「チェコスロバキア亡命政府」の版間の差分
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{{基礎情報 過去の国
'''チェコスロバキア亡命政府'''︵チェコスロバキアぼうめいせいふ、{{lang-cs|Prozatímní státní zřízení}}、{{lang-sk|Dočasné štátne zriadenie}}︶は、[[ナチス・ドイツ]]によって[[チェコスロバキア併合|分割・消滅した]][[チェコスロバキア]]の再建を目指す[[亡命政府]]。▼ |日本語国名 = チェコスロバキア亡命政府
|公式国名 = '''{{cs|Prozatímní státní zřízení}}'''<small>(チェコ語)</small><br>'''{{lang|sk|Dočasné štátne zriadenie}}'''<small>(スロバキア語)</small>
|建国時期 = [[1939年]]
|亡国時期 = [[1945年]]
|先代1 = チェコスロバキア第二共和国
|先旗1 = Flag of the Czech Republic.svg
|次代1 = チェコスロバキア第三共和国
|次旗1 = Flag of the Czech Republic.svg
|国旗画像 = Flag of the Czech Republic.svg
|国章画像 = Lesser coat of arms of Czechoslovakia (1918-1938 and 1945-1961).svg
|標語 = {{lang|cs|Pravda vítězí}}{{cs icon}}<br />''真実は勝つ''
|国歌 = <br>'''チェコ:'''[[我が家何処や|Kde domov můj]]{{cs icon}}<br />''我が家何処や''<br><div style="display:inline-block;margin-top:0.4em;">{{center|[[File:Czech anthem.ogg]]}}</div><br /><br>'''スロバキア:'''[[稲妻がタトラの上を走り去り|Nad Tatrou sa blýska]]{{sk icon}}<br />''稲妻がタトラの上を走り去り''<br /><div style="display:inline-block;margin-top:0.4em;">{{center|[[File:National anthem of Slovakia, performed by the United States Navy Band.ogg]]}}</div>
|位置画像 =
|位置画像説明 =
|首都 = [[プラハ]]([[デ・ジュリ|法律上]])<br>[[パリ]]{{smaller|(1939年 - 1940年)}}<br />[[ロンドン]]{{smaller|(1940年 - 1945年)}}
|公用語 = [[チェコ語]]、[[スロバキア語]]
|元首等肩書 = [[チェコスロバキアの大統領|大統領]]
|元首等氏名1 = {{nowrap|[[エドヴァルド・ベネシュ]]}}
|元首等年代始1 = 1939年
|元首等年代終1 = 1945年
|変遷1 = [[ミュンヘン協定]]
|変遷年月日1 = 1938年9月30日
|変遷2 = [[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|分割・消滅]]
|変遷年月日2 = 1939年3月15日
|変遷3 = [[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|解放]]
|変遷年月日3 = 1945年5月
|通貨 =
}}
{{チェコの歴史}}
▲'''チェコスロバキア亡命政府'''︵チェコスロバキアぼうめいせいふ、{{lang-cs|Prozatímní státní zřízení}}、{{lang-sk|Dočasné štátne zriadenie}}︶は、[[ナチス・ドイツ]]によって[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア == 前史 ==
{{see also|ナチス・ドイツによるチェコスロバキア
1938年9月30日に行われた[[ミュンヘン会談]]の結果、チェコスロバキアは[[ズデーテン地方]]の割譲を余儀なくされた。[[大統領]][[エドヴァルド・ベネシュ]]は責任を取って10月5日に辞任した。この後チェコスロバキアでは自治を求める動きが高まり、10月6日には[[ジリナ協定]]によって[[スロバキア]]に、10月6日には[[カルパティア・ルテニア]]に自治政府が成立した。11月30日には[[エミール・ハーハ]]が大統領となった
ベネシュ夫妻はしばらく休養をとったのち、10月22日に[[ロンドン]]へ亡命した。しかしイギリス政府は﹁ミュンヘンの平和﹂が乱れることを恐れ、ベネシュに活動の自粛を求めた<ref> しかしこのベネシュの行動にチェコスロバキア駐米公使フルバン︵Vladimìr Hurban︶が賛同し、独立回復運動のための指導的役割を果たすよう要請した<ref> フランス政府はベネシュの動きとは連絡を取らず、[[エドゥアール・ダラディエ]]首相に近いスロバキア人の駐仏公使[[ステファン・オススキー]]([[:en:Štefan Osuský]])のグループと連携をとる動きを見せていた<ref>
