「ハンガリー王国 (1920年-1946年)」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2016年9月}}
{{Otheruses|1920年から1946年まで存続した国家|1000年から1918年まで存続した同名の国家|ハンガリー王国}}
{{Infobox former country
|conventional_long_name = ハンガリー王国
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|country = ハンガリー
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|p1 = ハンガリー評議会共和国
|flag_p1 =
|p2 = ハンガリー共和国 (1919–1920)
|p2 = チェコスロバキア▼
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|p7 = ユーゴスラビア王国
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|s1 = ハンガリー第二共和国
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|leader1 = 空位 <sup>a</sup>
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|leader2 = [[カール1世 (オーストリア皇帝)|'''カーロイ4世''']]([[王位請求者|形式的]])
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|year_leader3 = [[1922年]]–[[1946年]]
|title_representative = [[ハンガリーの国家元首一覧|国家元首]]
|representative1 = [[ホルティ・ミクローシュ]]<sup>b</sup>
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|year_representative2 = 1944年–1945年
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|year_representative3 = 1945年–1946年
|title_deputy = [[ハンガリーの首相一覧|首相]]
|deputy1 = {{仮リンク|フサール・カーロイ|en|Károly Huszár}}
|year_deputy1 = 1920年 <small>(初代)</small>
|deputy2 = [[ティルディ・ゾルターン]]
|year_deputy2 = 1945年–1946年 <small>(最後)</small>
|legislature = {{仮リンク|国会 (ハンガリー)|en|Diet of Hungary|label=国会}}
|house1 = {{仮リンク|貴族院 (ハンガリー)|en|House of Magnates|hu|Felsőház|label=貴族院}} <sup>e</sup>|
|house2 = {{仮リンク|国民議会 (ハンガリー王国)|en|Diet of Hungary|label=国民議会}}
|type_house2 = 下院
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|footnote_c = [[サーラシ・フェレンツ]]のポストは[[ハンガリーの国家元首一覧#ハンガリー国民統一政府国民指導者|国民指導者]]
|footnote_d = 「国家元首の機能を果たす合議体」
|footnote_e = 1945年に廃止
}}
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クンのソビエト政府は国内で[[赤色テロ]]{{enlink|Red Terror (Hungary)|a=on}}を起こし、さらにスロバキアの回復を目指してチェコスロバキアに攻撃をしかけた︵{{仮リンク|チェコスロバキア・ハンガリー戦争|cs|Maďarsko-československá válka|hu|Északi hadjárat (Magyarország)}}︶。このため保守的なハンガリー人、[[フランス]]やルーマニアといった周辺国の支持も失った。4月にはルーマニアがハンガリーに侵入し、[[ハンガリー・ルーマニア戦争]]が発生した。 6月、[[オーストリア=ハンガリー海軍|二重帝国海軍]] === 王国成立 ===
