を殺害した。そのため12世紀末、モンゴル部の部族長となった[[チンギス・カン]]によってタタル部は滅ぼされた。やがてチンギス・カンが、モンゴル高原のモンゴル・テュルク系遊牧諸部族を統合して[[モンゴル帝国]]を建てると、かつてのタタル部も勢力は振るわなかったものの、モンゴル帝国を構成する一部族として存続した。 ﹃集史﹄では === 韃靼 ===
{{main|北元}}
<!--[[1368年]]に、[[元 (王朝)|元(大元)]]の第14代皇帝[[トゴン・テムル]](在位:[[1333年]] - [[1370年]])が[[長江]]流域に興った[[明]]の北伐を逃れて、首都である[[大都]](現在の[[北京]])からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後のモンゴル政権を[[北元]]と呼ぶが、明側はこの政権を韃靼(だったん、拼音:dádá:タタルの音訳)と呼び、彼らが元朝の後継政権であることを言葉の上で否認した<ref>宮脇 2002,p142</ref>。一方、次の中国王朝である[[清]]は呼称を「蒙古」に戻している。
--> モンゴル帝国の諸政権のうち、中国とモンゴル高原を支配した[[元 (王朝)|元]]は、[[1368年]]に北へ逃れて[[北元]]となったが、やがて[[1388年]]に[[クビライ]]
こうしてクビライ王統断絶後のモンゴル高原では、モンゴル系の遊牧諸部族がモンゴルとオイラトの2大集団に分かれて対立するが、中国の[[明]]ではこのうちのモンゴルを元以来の呼称で ▲モンゴル帝国の諸政権のうち中国とモンゴル高原を支配した[[元 (王朝)|元]]は、[[1368年]]に北へ逃れて[[北元]]となったが、やがて[[1388年]]に[[クビライ]]の直系のハーンが殺害されてクビライの王統が断絶し、モンゴル高原東部の諸部族が[[オイラト]]部族連合を形成してモンゴル部族連合から分裂した。 モンゴルと自称する集団が韃靼と呼ばれるようになった明代でも、モンゴル高原の東に住む[[女真]]︵のちの[[満州民族|満州人]]︶はモンゴルのことをMonggo︵モンゴ︶と呼び ▲こうしてクビライ王統断絶後のモンゴル高原では、モンゴル系の遊牧諸部族がモンゴルとオイラトの2大集団に分かれて対立するが、中国の[[明]]ではこのうちのモンゴルを元以来の呼称である﹁蒙古﹂で呼ぶのをやめ、かつてのモンゴル系遊牧民の総称であった﹁韃靼﹂と呼ぶことになった<ref name="a-jiten"/>。このため明代に記された史料や明朝の[[正史]]﹃[[明史]]﹄では、モンゴルは韃靼の名で記録されている。日本では、明代の表記に従って、伝統的に明代モンゴルのことを韃靼、あるいはタタールと呼んだ。この名称の変化から、当時のモンゴル高原の形勢であるモンゴルからのオイラトの分立とモンゴル・オイラトの対立が、モンゴル部族連合がタタールとオイラトへ分裂し、対立したとして誤って理解されることも多い。 [[日本]]では、[[江戸時代]]から[[沿海州]]、[[アムール川]]流域を含む北アジア・中央アジアを指す呼称として﹁韃靼﹂の語が用いられたが、領域や実態について明確な定義は存在していなかった<ref>山内﹁韃靼﹂﹃岩波イスラーム辞典﹄、607頁</ref>。中国や[[李氏朝鮮|朝鮮]]では、女真・満州を含めて北方の諸民族のことを﹁韃虜﹂﹁韃子﹂などと蔑称することがあった{{要出典|date=2014年3月}}。1917年の[[ロシア革命]]によって国を追われたタタール人たちが日本に逃れており、彼らは日本に最初に入ってきた[[ムスリム]]の集団とされる。彼らは日本に[[イスラム教]]を持ち込んだ最初期の集団であり、[[東京]]などに回教礼拝堂︵現在の[[東京ジャーミイ]]︶などを作った<ref>{{cite news |title=日本最大のモスク﹁東京ジャーミイ﹂ |newspaper=nippon.com |date=2013-5-8 |url=http://www.nippon.com/ja/features/c01301/|accessdate=2014-5-3 }}</ref>。▼ ▲モンゴルと自称する集団が韃靼と呼ばれるようになった明代でも、モンゴル高原の東に住む[[女真]]︵のちの[[満州民族|満州人]]︶はモンゴルのことをMonggo︵モンゴ︶と呼びつづけていた。のちに明に代わって満州人が立てた[[清]]は韃靼の名称を採用せず、モンゴルの漢字表記は﹁韃靼﹂から﹁蒙古﹂に戻った。清代には[[西トルキスタン]]に居住するイスラム教徒も含めた、北アジア・中央アジアの諸集団を指して﹁韃靼﹂という言葉が使われるようになった<ref name="ca-jiten"/>。 ▲[[日本]]では、[[江戸時代]]から[[沿海州]]、[[アムール川]]流域を含む北アジア・中央アジアを指す呼称として﹁韃靼﹂の語が用いられたが、領域や実態について明確な定義は存在していなかった<ref>山内﹁韃靼﹂﹃岩波イスラーム辞典﹄、607頁</ref>。中国や[[朝鮮]]では、女真・満州を含めて北方の諸民族のことを﹁韃虜﹂﹁韃子﹂などと蔑称することがあった{{要出典|date=2014年3月}}。1917年の[[ロシア革命]]によって国を追われたタタール人たちが日本に逃れており、彼らは日本に最初に入ってきた[[ムスリム]]の集団とされる。彼らは日本に[[イスラム教]]を持ち込んだ最初期の集団であり、[[東京]]などに回教礼拝堂︵現在の[[東京ジャーミイ]]︶などを作った<ref>{{cite news |title=日本最大のモスク﹁東京ジャーミイ﹂ |newspaper=nippon.com |date=2013-5-8 |url=http://www.nippon.com/ja/features/c01301/|accessdate=2014-5-3 }}</ref>。 現代の中国において少数民族の一つとして認定されているタタール族は、18世紀以降にロシアから移住したタタール人の子孫であり、上述の韃靼とは無関係である。
== 東ヨーロッパのタタール ==
{{See also|タタールのくびき}}