また、ズデーテン地方を含めるチェコスロバキア内部のドイツ人を支持基盤に持つチェコスロバキア共和国ドイツ社会民主党([[:en:German Social Democratic Workers Party in the Czechoslovak Republic|en]])の亡命組織[[ズデーテン・ドイツ社会民主党]]も戦後の自治権拡大を目指してベネシュ側やイギリス政府と交渉を続けていた。
== 国民委員会 ==
1939年9月1日のドイツによる[[ポーランド侵攻]]は状況を大きく動かした。ベネシュは[[ポーランド]]に支持電報を打つとともに、イギリスに対しては亡命政府の承認とチェコスロバキア部隊の設立を要請したが、イギリスは拒否した<ref> 一方でスロバキア人の元首相[[ミラン・ホッジャ]] 1940年3月、ベネシュはアメリカ国務次官ウェルズの要請で『戦後のチェコスロバキア:その要求と構想』という戦後構想を作成したが、この構想はミュンヘン以前の第一共和国を再建するものであり、自治を求めるスロバキアやズデーテン・ドイツ社会民主党などには厳しいものであった<ref name="soma2009160">相馬(2009-12:160)</ref>。
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1941年7月、ベネシュはヤークシュらズデーテン・ドイツ社会民主党に﹁チェコスロバキア共和国﹂に賛成するか否かという条件を突きつけた。この背後にはアメリカやソ連がミュンヘン以前への復帰を支持しているということがあり、1942年8月5日にはイギリスがミュンヘン協定の無効と戦後のチェコスロバキア復活を宣言した<ref>相馬︵2010-12:251-253︶</ref>。お墨付きを得たベネシュはヤークシュらと関係を絶ち、彼らの状況はさらに悪化した。 == ポーランド=チェコスロバキア連邦構想 ==
ベネシュは1939年10月に[[ポーランド亡命政府]]の[[ヴワディスワフ・シコルスキ]]首相と会談し、対チェコスロバキア政策で強硬だった戦前とは異なる感触を得た。11月に再度ベネシュとシコルスキは会談し、チェコスロバキア・ポーランドを中心とする[[連邦]]を成立させることで合意した<ref>広瀬(1987:115)</ref>。1940年3月には連邦成立に向けた共同宣言を行っている。しかしイギリスによるベネシュ政権承認と[[独ソ戦]]勃発は、チェコスロバキアの国際的地位を高め、ポーランドに対してミュンヘン協定で割譲した[[チェスキー・チェシーン]]の返還を要求するなど強硬な態度を取るようになった。シコルスキはチェシーン問題を棚上げして連邦成立を優先しようとし、1942年1月19日には第二回共同宣言が取り決められた。しかしベネシュはこの宣言を評価しないなど、次第に両国間の溝は深まっていった<ref>広瀬(1987:116)</ref>。
連邦構想破綻のきっかけは第二回宣言が行われた1942年1月、ポーランド外相[[エドワルド・ラチンスキ]]([[:en:Edward Bernard Raczyński]])が連邦に[[バルト諸国占領|バルト侵攻]]によって[[ソビエト連邦]]が支配下に置いていた[[リトアニア]]を加えるべきと発言したことであった。ポーランドは連邦構想によって[[ソビエト連邦]]との国境問題を有利に導こうとしていたが、対ソ接近を意図していたベネシュにとってソ連との関係悪化は歓迎できない事態であった<ref>広瀬(1987:117)</ref>。ベネシュはリトアニア問題での譲歩をポーランドに勧告したが、リトアニア喪失を許容できないソ連は中欧連邦反対に方針転換した。7月16日にソ連は連邦反対の意向を明確に伝達し、ベネシュも連邦構想に消極的となった。その後[[カティンの森事件]]などによるポーランド・ソ連関係の悪化により、連邦構想は自然消滅した。
== 対ソ接近 ==
1942年12月から亡命政府は積極的にソ連との相互援助条約成立を模索し始め、1943年4月に交渉が開始された。しかしイギリスはこの条約がポーランドの立場を悪くすること、戦時中の二国間同盟樹立を自粛するという英ソ合意に反するとして猛反発し、条約締結に反対した<ref>伊東(1978:149-150)</ref>。亡命政府はイギリスとも同様の条約を結ぶことで反発を和らげようとしたが、イギリスの反応も悪く、ソ連も対英条約締結を許さなかった<ref>伊東(1978:150)</ref>。イギリスとソ連の板挟みとなった亡命政府は進退窮まり、英ソ間の交渉に任せざるを得なくなった。
しかし、チェコスロバキア=ソ連相互援助条約が議題となった1943年10月の[[モスクワ会談 (1943年)|モスクワ会談]]([[:en:Moscow Conference (1943)]])では、イギリス外相[[アンソニー・イーデン]]は条約締結にあっさり同意した。この態度変更にはアメリカがこの条約締結に反対する意図がないことが明らかになったことなどが理由であると見られている<ref>伊東(1980:166-167)</ref>。12月にベネシュはモスクワを訪問し、ソ連=チェコスロバキア友好協力相互援助条約が締結された。
== 抵抗運動 ==
{{main|ナチス・ドイツに対するチェコのレジスタンス活動}}
