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| 最終戦 = [[2002年日本グランプリ (4輪)|2002年日本GP]]
|略称表記=SAL}}
'''ミカ・ユハニ・サロ'''({{lang|fi|Mika Juhani Salo}}, [[1966年]][[11月30日]] - )は、[[フィンランド]]出身の元[[レーシングドライバー]]。
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== プロフィール ==
===
==== ハッキネンとの関係 ====
サロは[[レーシングカート|カート]]時代から2歳年下 サロは[[1988年]]に[[フォーミュラ・フォード|フォーミュラ・フォード1600]]ヨーロッパチャンピオンを獲得。[[1989年]]、{{仮リンク|アラン・ドッキング・レーシング|en|Alan Docking Racing}}より[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3選手権]]に参戦する。[[1990年]]はハッキネンとふたりでイギリスF3を席巻し、サロは6勝を挙げ 当初、ハッキネンは国際F3000選手権にステップアップする予定であり、サロも結果的には日本でF3000にステップアップしたため、予定通りであったなら似たようなキャリアとなるはずだった。ところが、ハッキネンが[[DAMS]]F3000のマシンのテスト走行を体験<ref>ミカ・ハッキネン いつもプレッシャーの中で [[Racing On]] 1991年11月15日号79頁 ニューズ出版 </ref>した際、そのマシンを酷評したため<ref>ZOOM UP DRIVER ミカ・ハッキネン F1界の巨人を目指して [[F1速報]] 1991年第15戦日本GP号31頁 武集書房</ref>、ハッキネンのマネージャー、[[ケケ・ロズベルグ]]が計画を変更。名門ではあったが存続の危機に瀕していた[[チーム・ロータス]]のシートを確保してF1デビュー<ref>ハッキネンがロータス入り、ケケ・ロズベルグが強力に推薦 [[オートスポーツ]] No.573 1991年2月1日号 三栄書房</ref><ref>活動中止の危機に陥っていたチームロータス、どたんばになってケケ・ロズベルグの強力なテコ入れによりミカ・ハッキネンとオルスト・シュベルがチームに加入。まずはチームのF1参戦は確保 ==== 全日本F3 / 全日本F3000 ====
[[1991年]]、活動の場を日本に移 [[1992年]]も[[アド・レーシング]] / [[5ZIGENインターナショナル|チーム5ZIGEN]]から全日本F3000に継続参戦し、第3戦MINEで4位を獲得。夏場には[[全日本F3選手権]]にもダブルエントリーで参戦し日本のサーキットでの経験値を高めた。前年より完走率を向上させ、最終戦富士でも5位でポイントを獲得しランキングは15位に浮上した。 45行目:
[[1994年]]にそれまで使用していた無限エンジンからコスワースエンジンに変更すると、開幕戦・鈴鹿で3位となり、ついに全日本F3000での初表彰台を獲得。日本では4シーズンを戦い、最終年となった1994年にランキング最高位となるシリーズ7位となった。 当時サロと同じく来日参戦し、後にF1でも共に戦った仲間には[[ジョニー・ハーバート]]、[[エディ・アーバイン]]、[[ハインツ・ハラルド・フレンツェン]]、[[ローランド・ラッツェンバーガー]]、[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]︵全日本F3︶らがおり、[[ジェフ・クロスノフ]] === F1 ===
==== ロータス / ティレル / アロウズ ====
[[ファイル:Mika Salo 1995 Britain.jpg|thumb|right|250px|[[1995年イギリスグランプリ|1995年イギリスGP]]にて[[ティレル・023]]に乗るサロ]]
{{f1|1994}}シーズンの終盤戦に、財政難に陥ったロータス・[[M-TEC|無限ホンダ]]は、第14戦[[1994年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]を前に[[ジョニー・ハーバート]]の契約を[[リジェ]]チームへ売却して移籍させ、交換の形で[[エリック・ベルナール]]を加入させた。ロータスとベルナールは1戦のみの契約で、翌戦の第15戦[[1994年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]でF1デビューを果たしたのが、全日本F3000で[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]を知り尽くしていた {{f1|1995}}はそのままロータスから参戦するする予定だったが、ロータスはシーズン終了後に消滅し、ロータスと合併した[[パシフィック・レーシング]]がサロとの契約を主張し、裁判の結果契約は無効と判断され、開幕戦直前に母国フィンランドの通信会社[[ノキア]] しかし、1996年以降ティレルのチーム成績は年々下降を続け、1997年までをレース中団で過ごすことになる。そして、{{f1|1997}}[[1997年モナコグランプリ|モナコGP]]では雨の中タイヤ無交換作戦が成功し5位入賞。この年唯一かつティレルチームとして最後の入賞となった。