[[ファイル:HorthyReceived.jpg|thumb|250px|騎乗するホルティ・ミクローシュ(1919年10月16日)]]
ブダペストに入城した国民軍は臨時政府に代わる正式政府の準備を行った。しかし国民軍が﹁我らが王﹂︵{{Lang|lt|Homo Regius}}︶として擁立した[[オーストリア大公]][[ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アウグスト]]はハプスブルク家の一員であったため<ref>ヨーゼフ・アウグスト大公はオーストリア皇帝[[フランツ2世|フランツ1世]]の弟でハンガリー副王であった[[ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アントン大公]]の孫で、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の又従弟であった。また、妻[[アウグステ・フォン・バイエルン (1875-1964)|アウグステ]]はフランツ・ヨーゼフ1世の次女[[ギーゼラ・フォン・エスターライヒ|ギーゼラ]]の娘であった。</ref>、[[協商国]]やルーマニアの了解を得られなかった。 10月23日、ヨーゼフ・アウグスト大公は暫定的な王位から退位した。退位後、極めて短期間、﹁共和国議会﹂より{{仮リンク|フリードリッヒ・イシュトヴァーン|en|István Friedrich}}、次いで{{仮リンク|フサール・カーロイ|en|Károly Huszár}}が﹁共和国大統領﹂として選出され、ハンガリーを統治した。しかし、第一次大戦の敗戦や帝国の解体及び領土の喪失が我慢ならない国内の反動主義者、愛国者たちは[[ハンガリー王国 [[ファイル:Arrival of Horthy 1920-03.jpg|250px|サムネイル|ハンガリー王国摂政に就任するホルティ・ミクローシュ(1920年3月1日)]]
[[1920年]]3月1日、「共和国議会」から改称した「ハンガリー国民議会」は、第一次世界大戦の敗戦により事実上瓦解していた([[チェコ人|チェック人]]・[[スロバキア人]]を始めとする各民族の「民族自決」による独立)オーストリア=ハンガリー二重帝国を再統合し、帝国を再建すべく、その第一歩として、「'''ハンガリー王国'''」の成立を宣言した(元々[[マジャル人|ハンガリー人]]は帝国の中核をなす民族としての自負が高く、事実ハンガリー人貴族の方が[[ドイツ人]]貴族より多かった)。
1920年6月4日、[[トリアノン条約]]が締結され、ハンガリー王国の正式な境界が決定された。ハンガリーはトランシルヴァニア、スロバキア、[[ヴォイヴォディナ]]など領土の大半を失い、そのため失地回復を求める右派がハンガリー国内で勢力を伸長させた。▼
しかし、ハプスブルク家出身者の国王推戴は戦勝国側である協商国に断固否定され、ハンガリーは国王不在を余儀なくされた。この状況を打開すべく、国民議会は事実上の国家元首として、ホルティ・ミクローシュを「ハンガリー王国摂政」に選出(国民議会定数138票中、賛成131票獲得、5票欠席、2票途中退席)。この選出は表向きには協商国に対する安全保障、つまり[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]を追われた[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世(カーロイ4世)]]をハンガリー王国国王に復位させない事を条件とした選出であったが、実際にはカール1世を戴いてオーストリア=ハンガリー帝国の再興を目指す皇帝派と、ハンガリー王国として喪失した領土の回復を目論む民族主義者との妥協の産物と言えるものであった。
ホルティは当初、「私は一介の軍人に過ぎない。大公殿下とハンガリー国民に忠誠は誓うが、政治は門外漢だ」と固辞していたが、[[ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アウグスト]][[オーストリア大公|大公]]が直々にホルティの元を訪れ、[[摂政]]への就任を要請。ホルティは[[摂政]]就任を受諾せざるを得ない状況へ追い込まれた。ホルティは国王不在のまま、[[摂政]]として、長い大戦とそれに続く混乱・内戦で疲弊した国内経済の立て直しに着手。国民議会は政党の区別なく全面的にホルティの政策を支持し、議会制に基づく緩やかな独裁体制が確立した。
