「フィンセント・ファン・ゴッホ」の版間の差分
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なお、オランダ人名の[[ファン (前置詞)|ファン]](van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しない。
生涯、独身であった<ref>{{Cite news|url=https://president.jp/articles/-/53566?page=1|title=芸術も恋も極端すぎる…結婚願望のあったゴッホの恋愛が悉く失敗に終わった理由|newspaper=PRESIDENT Online|date=2022-01-13|accessdate=2024-03-11}}</ref>。 == 概要 ==
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[[ファイル:Van Gogh Barn-and-farmhouse.jpg|thumb|right|150px|﹃農場の家と納屋﹄1864年2月、素描。]] フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、[[ヒース]]の広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=37-39}}。[[1860年]]からズンデルト村の学校に通っていたが、[[1861年]]から[[1864年]]まで、妹アンナとともに[[家庭教師]]の指導を受けた{{sfn|二見|2010|p=3}}。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる﹃農場の家と納屋﹄と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している{{sfn|トラルボー|1992|pp=28,31}}。1864年10月からは約20 km︵[[キロメートル]]︶離れた[[ゼーフェンベルゲン]]のヤン・プロフィリ[[寄宿学校]]に入った{{sfn|二見|2010|p=3}}。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを﹁僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。﹂と回顧している{{sfn|吉屋|2005|p=33}}<ref group="手紙">{{Cite web [[1866年]]9月15日、[[ティルブルフ]]に新しくできた国立高等市民学校、[[ウィレム2世 (オランダ王)|ヴィレム2世]]校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる{{sfn|吉屋|2005|pp=37-38}}。[[1868年]]3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない{{sfn|吉屋|2005|p=262}}。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、﹁僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった﹂と書いている<ref group="手紙">{{Cite web === グーピル商会(1869年-1876年) ===
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:132px;top:170px">[[ファイル:Blue pog.svg|8px]][[ユトレヒト]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:100px;top:205px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ドルトレヒト]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:138px;top:225px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ティルブルフ]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:97px;top:215px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[ゼーフェンベルゲン]]'''</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;right:192px;top:223px">[[エッテン=ルール|エッテン]][[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div>
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:172px;top:235px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]</div>
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==== ハーグ支店 ====
[[ファイル:Gogh Goupil&Cie.jpg|thumb|left|200px|ゴッホが1869年︵16歳︶から1873年︵20歳︶まで勤めたグーピル商会ハーグ支店。]] [[1869年]]7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商[[グーピル商会]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]支店の店員となり、ここで約4年間過ごした{{Refnest|group="注釈"|セント伯父はハーグに絵画の複製図版等を手がける画商を開き、1861年2月、パリのグーピル商会の傘下に入って共同経営者の一人となっていた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=64-66}}。}}。彼は、この時のことについて﹁2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった﹂と書いている{{sfn|二見|2010|p=25}}<ref group="手紙">{{Cite web ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くの[[マウリッツハイス美術館]]で[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]や[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]ら[[オランダ黄金時代の絵画]]に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興の[[ハーグ派]]の絵にも触れる機会があった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=71}}。 ==== ロンドン支店 ====
[[1873年]]5月、ファン・ゴッホは[[ロンドン]]支店に転勤となった{{sfn|二見|2010|p=26}}。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、彼の娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=81-82}}。8月末からロワイエ家の下宿に移った{{sfn|二見|2010|p=341}}。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという<ref>{{Cite web |url= http://www.vggallery.com/misc/archives/jo_memoir.htm |title= Jo van Gogh-Bonger's Memoir of Vincent van Gogh |publisher=The Vincent van Gogh Gallery |accessdate=2013-02-20 | quote= Ursula made a deep impression upon him...}}</ref>。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている{{Refnest|group="注釈"|娘の名前は実際にはウージェニ・ロワイエであった{{sfn|二見|2010|p=28}}。}}。ファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で﹁僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。﹂と書いているが<ref group="手紙">{{Cite web ==== パリ本店、解雇 ====
[[ファイル:Galerie Goupil2.jpg|thumb|right|160px|グーピル商会のパリ・シャプタール通り店。]] [[1875年]]5月、ファン・ゴッホは[[パリ]]本店に転勤となった{{sfn|二見|2010|p=35}}{{Refnest|group="注釈"|1874年10月にパリ本店に一時転勤となり、1875年1月に新しくなったロンドン支店に戻り、同年5月に再びパリ本店に移った{{sfn|二見|2010|p=341}}。}}。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、[[聖書]]や[[トマス・ア・ケンピス]]の﹃[[キリストに倣いて]]﹄に読みふけった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=110-111}}。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=112-113}}。この頃、父は、フィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=36}}。翌[[1876年]]1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた{{sfn|二見|2010|p=37}}<ref group="手紙">{{Cite web === 聖職者への志望(1876年-1880年) ===