{{f1|1998}}、[[デイモン・ヒル]]に替わって[[アロウズ]]へ移籍。しかし、チームに前年健闘したような戦闘力は無かったうえ、マシンの信頼性も前年より悪化。完走すらままならない状況であった。[[1998年モナコグランプリ|モナコGP]]で4位に入り[[ペドロ・ディニス]]とダブル入賞を果たしたが、入賞はそれだけであった。予選およびランキングではシーズンを通してチームメイトを上回り、翌シーズンもアロウズ残留の予定だったが、{{f1|1999}}の開幕前テストに合流した[[高木虎之介]]とのシート争奪戦に敗れ、開幕戦直前にチームから放出。シートを失い浪人生活の状態で1999シーズンは開幕を迎えた。 62 ⟶ 64行目:
まず、[[1999年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]でクラッシュして欠場を余儀なくされた[[リカルド・ゾンタ]]の代役として3レースに出場。デビューシーズンで全くの不振に終わった[[B・A・R|BAR]]のシーズン最高成績︵7位︶を記録する。 [[1999年イギリスグランプリ|イギリスGP]]で[[ミハエル・シューマッハ]]がマシントラブルによってクラッシュし脚を[[骨折]]。負傷欠場が決まると、その代役としてサロが指名され、フィンランド人初となる名門[[スクーデリア・フェラーリ]]のシートを得ることになった。その2戦目となる[[1999年ドイツグランプリ|ドイツGP]]ではレース中盤からF1キャリア初のラップリーダーとなり首位走行を続けるも、タイトル争い中の[[エディ・アーバイン]]を勝たすための[[チームオーダー]]を受け入れ、優勝を譲った。それでも、自身初となる2位表彰台を獲得し、アーバインから感謝の印として優勝トロフィーを贈られた。その後、[[1999年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でも3位表彰台を獲得。ポイントを獲得できたのはこの2戦のみではあったがシューマッハ不在のフェラーリにおいて完璧な代役を務め、この年フェラーリのコンストラクターズタイトル獲得へも大きく貢献した。BARで3戦、フェラーリで6戦の合計9戦のみの出走であったが、サロのF1キャリアの中で最も年間ポイントを稼いだシーズンはこの1999年であった。 このシーズンの助っ人としての働きが評価され、翌年からF1レギュラーシートを取り戻すことになった。また、高い信頼を勝ち得たフェラーリとのパイプは、F1以後のレースキャリアでも続くことになる。 ==== ザウバー / トヨタ ====
{{f1|2000}}はフェラーリからの推薦もあり、フェラーリのエンジン供給を受ける[[ザウバー]]
{{f1|2001}}、翌年からF1参戦することを発表した[[トヨタF1|トヨタ]]と契約し、[[アラン・マクニッシュ]]とともに1年間テストを担当した。サロは日本在住の経験があり、日本人女性と結婚していたことから[[日本語]]でのコミュニケーション能力が非常に高かった︵少なくともヒアリングについては全く問題ないという証言が多数を占める︶。このためF1に参入したばかりであり、少なくない日本人スタッフが混じっていたトヨタにとっては非常に有益な存在であった。 85 ⟶ 87行目:
[[2018年]]はロシアの[[SMPレーシング]]のスポーティングディレクターを務め、[[FIA 世界耐久選手権]](WEC)に参戦する同チームの運営を担う一方で、同年[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]からF1に参戦した[[セルゲイ・シロトキン]]のマネージメントも担当している<ref>[http://www.topnews.jp/2018/01/17/news/f1/166583.html ウィリアムズのドライバーたちは“ハングリー”だとミカ・サロ] - TopNews・2018年1月17日</ref>。
== 逸話 ==
*1990年のF3シーズン終了後、以後に予定されたプランは2つしか無く、交渉が上手くいけば国際F3000選手権へのスポット参戦、それがだめな場合は1991年もイギリスF3に継続参戦するしか無かった。11月のマカオ・富士のF3シリーズでのサロの走りを見た日本のレース関係者から「日本でレース活動をする気はありますか?」と初めて打診を受けた時は、日本にF3000選手権があることも知らなかったため乗り気ではなかった。しかし2度目の電話で「ギャラはいくらで、どんなマシンで、との提案をしてくれた時、すぐに日本でのレース参戦を決めた。だって僕はそれまでレース賞金はもらっていたけど、チームからの契約金はもらった事が無かったんだよ。それがプロとして報酬が受け取れてレースが出来るなんて、すぐ日本に行きますって答えたよ。」と述べている<ref name="95ron" />。
*
*F1デビューはロータスからとなったが、何かと比較対象となっていたハッキネンとF1デビューのチームが共にロータスとなり、カーナンバー「11」であることも共通する偶然が生じた。ロータス仕様のレーシングスーツの準備が間に合わなかったためハーバートが先月までロータスで着用していたものを借りての出走だった<ref>サロ「ジョニーから借りたウェアの足が短くて困った(笑)」AS+F 1994年日本GP号 三栄書房 1994年11月</ref>。