[[ファイル:Austria hungary 1911 and post war borders.jpg|thumb|250px|トリアノン条約で分割されたハンガリーと、各地方の人口民族構成。濃い緑がハンガリーの失地]]
▲[[1920年]][[6月 === ホルティの統治 ===
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====カール1世の復帰運動====
{{main|カール1世の復帰運動}}
1921年3月26日、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア・ハンガリー二重帝国]]の最後の皇帝であった[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]] 3月28日、ハプスブルク家の復活を嫌った周辺諸国が反発。[[小協商]]を組む[[チェコスロバキア]]と[[ユーゴスラビア王国]]が﹁カールの即位は[[開戦事由|開戦理由]]となる﹂と警告。国民議会も﹁ホルティ摂政による国内統治の継続﹂と﹁カール1世の逮捕﹂を求める決議を満場一致で可決。ホルティはハプスブルク家︵カール1世︶と国民議会︵ハンガリー国民︶との板挟みとなったが、カール1世のオーストリア侵攻計画の件もあり、ホルティが最終的に国民議会の意向に従ったため、すべての取引は公的に拒否され、カールは4月6日にスイスに戻らざるを得なかった︵3月危機︶。 カールは復位を諦めず、列強やハンガリー国民が復位を支持すると考えていた。しかし、ハンガリー国民の大半は冷淡であり、この間に支持する動きを見せなかった。この騒動で疲れ切った[[テレキ・パール]]︵[[:hu:Teleki Pál]]︶首相は4月14日に辞職し、[[ベトレン・イシュトヴァーン]]︵[[:hu:Bethlen István]]︶が首相に就任した。ベトレンはその後10年にわたって首相を務めることになる。 6月、ハプスブルク家に忠誠を誓う﹁正統主義者﹂が王党派︵皇帝派︶と共に、ホルティに対しカール1世の即位を要求しホルティの政権を言論で攻撃。親王党派のホルティは国民議会にカール1世の即位を働き掛けるが、国民議会はこれを拒絶。正統主義者、王党派とホルティの間で幾つかの会合が持たれたが、最終的に決裂した。 10月21日、カール1世とその妻[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]が正統主義者、王党派︵皇帝派︶に擁されてハンガリーへ入国。カール1世を支持する一部のハンガリー王国軍が合流し、内戦の危機に陥る。ハンガリー国民軍が発展的に改編されたハンガリー王国軍は概ねホルティに忠誠を誓っており、ホルティ自身はカール1世へ権力の移譲と摂政の退任を希望していたが、近隣国との摩擦、特にオーストリアを巻き込んだ即位は時期尚早との見解だった。この間、チェコスロバキアやユーゴスラビアは実力をもってカール1世の即位を阻止すべく、国境地帯へ軍を集結させるなどの圧力をかけたため、ホルティ摂政は10月24日、事態を収拾すべく、カール1世夫妻の逮捕を命じた。カール1世も内戦は意図しておらず、ホルティの決断に従った。 10月29日、カール1世が逮捕されたにも関わらず、チェコスロバキアやユーゴスラビアは国境付近から撤兵せず、[[チェコスロバキアの外相の一覧|チェコスロバキア外相]][[エドヴァルド・ベネシュ]]は「将来に渡りハプスブルク家の完全なる廃位が確約されなければハンガリーへ侵攻する」と最後通牒を行った。ホルティはこれに激怒し、ハンガリー王国軍の動員を計画したが、イギリス大使ホーラーによって制止された。
11月、国民議会が1713年に公布された[[国事詔書]]<ref>この国事詔書は[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が娘の[[マリア・テレジア]]の継承権を認めさせたものであり、この詔書の効力が無効になればマリア・テレジアの子孫である[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]のハンガリー王位継承権が失われるというものであった。</ref>の効力を無効とする法案を可決。カール1世の王位継承権を明白に否定した事で、ホルティ自身、皮肉にもハプスブルク家による立憲王政への回帰を諦めざるを得ない状況となった。このため、カールは復位を断念して[[ポルトガル]]の[[マデイラ島]]に亡命し、この危機を乗り越えたホルティの政権は安定した。
====ゲンベシュ政権====