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</div>
|}
こうして、同年︵1878年︶10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月から[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]北郊[[ラーケン]]の伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、[[フランドル]]生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のため[[ボリナージュ]]に行くことにするとテオに書いている{{sfn|二見|2010|pp=48-49}}<ref group="手紙">{{Cite web ==== ボリナージュ ====
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伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年︵1879年︶8月、同じくボリナージュ地方の[[クウェム]]︵モンス南西の郊外︶の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ{{sfn|トラルボー|1992|p=63}}。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも﹁年金生活者﹂のような生活ぶりについて批判された{{sfn|吉屋|2005|p=90}}。[[1880年]]3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=207-208}}。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親が[[ヘール (ベルギー)|ヘール]]の精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った{{sfn|二見|2010|p=57}}。 クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった{{sfn|吉屋|2005|pp=91-92}}<ref group="手紙">{{Cite web ==== ブリュッセル ====
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[[ファイル:Portrait-of-Vincent-van-Gogh,-the-Artist's-Grandfather.jpg|thumb|right|170px|﹃祖父フィンセント﹄1881年、エッテン。鉛筆。]] [[ファイル:Kee Vos met zoon Jan.jpg|thumb|left|150px|ゴッホ︵当時27歳︶の片思いの相手ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。]] [[1881年]]4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、[[エッテン=ルール|エッテン]]の実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた{{sfn|吉屋|2005|p=95}}。夏の間、最近夫を亡くした[[従姉]]のケー・フォス・ストリッケル︵母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘︶がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、﹁とんでもない、だめ、絶対に。﹂という言葉で拒絶され、打ちのめされた{{sfn|二見|2010|pp=61-62}}<ref group="手紙">{{Cite web ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、﹁私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。﹂と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった{{sfn|吉屋|2005|pp=98-99}}<ref group="手紙">{{Cite web 11月27日、[[デン・ハーグ|ハーグ]]に向かい、義理の従兄弟で画家の[[アントン・モーヴ]]から絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった{{sfn|二見|2010|pp=65,67}}<ref group="手紙">{{Cite web ==== ハーグ(1882年-1883年) ====
[[ファイル:AntonMauve.jpg|thumb|right|100px|[[ハーグ派]]の画家[[アントン・モーヴ]]。ファン・ゴッホに絵の指導をした。]] [[1882年]]1月、彼は[[デン・ハーグ|ハーグ]]に住み始め、オランダ写実主義・[[ハーグ派]]の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに[[油絵]]と[[水彩画]]の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た{{sfn|二見|2010|pp=67-68}}。ハーグの絵画協会[[プルクリ・スタジオ]]の準会員に推薦したのもモーヴであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=256}}。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃に{{ill2|クラシーナ・マリア・ホールニク|de|Sien Hoornik}}︵通称シーン︶という身重の[[娼婦]]をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている{{sfn|二見|2010|pp=72-73}}<ref group="手紙">{{Cite web [[ファイル:Van-Gogh-Perspective-frame.jpg|thumb|left|150px|1882年夏頃、遠近法やプロポーションを捉えるための透視枠を自作し、1888年5月のアルル初期まで使用していた{{sfn|ピックヴァンス|1986|p=55}}<ref group="手紙">{{Cite web 同年︵1882年︶3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた{{sfn|二見|2010|pp=70-71}}。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は﹁こんなのは商品価値がない﹂と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった{{sfn|二見|2010|p=75}}。ファン・ゴッホは同年6月、[[淋病]]で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた{{sfn|二見|2010|pp=76-78}}。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、[[スヘフェニンゲン]]の海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=302-306,308-309}}。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した{{sfn|二見|2010|p=86}}。 ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、[[1883年]]5月には、﹁シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。﹂などとテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=86}}<ref group="手紙">{{Cite web <gallery>
ファイル:Vincent Willem van Gogh 016.jpg|﹃屋根、ハーグのアトリエからの眺め﹄1882年、ハーグ。水彩、39 × 55 cm。個人コレクション<sup>F 943, JH 156</sup>。 182 ⟶ 184行目:
==== ニューネン(1883年末-1885年) ====