*日本居住時代は東京・[[下北沢]]を生活拠点としており、[[Racing On]]誌上で近所を散策する様子や日課である[[スポーツクラブ]]通いなども紹介された<ref>オフはスカッシュでリフレッシュ ミカ・サロ [[Racing On]] 武集書房 1991年</ref>。アーバイン、ラッツェンバーガー、ヴィルヌーヴ、[[トーマス・ダニエルソン]]とはレースの無い週でも仲が良く、サロのそれほど広くはない下北沢のマンションの部屋へ遊びに来ては皆でその床で雑魚寝をしていくなど行動を共にしていた<ref name="95ron" />。この頃、[[レースクイーン]]をしていた後に妻となる賀子夫人とも知り合っている。
* 多数のレーシングカーを乗った中でも、日本時代に乗ったF3000マシンは印象深いと述べている。「F1マシンはF3に近い所があって、個人的にはF3000のフィーリングが好きだった。日本のハイグリップタイヤも面白かったしね。でも成績もタイムもなかなか出なかったから、今でも不思議に思う事がある。F1はハイスピードのグリップは強烈だから、高速域になると意外とドライビングは簡単なんだ。でも100km/h以下だとウイングの効果が無くなるから全くグリップしてくれない。F3000はその点高速も低速も安定していたよ」とF1マシンと全日本F3000マシンの違いを解説している。
*1995年開幕戦、ティレルへの移籍初戦にして3位を走行しながらスピンしてしまった原因は、ティレル加入決定があまりにも直前での決定になったため、自分用の専用シート製作が出来ておらず前任の[[マーク・ブランデル]]仕様のシートそのままだったためポジションに不具合が多く「肩が想像を絶する痛みで、腕の感覚が無くなってしまった」ためだった。このレースではレースウェアもブランデルがチームに置いて行ったものを借りて出走していたため、「自分用の物はパンツとヘルメットだけだった」とコメントしている。
*ティレルでチームメイトとなった[[片山右京]]について、「日本に行った1991年のチャンピオンは彼だし、良いドライバーなのは間違いない。僕とはドライビングのスタイルが極端に違っていたのでセッティングの共有は全くできなかった。右京の好みはオーバーステア気味のセットだけど、僕はオーバーステアが大嫌いなんだ。ブレーキングでは彼の方がかなり深くまで突っ込むし、ワイルドだね。マシン開発面では共通点がほとんど無いので、走った後の感想も違ってしまう。マシンを開発する[[ハーベイ・ポスルスウェイト]]にとっては問題だったかもしれない。」と語っている<ref name="95ron" />。
== 人物 ==
* 家族は夫人との間に1男1女。長男のマックス・サロはレーシングドライバーの道に進んでいる。2020年には日本で行われる『ポルシェ スプリント チャレンジ ジャパン』シリーズへの参戦を発表したが<ref>https://jp.motorsport.com/porsche/news/PSCJ-Max-Salo-Field-Manegment-motorsport-announcement/4773442/ ミカ・サロの長男、マックス・サロが日本でポルシェを駆る! PSCJへの参戦を発表] - motorsport.com 2020年3月26日</ref>、[[新型コロナウイルス感染症]]の流行の影響で入国が困難となったため、実際には開幕戦に参戦したのみに終わった。2021年には[[FIA-F4選手権]]<ref>[https://www.as-web.jp/domestic/692701?all ATEAM Buzz Racing、2021年もFIA-F4はじめ多くの若手ドライバーをバックアップ] - オートスポーツ・2021年4月30日</ref>、2023年には[[スーパー耐久]]・ST-Zクラスに参戦する<ref>[https://www.as-web.jp/domestic/909004?all 佐々木孝太率いるBUZZ KOTA RACINGがマクラーレンでスーパー耐久ST-Zクラス挑戦へ] - オートスポーツ・2023年2月21日</ref>など、以後も日本でレース活動を行っている。
== レース戦績 ==
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[[Category:マカオグランプリのドライバー]]
[[Category:チャンプカーのドライバー]]
[[Category:アメリカン・ル・マン・シリーズのドライバー]]
[[Category:ヨーロピアン・ル・マン・シリーズのドライバー]]
[[Category:FIA 世界耐久選手権のドライバー]]
[[Category:FIA GT選手権のドライバー]]
[[Category:FIA GT1世界選手権のドライバー]]
[[Category:
[[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]]
[[Category:スパ24時間レースのドライバー]]
[[Category:全日本ツーリングカー選手権のドライバー]]
[[Category:スーパー耐久のドライバー]]
[[Category:モータースポーツエージェント]]
[[Category:ヘルシンキ出身の人物]]
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