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ハンガリーの民族主義者にとって、トリアノン条約で奪われた領土の奪還は悲願であり、目標であった。このためハンガリーでは[[ゲンベシュ・ジュラ]]を代表とする[[人種防衛党]]のような[[ファシスト]]が台頭し、政権を動かすようになった。ハンガリーは[[未回収のイタリア]]問題を唱える[[イタリア王国]]と対ユーゴスラビア関係では利害が一致していた。また、1933年にドイツで成立した[[ナチス・ドイツ|ナチス政権]]も第一次世界大戦以前の領土を回復することを狙っており、特に対チェコスロバキアで利害が一致していた。 1927年4月5日、ハンガリーはイタリアと[[イタリア・ハンガリー友好条約|友好条約]]を結び、連携を深めた。1932年に首相に就任したゲンベシュは、ドイツ・イタリア・ハンガリー3国同盟を目指し、当時オーストリア問題を巡って衝突していたドイツとイタリアの関係を改善させた。これは後の[[枢軸国|ベルリン・ローマ枢軸]]を生み出す元となった。 ==== 反ユダヤ風潮の高まり ====
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しかし、ソ連軍がハンガリー国境地帯に迫ると、ホルティは再び連合国との講和交渉に動き出した。8月29日、ホルティはストーヤイを解任し、親英米派の[[ラカトシュ・ゲーザ]]を首相に据えた。9月9日、ソ連軍は要衝ズクラ峠を突破した。翌日の閣議でホルティは﹁戦争の継続は不可能になった﹂﹁休戦条件を打診する段階に到達した﹂<ref>[[児島襄]]﹃第二次世界大戦 ヒトラーの戦い﹄</ref>と発言し、閣僚全員が同意した。9月15日、ホルティはイタリア駐屯のイギリス軍に使節を送り、和平交渉を申し入れたが、イギリスはソ連軍と交渉するべきだと伝達して拒否した。しかし、これらの行動はドイツ側に筒抜けであった。ヒトラーはホルティの排除と[[矢十字党]]によるハンガリー政府の掌握を決意し、[[パンツァーファウスト作戦|クーデター]]の発動を準備した。10月8日、モスクワでハンガリー使節団はソ連外相[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]と面会し、ドイツへの即時宣戦布告を条件とする休戦に合意した。 10月15日、ホルティの息子[[ホルティ・ミクローシュ (息子)|ホルティ・ミクローシュ]]︵[[:hu:Ifjabb Horthy Miklós|hu]]︶が[[オットー・スコルツェニー]]率いる特殊部隊に拉致され、[[マウトハウゼン強制収容所]]に連行された。午後1時、ホルティの休戦宣言がラジオ局で放送されたが、ドイツ側からの最後通告を受けた参謀総長[[ヴェレシュ・ヤーノシュ]]大将により、直後に取り消しの放送と、矢十字党による政権掌握の放送がなされた。ブダペスト市内は[[エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー|バッハ=ツェレウスキー]][[親衛隊大将]]率いるドイツ軍と矢十字党員によって制圧され、[[ブダ城|ブダ宮殿]]も独軍部隊によって包囲された。ホルティは退位宣言への署名と矢十字党指導者[[サーラシ・フェレンツ]] この際、ホルティはサーラシに対して「国を売り渡す者よ、私を(王宮前広場に)吊るす革紐は用意出来たかね?」と悪態を吐いたという。かねてより政敵ながらホルティを崇敬していたサーラシは激しく動揺し、ホルティの身の安全が保証されなければ、[[国民統一政府 (ハンガリー)|国民統一政府]]の[[ハンガリーの国家元首一覧#ハンガリー国民統一政府国民指導者|国民指導者]]に就き、国民の支持を得る事は困難であると駐ハンガリードイツ大使[[エトムント・フェーゼンマイヤー]]に伝えた。フェーゼンマイヤーと{{仮リンク|ルドルフ・ラーン|en|Rudolf Rahn}}元駐伊大使は10月16日午前4時、[[総統大本営]]に連絡し、ホルティが17日にサーラシを首相に任命した後に退位し、「休戦放送」を不問にする条件でドイツに[[亡命]]する許可を求めたと通報し、[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]はホルティの亡命許可<ref>亡命したホルティはドイツ国内の別荘地に軟禁された。</ref>と身の安全を保証した。10月17日午後4時30分頃、サーラシの首相任命と摂政退位を終えたホルティは家族とともに特別列車に乗り、表向きには「静養」という名目でブダペストを離れた。ホルティは後に「私は財産と祖国を捕虜にしてしまった」と嘆いた<ref>[http://www.hungarian-history.hu/lib/horthy/horthy.pdf Horthy’s memoirs] 296p</ref>。