[[ファイル:Overzicht schuur, voormalig atelier van van Gogh - Nuenen - 20338022 - RCE.jpg|thumb|right|180px|ニューネンの牧師館︵左手︶の庭。中央はファン・ゴッホ︵30-32歳︶が使っていたアトリエ小屋。]] 同年︵1883年︶12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ[[北ブラバント州]][[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]の農村︵[[アイントホーフェン]]の東郊︶に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、[[1884年]]1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した{{sfn|二見|2010|pp=95-97}}。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古い[[オーク]]の[[織機]]や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから﹁能なしへのお情け﹂と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた{{sfn|二見|2010|pp=98-100}}<ref group="手紙">{{Cite web 1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット︵マルガレータ・ベーヘマン︶と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットは[[ストリキニーネ]]を飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=414}}<ref group="手紙">{{Cite web 1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる﹃[[ジャガイモを食べる人々]]﹄を完成させた{{sfn|二見|2010|p=107}}。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、[[アカデミズム絵画]]を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った{{sfn|二見|2010|pp=100-101}}。 190 ⟶ 192行目:
夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、[[ミソサザイ]]の巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いた[[エミール・ゾラ]]の小説﹃[[ジェルミナール (小説)|ジェルミナール]]﹄を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する{{sfn|二見|2010|pp=111-112}}。一方、﹃ジャガイモを食べる人々﹄のモデルになった女性︵ホルディナ・ドゥ・フロート︶が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた{{sfn|二見|2010|p=113}}。 同年︵1885年︶10月、ファン・ゴッホは首都[[アムステルダム]]の[[アムステルダム国立美術館|国立美術館]]を訪れ、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、[[フランス・ハルス]]、[[ヤーコプ・ファン・ロイスダール|ロイスダール]]などの17世紀オランダ︵いわゆる[[オランダ黄金時代の絵画|黄金時代]]︶の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の[[聖書]]と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本﹃[[生きる歓び (小説)|生きる歓び]]﹄を描いた静物画を描き上げ、テオに送った{{sfn|二見|2010|pp=113-114}}<ref group="手紙">{{Cite web <gallery>
ファイル:Van-willem-vincent-gogh-die-kartoffelesser-03850.jpg|﹃[[ジャガイモを食べる人々]]﹄1885年4月-5月、ニューネン。油彩、キャンバス、82 × 114 cm。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0005V1962 |title=The Potato Eaters |publisher=The Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-11}}</ref><sup>F 82, JH 764</sup>。最初の本格的作品と言われる。 200 ⟶ 202行目:
1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーの[[アントウェルペン]]へ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた{{sfn|二見|2010|p=117}}。[[1886年]]1月から、[[アントウェルペン王立芸術学院]]で人物画や石膏デッサンのクラスに出た{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホは、当初、街の娼婦をアトリエに呼んで[[ヌード]]のデッサンをしようとしていたが、これを止めるテオと対立した結果、アカデミーならモデルのデッサンができると言って、1886年1月半ば、今まで批判していたアカデミーに入学した。しかし、端正で明確なデッサンを求める教官と言い争い、他の生徒からも嘲笑され、2月初めには脱落した{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=479-487}}。}}。また、美術館やカテドラルを訪れ、特に[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]の絵に関心を持った。さらに、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の小説﹃シェリ﹄を読んでその[[ジャポネズリー]]︵日本趣味︶に魅了され、多くの[[浮世絵]]を買い求めて部屋の壁に貼った{{sfn|二見|2010|pp=118-120}}。 金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を[[画材]]とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した{{sfn|二見|2010|pp=120,122}}<ref group="手紙">{{Cite web === パリ(1886年-1888年初頭) ===
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==== ゴーギャン到着まで ====
ファン・ゴッホは、[[1888年]]2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスの[[アルル]]に到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった{{sfn|二見|2010|pp=142-143}}{{sfn|トラルボー|1992|p=217}}。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。[[エドガー・ドガ]]、モネ、ルノワール、[[アルフレッド・シスレー]]、ピサロという5人の﹁グラン・ブールヴァール﹂の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そして[[アルマン・ギヨマン]]、スーラ、ゴーギャンといった﹁プティ・ブールヴァール﹂の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった{{sfn|二見|2010|p=144}}<ref group="手紙">{{Cite web [[ファイル:Van gogh bruecke 1902.jpg|thumb|left|180px|﹃[[アルルの跳ね橋]]﹄で描かれたラングロワ橋。34歳のゴッホは突然テオのもとを去ってアルルに移った。]] ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、﹁この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため[[日本]]みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。﹂と書いている<ref group="手紙">{{Cite web 同年︵1888年︶5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物︵﹁[[黄色い家]]﹂︶の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|バーナデット・マーフィー|de|Bernadette Murphy}}の調査によれば、﹁黄色い家﹂は、﹁カフェ・ドゥ・ラ・ガール﹂の経営者マリー・ジヌーの一家が以前住んでいたがその後空き家になっていた不動産である。マリーが、この不動産を取り扱っていた業者ベルナール・スーレに、ファン・ゴッホを賃借人として紹介したようである{{sfn|マーフィー|2017|pp=120-121}}。}}︵ベッドなどの[[家具]]がなかったため、9月までは3軒隣の﹁カフェ・ドゥ・ラ・ガール﹂の一室に寝泊まりしていた︶。[[ポン=タヴァン]]にいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている{{sfn|二見|2010|pp=149-151}}<ref group="手紙">{{Cite web 7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、[[ピエール・ロティ]]の﹃お菊さん﹄を読んで知った日本語を使って﹃[[ラ・ムスメ]]﹄という題を付けた{{sfn|二見|2010|pp=162,164}}。同月、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]の肖像を描いた{{sfn|二見|2010|p=165}}。