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アテナイのシケリア遠征は失敗に終わったが、その数年後にヒメラの繁栄はカルタゴの侵攻により突然の終焉を迎えた。アテナイと同じように、カルタゴは近隣の[[セリヌス]]の脅威を受けていたセゲスタ︵現在の[[セジェスタ]]︶を救うために[[紀元前409年]]に大軍を派遣した。しかし、実際にはカルタゴはより大きな野望を持っていた。セリヌスを攻略・破壊した後、遠征軍の司令官であったハンニバル・マゴは直ちに軍をヒメラに向けた。ヒメラの防衛体制は不十分であった‥城壁は強固ではなかったが、市民は死に物狂いで戦った。また、果敢な出撃によりカルタゴ軍に大きな被害を与えた。シュラクサイの将軍ディオクレス︵[[:en:Diocles of Syracuse|en]]︶が4,000の兵を率いてヒメラを守っていたが、カルタゴ海軍がシュラクサイを直接攻撃するとの噂が流れ、それに動揺したディオクレスはヒメラを放棄してシュラクサイに引き上げた。残された不幸なヒメラ市民は、単独でカルタゴ軍と戦うことになった。ついに防衛線は破れ、市は略奪された。多くの市民が殺され、捕虜となった市民の内少なくとも3,000が、紀元前480年の戦いで戦死したハミルカル︵ハンニバル・マゴの祖父︶の犠牲として殺された<ref>Diod. xiii. 59-62; Xen. ''Hell.'' i. 1. 37.</ref>。ヒメラは建物も含めて完全に破壊され、神殿とて例外ではなかった。 ディオドロスによると、ヒメラは破壊された後で再建されることはなく、彼の時代︵紀元前1世紀中頃~後半︶まで無人のままであった<ref name="Xi" />。他方[[紀元前405年]]のカルタゴとシュラクサイの[[ディオニュシオス1世]]が講和条約では、ヒメラ、セリヌスおよびアクラガス︵現在の[[アグリジェント]]︶の難民は、カルタゴの従属都市となり防御施設を再建しないという条件で、自身の街に戻ることが許されており<ref>''Id.'' xiii. 114.</ref>、ディオドロスの記述と矛盾する。[[紀元前397年]]にディオニュシオスカルタゴとの戦争を再開すると、ヒメラ市民これを支持したとの記載があるために、ヒメラを脱出していた市民の多くがヒメラに戻ったように思われる。但し、翌年にはヒメラはカルタゴ側に戻っている<ref>''Id.'' xiv. 47, 56.</ref>。この矛盾に関しては[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]が説明している。ヒメラの破壊後、生き残った市民は、ヒメラの領域内にあり旧市街から遠く離れていないテルマエに落ち着いた<ref>Cicero ''''In Verrem'' ii. 3. 5.</ref>。ディオロドロスはキケロとは若干異なった説を唱えており、テルマエは戦争終結前の[[紀元前407年]]、カルタゴによって建設されたという<ref>Diod. xiii. 79.</ref>。双方の記述とも、実質的には正しいと思われる。カルタゴは旧ヒメラが再占有されるのを防ぐためにテルマエを建設し、戦後ヒメラ市民はテルマエに定住することになったが、その際にヒメラの名前を引き継いだ。ずっと後のことになるが、ヒメラとテルマエは同一の都市とみなされるようになっていた。[[スキピオ・アエミリアヌス]]がカルタゴを占領・破壊した後、アクラガス︵スキピオ時代にはアグリゲントゥム︶およびゲラ︵現在の[[ジェーラ]]︶にそれぞれの都市から持ち去られていた彫像を戻しており、またヒメラから持ち去られた彫像をテルマエに戻している<ref>Cicero ''In Verrem'' ii. 3. 5, iv. 33.</ref>。したがって、後世においてもヒメラ人が現存の人々のように話されたり、ヒメラ自身が存在しているかのように扱われることに驚く必要はなく、テルマエのことをヒメラと呼んでいるだけである。[[紀元前314年]]に結ばれた[[シュラクサイのアガトクレス|アガトクレス]]とカルタゴの講和条約でも、[[ヘラクレア・ミノア|ヘラクレア]]︵現在の[[ ===テルマエの建設===
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