亡命政府はチェコ内に残留した抵抗勢力と連絡を取り、援助した。特にベーメン・メーレン保護領副総督[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の暗殺︵[[エンスラポイド作戦]]︶には深く関与したが、この事件はドイツによる報復虐殺を招く事になった。1944年8月29日の[[スロバキア民衆蜂起]]にも関与したが、この蜂起も失敗した。 == 終結 ==
1944年、スロバキアの大半とカルパティア・ルテニアはソ連軍の占領下に落ちた。占領者であるソ連軍はカルパティア・ルテニアにザカルパート・ウクライナを建国させた。これは戦前の国境線に戻すという約束違反であり、亡命政府は激しく
1945年4月4日、亡命政府はソ連軍の占領下にあったスロバキア東部の[[コシツェ]]に移り、[[チェコスロバキア共産党]]とともに[[臨時政府]]を結成するという[[コシツェ宣言]]を行った。5月5日の[[プラハ蜂起]]︵[[:en:Prague uprising]]︶と、その後の[[プラハの戦い (第二次世界大戦)|プラハの戦い]] ▲[[プラハの戦い (第二次世界大戦)|プラハの戦い]]終結後の1945年5月16日、ベネシュはプラハの旧市庁舎で帰還演説を行い、亡命政府の帰国を宣言した<ref>谷田部︵2004:213︶</ref>。しかしベネシュらの勢力はソ連側の圧迫に遭い、チェコスロバキアは[[社会主義国]]化への道をたどる事になる。 ==参考文献==
* {{Cite journal|和書|author=[[矢田部順二]]|title=チェコスロヴァキア国民委員会の成立1938-39年 : 亡命政治活動初期におけるE.ベネシュの苦悩|url=
* {{Cite journal|和書|author=[[相馬保夫]]|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (6)|url=
* {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (7)|url=
* {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (8)|url=
* {{Cite journal|和書|author=[[広瀬佳一]]|title=シコルスキの対ソ政策(1939-1943) : ポーランド問題序説|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110000189383|format=PDF|journal=スラヴ研究|publisher=北海道大学|issue=34 |naid=110000189383|year=1987|pages=pp.105-144}}
* {{Cite journal|和書|author=[[伊東孝之]]|title=東欧に関する連合国の戦争目的, 1941-1945 (II)|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110000189351|format=PDF|journal=スラヴ研究|publisher=北海道大学|issue=22 |naid=110000189351|year=1978|pages=pp.135-190}}
* {{Cite journal|和書|author=伊東孝之|title=東欧に関する連合国の戦争目的, 1941-1945 (4))|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110001046172|format=PDF|journal=スラヴ研究|publisher=北海道大学|issue=26 |naid=110000189351|year=1980|pages=pp.105-144}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
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==関連項目==
*[[チェコスロバキア軍団 (1939年)]]([[:en:Czechoslovak Legion (1939)]])
*[[独ソ戦におけるチェコスロバキア師団]]([[:en:Czechoslovak military units on Eastern front]])
*[[ドイツ人追放]]
**[[チェコスロバキアからのドイツ人追放]]([[:en:Expulsion of Germans from Czechoslovakia]])
*[[ナチス・ドイツに対するチェコのレジスタンス活動]]([[:en:Czech resistance to Nazi occupation]])
*[[第二次世界大戦におけるカルパティア・ルテニアの軍事史]]([[:en:Military history of Carpathian Ruthenia during World War II]])
*[[西洋の裏切り]]([[:en:Western betrayal]])
{{チェコスロバキアの変遷}}
{{DEFAULTSORT:ちえこすろはきあほうめいせいふ}}
[[Category:第二次世界大戦下のチェコスロバキア|
[[Category:第二次世界大戦]]▼
[[Category:亡命政府]]
▲[[Category:第二次世界大戦下のイギリス]]
▲[[en:Czechoslovak government-in-exile]]
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