=== 矢十字党政府 ===
176 ⟶ 205行目:
=== 臨時政府と王国の消滅 ===
{{節スタブ}}
1944年12月21日、ソ連軍の支援の下、[[デブレツェン]]で{{仮リンク|暫定国民議会|hu|Ideiglenes Nemzetgyűlés}}が開催され、[[ハンガリー共産党]]、[[独立小農業者党]]、[[国家農民党]]、[[ハンガリー社会民主党]]、[[ハンガリー民主党]]から成る230議席の議会が{{仮リンク|1944年ハンガリー議会選挙|en|Hungarian parliamentary election, 1944|label=成立}}した。翌22日に{{仮リンク|ハンガリー臨時国民政府|hu|Ideiglenes Nemzeti Kormány}}と国家元首の権限を代行する{{仮リンク|ハンガリー王国高等国民評議会|en|High National Council|label=高等国民評議会}}が樹立された。[[ハンガリー第1軍]]司令官であった[[ダールノキ・ミクローシュ・ベーラ]]が首相に選出され、臨時国民政府は[[ソビエト連邦]]に承認された。ダールノキは矢十字党政権及びドイツ軍への協力者の逮捕・ソ連への引き渡し・財産没収を行い、1945年1月25日に[[人民裁判|人民裁判所]]を設置し、数十万人のハンガリー人が迫害を受けた。また、同年夏には[[マリア・テレジア軍事勲章]]を廃止した<ref>[http://jam.nyirbone.hu/konyvtar/web-konyv/nuiz-konf/Makai.html Makai Ágnes: A Katonai Mária Terézia Rend újabb emlékei]</ref>。臨時政府においてハンガリーのほぼ全土を支配したソ連軍の影響力は強大であった。 終戦後の1945年9月、独立小農業者党の[[ティルディ・ゾルターン]]が首相となった。11月、ハンガリー全土で行われた選挙はカトリック政党の出馬が禁止されたものの{{sfn|鹿島正裕|1974|pp=56}}、富農から中小農を支持基盤とする[[独立小農業者党]]が57%の票を得て、単独過半数を確保する第一党となった{{sfn|羽場久浘子|1998|pp=27-28}}。それに対して[[ラーコシ・マーチャーシュ]]と[[ゲレー・エルネー]]率いる[[ハンガリー共産党]]は、わずかに17.4%の票を得たのみであった{{sfn|羽場久浘子|1998|pp=29}}。しかし、ハンガリー駐在ソ連軍司令官[[クリメント・ヴォロシーロフ]]は選挙前に民族独立戦線の維持がすでに合意されていたことを理由に小農業者党単独政府の成立を拒否したため、共産党からはラーコシが首相補佐となり、[[ライク・ラースロー]]が内務大臣にするなど、共和党員を重要なポストにつける連立政府を成立させた。ラースローは内相任期中に[[ハンガリー国家保衛庁|ハンガリー国家警察・国家保衛部 (Magyar Államrendőrség Államvédelmi Osztálya、略称ÁVO)]]を設立し、共産党が政治警察の権力を手に入れた一方、ソ連は独立小農業者党と協調する動きを見せていた{{sfn|羽場久浘子|1998|pp=28}}。▼
▲終戦後の1945年9月、独立小農業者党の[[ティルディ・ゾルターン]]が首相となった。11月、ハンガリー全土で行われた{{仮リンク|1945年ハンガリー議会選挙|en|Hungarian parliamentary election, 1945|label=総選挙}}はカトリック政党の出馬が禁止されたものの{{sfn|鹿島正裕|1974|pp=56}}、富農から中小農を支持基盤とする[[独立小農業者党]]が57%の票を得て、単独過半数を確保する第一党となった{{sfn|羽場久浘子|1998|pp=27-28}}。それに対して[[ラーコシ・マーチャーシュ]]と[[ゲレー・エルネー]]率いる[[ハンガリー共産党]]は、わずかに17.4%の票を得たのみであった{{sfn|羽場久浘子|1998|pp=29}}。しかし、ハンガリー駐在ソ連軍司令官[[クリメント・ヴォロシーロフ]]は選挙前に民族独立戦線の維持がすでに合意されていたことを理由に小農業者党単独政府の成立を拒否したため、共産党からはラーコシが首相補佐となり、[[ライク・ラースロー]]が内務大臣にするなど、共和党員を重要なポストにつける連立政府を成立させた。