[[ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]世界の中でももっとも東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していた[[ルーシ]]︵現在のロシア・ウクライナ バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国した[[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン国]]︵ジョチ・ウルス︶の支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。[[モスクワ大公国]]が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことを[[ロシア史]]では﹁'''[[タタールの軛]]'''︵くびき︶﹂と呼ぶ。 キプチャク・ハン国のモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的には[[イスラム教]]化してゆく。[[15世紀]]にはキプチャク・ハン国は再編と解体が進んで[[クリミア半島]]に[[クリミア・ハン国]]、ヴォルガ川中流域に[[カザン・ハン国]]、西[[シベリア]]に[[シビル・ハン国]]などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアや[[ルーマニア]]に移住して、 ロシアは、[[16世紀]]頃までに﹁タタールの軛 ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域の[[カザン]]周辺に住むヴォルガ・タタール︵カザン・タタールともいう︶が経済的・文化的に成長し、ロシア領内の[[ムスリム]]︵イスラム教徒︶中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・[[ソビエト連邦]]ではさまざまな民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちでタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。 13世紀から17世紀において、多様なタタール族が[[ポーランド・リトアニア共和国]]に移住や難民とし居住した。[[ポーランド王]]=[[リトアニア大公 == 西・南ヨーロッパのタタール ==
バトゥの征西は東ヨーロッパの[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランド]]から[[ハンガリー王国|ハンガリー]]まで達し、ルーシのみならず西ヨーロッパ・カトリック圏にも大きな衝撃を与えているが、西ヨーロッパの人々は、ロシア語のタタールという名をさらに[[ギリシャ語]]で地獄の住民を意味する[[タルタロス]]に重ね合わせ、モンゴル人たちをタルタル人と呼んだ。そしてモンゴル帝国以来、中央ユーラシア、中央アジア、北アジアの諸民族をタルタル人と呼ぶ
例えばモンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた。17世紀に ▲バトゥの征西は東ヨーロッパの[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランド]]から[[ハンガリー]]まで達し、ルーシのみならず西ヨーロッパ・カトリック圏にも大きな衝撃を与えているが、西ヨーロッパの人々は、ロシア語のタタールという名をさらに[[ギリシャ語]]で地獄の住民を意味する[[タルタロス]]に重ね合わせ、モンゴル人たちをタルタル人と呼んだ。そしてモンゴル帝国以来、中央ユーラシア、中央アジア、北アジアの諸民族をタルタル人と呼ぶ言い方が長く残ることになる。 ▲例えばモンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた。17世紀に中国で[[清]]を立てた[[満州民族|満州人]]はツングース系の非遊牧民であるが、彼らもヨーロッパ人にはタルタル人の一種とみなされていた。近代に中央ユーラシアの諸民族に関する知識がヨーロッパの人々に根付くにつれ、タルタルの名は使われなくなっていくが<ref>過渡期では、例えば19世紀の[[コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン]]は、その著書﹃チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史﹄︵日本語題は﹃モンゴル帝国史﹄︶において、今日では学術上モンゴル系民族︵Mongolic people︶と称する諸部族のことを﹁タルタルの諸種族﹂と記している。</ref>、その名残は現代において払拭されてはいない。例えば、ヴォルガ・タタール人などのタタールの名を冠する民族が英語圏で言及されるとき、''Tatars'' ではなく ''Tartars'' と綴られることもしばしばである。 == たたら製鉄とタタール人 ==
[[たたら製鉄]]はタタール人によって日本にもたらされたとする説がある。この謎の解明しようと、[[ロシア]]の[[タタルスタン共和国]]の視察団が島根県で現地調査を進行中であると報じられた<ref>[http://www.sankei.com/region/news/150123/rgn1501230056-n1.html 産経ニュース 2015年1月23日 たたら製鉄とタタールとの関係研究へ タタルスタンから視察団]</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考資料 ==
* [[コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|ドーソン]](訳注:[[佐口透]])『モンゴル帝国史1』([[1989年]]、[[平凡社]]、ISBN 4582801102)
* 赤坂恒明「韃靼」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
* [[宮脇淳子]]『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』([[刀水書房]]、[[2002年]]、ISBN 4887082444)
* 護雅夫「韃靼」『アジア歴史事典』6巻収録(平凡社
* 山内昌之「韃靼」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店
* 『テュルクを知るための61章』小松久男 編著、明石書店、2016年刊(
== 関連項目 ==
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