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、﹃[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]﹄を4作続けて制作した{{sfn|二見|2010|pp=166-167}}。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた﹃[[夜のカフェ]]﹄を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす[[居酒屋]]であり、ファン・ゴッホは手紙の中で﹁﹃夜のカフェ﹄の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。﹂と書いている{{sfn|二見|2010|pp=170-171}}<ref group="手紙">{{Cite web 一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年︵1888年︶7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた{{sfn|二見|2010|p=165}}。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から﹁黄色い家﹂に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に﹃[[夜のカフェテラス]]﹄を描き上げた{{sfn|二見|2010|pp=173-175}}。9月下旬、﹃[[黄色い家]]﹄を描いた{{sfn|二見|2010|p=178}}。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた︵﹃[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]﹄︶{{sfn|二見|2010|pp=182-183}}。 270 ⟶ 272行目:
ファイル: Vincent Willem van Gogh 076.jpg |﹃[[夜のカフェ]]﹄1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、70 × 89 cm。[[イェール大学]]美術館︵[[アメリカ合衆国|米]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]︶<sup>F 463, JH 1575</sup>。 ファイル: Gogh4.jpg |﹃[[夜のカフェテラス]]﹄1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、81 × 65.5 cm。クレラー・ミュラー美術館<ref>{{Cite web |url=https://krollermuller.nl/en/vincent-van-gogh-terrace-of-a-cafe-at-night-place-du-forum-1 |title=Caféterras bij nacht (Place du Forum) |publisher=Kröller-Müller Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 467, JH 1580</sup>。 ファイル:Starry Night Over the Rhone.jpg|﹃ ファイル: Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg |﹃[[黄色い家]]﹄1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72 × 91.5 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0032V1962 |title=The Yellow House (The Street) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 464, JH 1589</sup>。 ファイル: VanGogh Bedroom Arles1.jpg |﹃[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]﹄1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72.4 × 91.3 cm。ゴッホ美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0047V1962 |title=The Bedroom |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-14}}</ref><sup>F 482, JH 1608</sup>。 277 ⟶ 279行目:
==== ゴーギャンとの共同生活 ====
[[ファイル:Paul Gauguin 1891.png|thumb|right|160px|[[ポール・ゴーギャン]]。ファン・ゴッホと弟テオの提案を受け入れ、[[ポン=タヴァン]]を離れて2か月間アルルに滞在した。]] 同年︵1888年︶10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった{{sfn|二見|2010|p=185}}{{Refnest|group="注釈"|ゴーギャンは、アルル行きについて、友人の画家[[エミール・シェフネッケル]]に、﹁この滞在の目的は、自分が世に出るまで、金銭の心配をせずに安心して仕事ができるようにすることなのだから。﹂と書いているように、アルルでテオの仕送りにより安定した収入を確保しようという打算的な考えに基いていたのであり、芸術家の共同体を打ち立てようというファン・ゴッホとは全く相容れない動機であった{{sfn|圀府寺|2009|p=175}}}}。2人は、街の南東のはずれにある[[アリスカン]]の散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした︵ファン・ゴッホの﹃[[赤い葡萄畑]]﹄︶。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で﹁カフェ・ドゥ・ラ・ガール﹂の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた︵ファン・ゴッホの﹃[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]﹄︶{{sfn|二見|2010|pp=187-189}}。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた{{sfn|二見|2010|p=190}}。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている{{sfn|二見|2010|p=192}}。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の﹃種まく人﹄を描いた{{sfn|二見|2010|pp=190-191}}。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を﹁自分の本領だと感じる﹂とテオに書いている{{sfn|二見|2010|p=193}}<ref group="手紙">{{Cite web [[ファイル:Paul Gauguin 104.jpg|thumb|left|180px|ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像︵1888年11月︶。ひまわりの季節は終わっており、ゴーギャンの想像による作品と思われるが、その表情の描写は[[カリカチュア]]的ともいえる{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=686}}{{Refnest|group="注釈"|ファン・ゴッホの死後、ゴーギャンは﹃前後録﹄の中で、ゴッホがこの作品を見て﹁こいつはまさに僕だ。しかし気が違った僕だ。﹂と言ったと書いている。しかしその真偽には疑問が呈されている{{sfn|小林英樹|2002|pp=126-128}}。}}。]] 一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し﹁ヴァンサン︵フィンセント︶と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼は[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]の絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。﹂と不満を述べている{{sfn|二見|2010|p=192}}。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに﹁いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。﹂と書き送り、ファン・ゴッホもテオに﹁ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。﹂と書いている{{sfn|二見|2010|p=194}}<ref group="手紙">{{Cite web [[ファイル:Le Forum Républicain (Arles) - 30 December 1888 - Vincent van Gogh ear incident.jpg|thumb|right|180px|﹁耳切り事件﹂を報じる﹃ル・フォロム・レピュブリカン﹄紙。この事件でゴーギャンとの共同生活は終わりを告げた。]] 304 ⟶ 306行目:
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの[[婚約]]を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=705-706}}。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、﹁兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに[[哲学]]や[[神学]]をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。﹂と書き送り、兄の生死を心配している{{sfn|二見|2010|p=201}}{{sfn|マーフィー|2017|p=230}}。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=706-707}}。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った{{sfn|マーフィー|2017|pp=218-219}}。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた{{sfn|マーフィー|2017|p=231}}。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された{{sfn|マーフィー|2017|pp=233-235}}。 しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは[[1889年]]1月2日、テオ宛に﹁あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。﹂と書いている<ref group="手紙">{{Cite web [[ファイル:Arles Hotel Dieu garden.jpg|thumb|right|180px|アルル市立病院の中庭。当時35歳のファン・ゴッホが収容された。]] 313 ⟶ 315行目:
そんな中、3月23日、画家[[ポール・シニャック]]がアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で﹁黄色い家﹂に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=742-743}}。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった{{sfn|マーフィー|2017|pp=293-294}}。 病院にいつまでも入院していることはできず、﹁黄色い家﹂に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた{{sfn|マーフィー|2017|pp=294-296}}。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ{{sfn|二見|2010|pp=218-219}}<ref group="手紙">{{Cite web <gallery>
330 ⟶ 332行目:
同年︵1889年︶5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にある[[サン=レミ=ド=プロヴァンス|サン=レミ]]の{{仮リンク|サン=ポール=ド=モーゾール修道院|fr|Monastère Saint-Paul-de-Mausole}}療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、﹁これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いた[[てんかん]]発作を起こしやすい、と私は推定する。﹂と記録している{{sfn|二見|2010|p=225}}。 ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=754}}、療養所の庭で[[イチハツ]]の群生や[[ライラック|アイリス]]を描いた{{sfn|二見|2010|pp=225-226}}。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、[[アルピーユ山脈]]の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出て[[オリーブ]]畑や[[イトスギ|糸杉]]を描くようになった{{sfn|二見|2010|p=228}}。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と[[三日月]]に、S字状にうねる雲を描いた﹃[[星月夜]]﹄を制作した。彼は、﹃オリーブ畑﹄、﹃星月夜﹄、﹃キヅタ﹄などの作品について、﹁実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的[[デッサン]]によって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。﹂と述べている{{sfn|二見|2010|p=231}}<ref group="手紙">{{Cite web ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年︵1889年︶7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは﹁もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。﹂と書いている{{sfn|二見|2010|p=234}}<ref group="手紙">{{Cite web <gallery>
358 ⟶ 360行目:
[[ファイル:Paul Gachet2.jpg|thumb|140px|[[ポール・ガシェ|ガシェ]]︵当時61歳︶は、[[ホメオパシー]]を用いる医師であり、マネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、ギヨマンらと親交を持つ美術愛好家でもあった。]] [[ファイル:Gogh Ravoux Auvers.jpg|thumb|left|200px |ファン・ゴッホがオーヴェルで宿泊した[[ラヴー旅館]]の部屋。37歳のファン・ゴッホは、最後の2か月間をここで過ごした。]] 同年︵1890年︶5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30 km余り離れた[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]の農村に着き、[[ポール・ガシェ]]医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは﹁非常に神経質で、とても変わった人﹂だが、﹁体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ﹂<ref group="手紙">{{Cite web ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、[[セイヨウトチノキ]]︵マロニエ︶の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、[[医師ガシェの肖像|ガシェの肖像]]などを描いた{{sfn|二見|2010|pp=269-271}}。6月初めには、さらに﹃[[オーヴェルの教会]]﹄を描いた{{sfn|二見|2010|p=272}}。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、ファン・ゴッホの要望は膨らんだ{{sfn|Naifeh|Smith|2012|pp=825-830}}。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、ファン・ゴッホとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。ファン・ゴッホは2日後﹁日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。﹂と書いている{{sfn|二見|2010|pp=273-274}}{{sfn|Naifeh|Smith|2012|p=830}}<ref group="手紙">{{Cite web [[ファイル:Van Gogh's Palette.jpg|thumb|left|140px|オーヴェルに残されていたファン・ゴッホのパレット︵[[オルセー美術館]]︶{{sfn|デーネカンプほか|2016|p=102}}。]] この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル︵ドリース︶とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている{{sfn|二見|2010|p=280}}<ref group="手紙">{{Cite web <gallery>
ファイル:Vincent van Gogh - Dr Paul Gachet - Google Art Project.jpg |﹃[[医師ガシェの肖像]]﹄1890年6月、オーヴェル。油彩、キャンバス、68.2 × 57 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=751 |title=Le docteur Paul Gachet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-12-19}}</ref><sup>F 754, JH 2014</sup>。 377 ⟶ 379行目:
[[ファイル:Vincent-van-gogh-echo-pontoisien-august7-1890.jpg|thumb|right|200px|ファン・ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)]]