ラースローは内相任期中に[[ハンガリー国家保衛庁|ハンガリー国家警察・国家保衛部 (Magyar Államrendőrség Államvédelmi Osztálya、略称ÁVO︶]]を設立し、共産党が政治警察の権力を手に入れた一方、ソ連は独立小農業者党と協調する動きを見せていた{{sfn|羽場久浘子|1998|pp=28}}。国民議会では共和制導入が議決され、ティルディが大統領、{{仮リンク|ナジ・フェレンツ|en|Ferenc Nagy}}が首相に指名された。 1946年2月1日、[[ハンガリー第二共和国]]が成立し、ハンガリー王国は消滅したが、ハンガリー第二共和国も1949年には[[ハンガリー勤労者党]]の[[一党独裁]]体制である社会主義国家[[ハンガリー人民共和国]]に取って代わられ、他の東欧諸国と同様にソ連の[[衛星国]]となった。
==経済==
[[第一次世界大戦]]の敗戦で莫大な賠償金を科せられたハンガリーは激しい[[インフレーション]]に見舞われた。{{仮リンク|ハンガリー・コロナ|en|Hungarian korona}}の価値は暴落し、国内経済は不安定となった。このため1927年にはコロナに代わる通貨として[[ペンゲー]]が導入された。当時、ペンゲーは東ヨーロッパで最も安定した通貨とされた。しかし、1929年に発生した[[世界恐慌]] その後、世界恐慌から脱したドイツと関係を深めることで、ハンガリーの経済は立ち直りを見せた。以降1945年までハンガリーの経済はドイツに深く依存していくことになる。ドイツに依存しすぎた経済はドイツの降伏によって破綻し、臨時政府期には壊滅的なインフレーションが起こった。 195 ⟶ 222行目:
== 戦争犯罪 ==
{{節スタブ}}
ハンガリー軍はトランシルヴァニアやユーゴスラ === ホロコースト ===
[[File:Bundesarchiv_Bild_101I-680-8285A-25,_Budapest,_Festnahme_von_Juden.jpg|thumb|250px|連行されるユダヤ人。1944年10月、ブダペスト]] 第二次大戦直前までハンガリーの反ユダヤ政策はドイツほど徹底したものではなかった。しかし1940年には若いユダヤ人男性に軍需工場での労役期間を義務づける法律が制定された。また1941年8月にはユダヤ人との結婚や[[性行為|性交渉]]を禁止する法律「第3のユダヤ人法」が出されている。
第二次世界大戦勃発後、ドイツはユダヤ人をドイツ国内に移送することを繰り返し要求した。このため1941年7月にはカルパティア・ルテニアから18000人のユダヤ人がドイツ側に移送されている。また、1941年に[[ウクライナ]]で発生した[[カミャネチ=ポジリシキィの虐殺]]では16000人のハンガリー系ユダヤ人が虐殺された<ref>[http://www.jewishgen.org/yizkor/maramures/mar093.html accessed 6 Jan 08]</ref>。しかし、ナチスによる[[ユダヤ人]]政策に予てから批判的であったホルティはこれを断固として拒否し、[[ブダペスト]]駐在ドイツ大使を執務室へ呼び付け、﹁君等が我々から誘拐出来るユダヤ人は只の一人もいない。彼等は我々の良き友であり、王国国民である。私は執政として国民を護る義務を負っている﹂と一喝している。 マルガレーテI作戦後に政権を握ったストーヤイ首相は積極的なユダヤ人迫害を開始した。ドイツ国内と同じように[[ダビデの星]]の紋章をユダヤ人に身につけさせ、ユダヤ人商店を閉鎖してドイツ国内に移送させた。しかしハンガリー国内で移送されたユダヤ人が﹁処理﹂されている噂が強まり、1944年7月25日にはユダヤ人移送は中止された。しかしこの移送中止は、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]が、ハンガリーユダヤ人と武器を交換させる計画を立てていたためで、連合国側に拒否されている<ref name="kojima">この間、318人のユダヤ人がドイツからスイスに移送されている。[[児島襄]] ﹃第二次世界大戦 ヒトラーの戦い﹄︵[[文春文庫]]︶7巻 P453-454</ref>。 215 ⟶ 242行目:
* [[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体]]
* [[聖イシュトヴァーンの王冠]]
* [[ハンガリー王国]]
* [[ハンガリー王国の歴史的地域]]
* [[ハンガリーの首相一覧]]
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