[[ファイル:Gachet-VanGoghdead1890.jpg|thumb|left|120px|ガシェ医師による死の床のファン・ゴッホのスケッチ︵1890年7月29日︶。]] [[ファイル:Vincent van Gogh - Tree Roots and Trunks (F816).jpg|thumb|right|200px|﹃木の根と幹﹄、1890年7月、オーヴェル、油彩、キャンバス、50 × 100 cm。[[ファン・ゴッホ美術館]] <sup>F 816, JH 2113 </sup> 。<br />本作をファン・ゴッホの[[絶筆]]とする説がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200728223550/https://this.kiji.is/660948039103612001 |title=ゴッホ最後の絵、場所特定 ﹁木の根と幹﹂パリ近郊 |website=共同通信 |publisher=共同通信社 |date=2020-07-29 |accessdate=2021-03-03}}</ref>。]] [[浮世絵]]に関心の高いヴァン・ゴッホは最晩年、オーストラリア生まれの画家{{仮リンク|エドムンド・ウォルポール・ブルック|en|Edmund_Walpole_Brooke|preserve=1}}と知り合った。エドムンドは[[イギリス人]]の父{{仮リンク|ジョン・ヘンリー・ブルック|en|John Henry Brooke|preserve=1}}が[[ジャパン・デイリー・ヘラルド]]の[[ディレクター]]︵1867年から︶で、日本で活動していた<ref>[https://web.archive.org/web/20210607184306/https://news.artnet.com/art-world/vincent-van-gogh-edmund-walpole-brooke-1976668 Can This $45 Thrift Store Painting Provide Clues About Vincent Van Gogh’s Final Days in France? Art Historians Are Hoping So.] Sarah Cascone, June 7, 2021.</ref>{{efn|[[大阪大学]]の[[小寺司]]美術史教授による研究がある<ref>{{Cite web|title=Tsukasa Kodera|url=https://tsukasakodera.academia.edu/research#papers|access-date=2021-06-14|website=tsukasakodera.academia.edu}}</ref>。}}。 504 ⟶ 506行目:
== 手紙 ==
{{Main|フィンセント・ファン・ゴッホの手紙}}
[[ファイル:The Public-Soup-Kitchen F272 Vincent van Gogh.jpg|thumb|right|200px|ゴッホの手紙に描かれた[[炊き出し]]所のスケッチ<ref group="手紙">{{Cite web 画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている{{sfn|木下|2002|p=28}}。[[ゴッホ美術館]]によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家[[アントン・ファン・ラッパルト]]、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、妹[[ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ]]︵通称ヴィル︶などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある<ref>{{Cite web |url=http://vangoghletters.org/vg/letter_writer_1.html |title=Van Gogh as a letter-writer |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-09-10 }}</ref>。 570 ⟶ 572行目:
当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具を[[チューブ (容器)|チューブ]]から直接画面に絞り出すこともあった{{sfn|西岡|2016|pp=96-98}}。 ==== 印象派と浮世絵の影響(パリ)
[[ファイル:Van Gogh - Das Restaurant de la Siréne in Asniéres.jpeg|thumb|right|180px|﹃[[アニエール=シュル=セーヌ|アニエール]]のレストラン﹄1887年夏、パリ。印象派の強い影響が見られる{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-67}}。]] しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは[[印象派]]や[[新印象派]]が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた{{sfn|圀府寺|2010|pp=63-64}}。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった<ref name="before-and-after" />。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。[[クロード・モネ]]が﹃[[ルーアン大聖堂 (モネ)|ルーアン大聖堂]]﹄の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは﹁僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。﹂と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた{{sfn|圀府寺|2010|pp=65-72}}<ref group="手紙" name="L549">[http://vangoghletters.org/en/let549 フィンセントよりテオ宛書簡549]︵1885年12月19日、アントウェルペン、[[#CL|CL: 441]]、{{Lang|en|However, I’d rather paint people’s eyes than cathedrals...}}︶。</ref>。 [[ファイル:Van Gogh - Sämann bei untergehender Sonne3.jpeg|thumb|left|180px|﹃種まく人﹄1888年11月、アルル。前景の木と遠景の対比は、パリ時代に模写した広重の﹁亀戸梅屋舗﹂の影響が見られる{{sfn|二見|2010|p=191}}{{sfn|吉屋|2005|pp=159-160}}。]] また、ゴッホはパリ時代に数百枚に上る[[浮世絵]]を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味︵[[ジャポネズリー]]︶は[[エドゥアール・マネ|マネ]]、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には[[日本の開国]]に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある{{sfn|高階・上|1975|pp=163-166}}。ファン・ゴッホは、﹁僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。﹂と書き、その理想を日本や日本人に置いていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=157-160}}<ref group="手紙">{{Cite web ==== 激しいタッチと色彩(アルル) ====
{{色}}
単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある﹃収穫﹄などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却と[[バロック絵画|バロック]]的・[[ロマン主義]]的な感情表出に向かっている{{sfn|二見|1980|pp=32-33}}。ファン・ゴッホは、﹁結局、無意識のうちに[[アドルフ・モンティセリ|モンティセリ]]風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。﹂と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghmuseum.nl/vgm/index.jsp?page=4210&lang=en |title=Flower Still Life, 1875 |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2013-02-28 }}</ref><ref group="手紙">{{Cite web [[ファイル:BYR color wheel.svg|thumb|right|100px|[[色相環]]]]
ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、[[補色]]に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、[[色相環]]で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代に[[シャルル・ブラン]]の著書を通じて補色の理論を理解していた{{sfn|新関|2011|p=74}}{{Refnest|group="注釈"|補色理論を普及させたのは[[ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール]]の﹃色彩の同時対照の法則﹄︵1839年︶であったが、ゴッホはドラクロワをその確立者と考えていた{{sfn|新関|2011|pp=77-80}}。}}。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、﹁二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること﹂<ref group="手紙" name="L673">[http://vangoghletters.org/en/let673 フィンセントよりテオ宛書簡673]︵1888年9月3日、アルル、[[#CL|CL: 531]]、{{Lang|en|To express the love of two lovers through a marriage of two complementary colours...}}︶。</ref> を目指したと書いたり、﹃[[夜のカフェ]]﹄において、﹁赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう﹂<ref group="手紙">{{Cite web ==== 渦巻くタッチ(サン=レミ) ====
592 ⟶ 594行目:
ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ︵後期︶、[[オディロン・ルドン]]らとともに、[[ポスト印象派]]︵後期印象派︶に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった{{sfn|高階・上|1975|p=144}}。 ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触︵タッチ︶でキャンバスの上に並置する﹁筆触分割﹂という手法を編み出し、伝統的な[[遠近法]]、[[明暗法]]、肉付法を否定した点で、[[アカデミズム絵画]]から敵視されたが、広い意味で[[ギュスターヴ・クールベ]]以来の[[写実主義]]を突き詰めようとするものであった{{sfn|高階・上|1975|pp=94-97,146-148}}。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる{{sfn|高階・上|1975|p=115}}。ゴーギャンやルドンに代表される[[象徴主義]]は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた{{sfn|高階・上|1975|pp=150-151}}。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙︵[[タブラ・ラーサ]]︶ではないことを明確に意識していた{{sfn|高階・下|1975|p=20}}。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった{{sfn|西岡|2011|p=98}}。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた{{sfn|高階・上|1975|pp=175-176}}。彼自身、テオへの手紙で、﹁自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。﹂と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、[[ブロンド]]の髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている{{sfn|高階・下|1975|p=37}}<ref group="手紙">{{Cite web こうした姿勢は既に20世紀初頭の[[表現主義]]を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、[[ナビ派]]をはじめとする彼ら[[世紀末芸術]]の画家は、印象派の感覚主義に反発して﹁魂の神秘﹂の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]において感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とする[[ドイツ表現主義]]に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、[[フェルディナント・ホドラー]]、[[エドヴァルド・ムンク]]などの世紀末芸術の画家に傾倒した{{sfn|高階・下|1975|pp=3-4,20-21}}。[[エミール・ノルデ]]や[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]ら多くの[[ドイツ]]・[[オーストリア]]の画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、[[エゴン・シーレ]]や[[リヒャルト・ゲルストル]]など、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/2007/03/23/arts/design/23gogh.html |title=Modern Dutch Master, but Citizen of the World |author=Martha Schwendener |newspaper=New York Times |date=2007-03-23 |accessdate=2021-03-03 |language=en}}</ref>。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスでは[[フォーヴィスム]]として現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れた[[モーリス・ド・ヴラマンク]]は、後に、﹁自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。﹂という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた{{sfn|高階・下|1975|pp=36-37,54-55}}。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の[[抽象絵画]]にもつながる要素を持っていたといえる{{sfn|高階・下|1975|p=181}}。 602 ⟶ 604行目:
==== 肖像画 ====
ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画︵オランダ時代︶に始まり、[[タンギー爺さん]]︵パリ時代︶、[[アルルの女 (ジヌー夫人)|ジヌー夫人]]、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]と妻オーギュスティーヌ︵[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女|ゆりかごを揺らす女]]︶らその家族︵アルル時代︶、[[医師ガシェの肖像|医師ガシェ]]とその家族︵オーヴェル=シュル=オワーズ時代︶など、身近な人々をモデルに多くの[[肖像画]]を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から﹁僕は[[大聖堂]]よりは人間の眼を描きたい﹂<ref group="手紙" name="L549" />と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。﹁僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに︿出現﹀︵アパリシオン︶のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。﹂{{sfn|圀府寺|2010|pp=177-179}}<ref group="手紙">{{Cite web <gallery>
ファイル:Vincent Willem van Gogh 086.jpg|﹃[[パシアンス・エスカリエの肖像]]﹄[[1888年]]8月、アルル。油彩、キャンバス、69 × 56 cm。個人コレクション<sup>F 444, JH 1563</sup>。 613 ⟶ 615行目:
==== 自画像 ====
{{Main|自画像 (ゴッホ)}}
ファン・ゴッホは多くの[[自画像]]を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている<ref>{{Cite web |url= http://www.visual-arts-cork.com/genres/self-portraits.htm |title=Encyclopedia of Irish and World Art, art of self-portrait |accessdate=2012-07-14 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|油彩、水彩、デッサンを合わせて43点︵ただし贋作の疑いがあるものもある︶とする文献もある{{sfn|瀬木|2017|pp=101-102}}。}}。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる{{sfn|粟津|1993|pp=31-32}}。アルルでは、ロティの﹃お菊さん﹄に触発されて、自分を日本人の坊主︵仏僧︶の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる{{sfn|圀府寺|2009|pp=155,171}}。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、﹁モデルがいないから﹂、﹁自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから﹂と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある{{sfn|千足|2015|p=54}}<ref group="手紙">{{Cite web アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳︵鏡像を見ながら描いたため絵では右耳︶に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには﹃星月夜﹄にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している{{sfn|粟津|1993|p=33}}。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。 630 ⟶ 632行目:
ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点の[[ひまわり]]の絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の﹃ひまわり﹄である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した﹃ひまわり﹄は7点に終わった{{sfn|吉屋|2005|pp=181-182}}。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える{{sfn|高階|1984|p=40}}。 西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは﹁その花が太陽に顔を向け続けるように{{Refnest|group="注釈"|実際には、ひまわりの花はずっと東を向いており、 後に、ファン・ゴッホは﹃[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女]]﹄を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、[[祭壇画]]のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている{{sfn|圀府寺|2010|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web ==== 糸杉 ====
646 ⟶ 648行目:
|image2=Vincent Willem van Gogh 025.jpg |width2=120|caption2=ファン・ゴッホ﹃種まく人﹄1889年10月、サン=レミ。油彩、キャンバス、80 × 64 cm。個人コレクション<sup>F 690, JH 1837</sup>。 }}
ファン・ゴッホは、最初期から[[バルビゾン派]]の画家[[ジャン=フランソワ・ミレー]]を敬愛しており、これを[[模写]]したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、[[アルフレッド・サンシエ]]の﹃ミレーの生涯と作品﹄で読んだという﹁彼{{Interp|ミレー|和文=1}}の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている﹂という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは﹁まさに真を衝いた至言だ﹂と書いている{{sfn|二見|2010|p=107}}<ref group="手紙">{{Cite web アルル時代︵1888年6月︶には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた﹃種まく人﹄を描き上げた。このほか、﹁掘る人︵耕す人︶﹂、﹁鋤く人﹂、﹁麦刈りをする人﹂などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは[[聖書]]における[[キリスト]]のたとえ話<ref group="注釈">[[マルコによる福音書]] [[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:26|第4章26節から29節]]には次のようにある。﹁また、イエスは言われた。﹃[[神の王国|神の国]]は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。﹄﹂。</ref> に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば﹁種まく人﹂は人の誕生や﹁神の言葉を種まく人﹂<ref group="注釈">[[s:マルコによる福音書(口語訳)#4:14|マルコによる福音書 第4章14節]]﹁種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。﹂</ref>、﹁掘る人﹂は楽園を追放された人間の苛酷な労働{{Refnest|group="注釈"|[[創世記]] [[s:創世記(口語訳)#3:19|第3章19節]]で楽園を追放された[[アダム]]に告げられる﹁お前は顔に汗を流してパンを得る﹂という言葉は、ミレーやファン・ゴッホにおいては﹁掘る人﹂の図像と結び付けられていた{{sfn|圀府寺|2009|pp=186-188}}。}}、﹁麦刈り﹂は人の死を象徴していると考えられている{{sfn|圀府寺|2010|pp=94-105}}{{sfn|圀府寺|2009|pp=193-195}}。ファン・ゴッホ自身、手紙で、﹁僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。﹂と書いている{{sfn|高階|1984|pp=146-147}}<ref group="手紙">{{Cite web {{multiple image
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| image2 = Vincent Van Gogh- La Résurrection de Lazare (d’après Rembrandt).JPG | width2= 180 | caption2=ファン・ゴッホ﹃ラザロの復活﹄1890年、サン=レミ。[[ゴッホ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0169V1962 |title=The Raising of Lazarus (after Rembrandt) |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2017-12-21}}</ref><sup>F 677, JH 1972</sup>。 }}
サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家である[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、ミレーらの[[版画]]や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した{{sfn|ホンブルク|2001|p=62}}。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは﹃[[ピエタ]]﹄や﹃[[善きサマリア人]]﹄、レンブラントからは﹃天使の半身像﹄や﹃[[ラザロ]]の復活﹄という宗教画を選んで模写していることが特徴である{{sfn|ホンブルク|2001|pp=83,93-105}}。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、﹁僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。﹂と書いている<ref group="手紙">{{Cite web ファン・ゴッホはこれらの模写を﹁翻訳﹂と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した﹃ラザロの復活﹄︵1890年︶では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる{{sfn|圀府寺|2010|pp=161-171}}。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている{{sfn|圀府寺|2009|pp=78-79}}。 666 ⟶ 668行目:
** [[ゴッホちゃん]]
* {{ill2|インパスト|en|Impasto}} - ゴッホの作品の特徴である厚塗り技法。
*「ファン・ゴッホ ー僕には世界がこう見えるー」 - 2022年6月18日から2023年1月9日まで[[ところざわサクラタウン#角川武蔵野ミュージアム(1-5F)|角川武蔵野ミュージアム]]にて
== 外部リンク ==
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* [https://www.vangoghmuseum.nl/en ゴッホ美術館公式サイト] - {{nl icon}}、{{en icon}}(一部に日本語ページあり)
* [https://www.routevangogheurope.eu/ja/ フィンセントの人生と作品を発見しよう(ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団)](日本語版へのリンク)
* {{青空文庫著作者|2126|ファン・ゴッホ フィンセント}}
* [https://www.project-archive.org/0/040.html フィンセント・ファン・ゴッホ「若き日の手紙」(式場隆三郎訳)] - ARCHIVE
* {{Kotobank|ゴッホ}}
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