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[[image:Lee Radziwill in India.jpg|thumb|right|280px|リー・ラジウィルと{{仮リンク|クリシュナ・フーシーシン|en|Krishna Hutheesing}}(インド、1962年)]]
[[ファイル:Princess Lee Radziwill.jpg|サムネイル|1962年]]
'''キャロライン・リー・ラジウィル・ロス'''︵Caroline Lee Bouvier Canfield Radziwill Ross, [[1933年]][[3月3日]] - [[2019年]][[2月15日]]<ref>[https://www.bbc.com/news/world-us-canada-47268649?ocid=socialflow_twitter 姓の表記について、ラジヴ''ィ'''ル'''よりもラジヴィ'''ウ'''<ref>Radziwiłłのłłはポーランド語の発音で[w]となる。</ref>、あるいは英語ではラジ'''ウ'''ィ'''ル'''が用いられる。
== 経歴 ==
[[アメリカ合衆国東海岸|アメリカ東海岸]]の[[サフォーク郡 (ニューヨーク州)|サウサンプトン]]生まれ。[[ジャクリーン・ケネディ・オナシス]]の3歳下の実妹で二人姉妹。裕福な家の出で株の仲買人であり遊び人としても知られた[[:en:John Vernou Bouvier III|ジョン・ブーヴィエ3 {{仮リンク|ミス・ポーターズ・スクール|en|Miss Porter's School}}から[[サラ・ローレンス大学]]に進んだが、2年時にイタリアに渡り絵を学び、1950年に[[ハーパーズ バザー]]誌の名物編集者[[ダイアナ・ヴリーランド]]の助手となる。姉ジャクリーンと共に[[パリ]]に遊学し<ref name=ell>[[ELLE (雑誌)|ELLE ONLINE]] [http://m.elle.co.jp/fashion/pick/Lee_Radziwill15_11 【vol.2】大統領の消された妹:アメリカのファッション史を築いたケネディ家の女たちの光と影] 2015年11月25日</ref>、1951年に二人で帰国した<ref name=nyt/>。
1953年秋、マイケル・キャンフィールドと結婚し、結婚は姉より先だった。マイケルは老舗出版社ハーパース(現・[[ハーパーコリンズ]])の重役[[:en:Cass Canfield|キャス・キャンフィールド]]の[[養子]]で、同社の[[ロンドン]]支社長など父親の会社に務めていた。実母はアメリカ[[社交界]]の花形で後に重度の麻薬中毒で投身自殺した{{仮リンク|キキ・プレストン|en|Kiki Preston}}、生物学的な父親は[[ジョージ (ケント公)|ケント公ジョージ]]とされているので、もし、そうであれば、キャンフィールドは英国女王[[エリザベス2世]]の従兄弟ということとなる。その後、マイケルとは1959年に離婚したが、[[ローマ・カトリック教会]]から「"annulment" (婚姻無効)」が宣告されたのは1962年11月のことだった<ref name=annul>{{cite news|title=Roman Catholics: The Law's Delay|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,873839-1,00.html|publisher=[[:en:Time Life|Time Life]]|location=New York City|date=February 28, 1964|accessdate=September 4, 2009}}</ref><ref>。一方、リーの再婚相手となるスタニスラス・ラジヴィウは、前妻グレース・マリア・コリンとの婚姻自体がローマ・カトリック教会からそもそも「"acknowledgement" (婚姻承認)」されていなかったので、後述のように、リーと共に婚姻無効の申立てをする必要がなかった。ちなみに、スタニスラスは最初(一度目)の妻 モンレオン伯爵女ローズ(Rose de Monléon)とは1945年に離婚したが、婚姻無効が宣告されたのは1958年になってのことだった。</ref>。▼
▲1953年秋、マイケル・キャンフィールドと結婚し、同年の9月に結婚 1959年3月19日、二度目の夫であるポーランド大貴族のスタニスラス・ラジウィルと"略式結婚"した。スタニスラスは二度目の妻グレース・マリア・コリン(Grace Maria Kolin)と1958年に離婚したが<ref>Lundy, Darryl, ed. [http://thepeerage.com/p990.htm#i9899 "Grace Maria Kolin"]. ''ThePeerage.com'', September 28, 2010</ref>、リー自身もキャンフィールドとまだ夫婦だった1957年からスタニスラス・ラジウィルと交際していた。なお、リーとスタニスラス双方とも敬虔なカトリック信者だったが、キャンフィールドとは1962年と、その後すぐに婚姻無効が宣告されたのは、義兄[[ジョン・F・ケネディ]]のおかげだったとのこと<ref name=ell />。また、不倫関係にあった[[アリストテレス・オナシス]]と結婚するつもりでいたが、程なくして姉ジャクリーンに奪われる形となった<ref name=ell />。その後、スタニスラスとも1974年に離婚が成立した<ref>[http://www.people.com/people/archive/article/0,,20064301,00.html "For Princess Lee Radziwill, It's the End of a Marriage"] "People", July 29, 1974</ref>。スタニスラフとの間に2児をもうけた。▼
▲1959年3月19日、
スタニスラフと婚姻中の1962年3月、アメリカの[[ファーストレディー]]となった姉ジャクリーン・ケネディとイギリス、インド・パキスタン訪問に同行する<ref name=ell />。1960年代には、カポーティはじめ[[ルドルフ・ヌレーエフ]]、[[マーゴ・フォンテイン]]、[[セシル・ビートン]]ら社交界のセレブたちと親交し、彼らの勧めもあって[[俳優#性別での分類|女優]]としてのキャリアを求め、[[王立演劇学校]]などの教師から演技を習い、カポーティの紹介で1967年に[[シカゴ]]で舞台版「[[フィラデルフィア物語]]」に出演するが、低い評価しか得られなかった<ref name=nyt>[https://www.nytimes.com/2019/02/16/obituaries/lee-radziwill-dead.html Lee Radziwill, Ex-Princess and Sister of Jacqueline Kennedy Onassis, Dies at 85][[ニューヨーク・タイムズ]]、Feb. 16, 2019</ref>。その後、カポーティ脚本のテレビドラマ版『[[ローラ殺人事件]]』にも出演したが成功したとは言えず、それ以降は芸能活動から遠ざかった<ref>Clarke, Gerald. ''Capote: A Biography'' (New York: Simon and Schuster, 1988), pages 388–389.</ref><ref name=nyt/>。カポーティとの蜜月も終わりとなり、舌禍によりカポーティが[[ゴア・ヴィダル]]から[[名誉棄損]]で訴えられた際にも証言を拒否している(ゴアはジャクリーヌ・キャロライン姉妹の継父オーチンクロスと前妻との子で、その縁でケネディ政権の芸術顧問を務めていた)<ref name=nyt/>。
スタニスラス・ラジウィルと暮らしたロンドンの﹁4 Buckingham Place﹂の邸宅︵[[タウンハウス]]︶と{{仮リンク|ターヴィル|en|Turville}}の﹁manor Turville Grange, Oxfordshire﹂の邸宅︵[[マナー・ハウス|マナーハウス]]︶は<!--http://www.pinkpillbox.com/index.php/decor/residences-->、建築家・{{仮リンク|ロレンツォ・モンジャルディーノ|en|Renzo Mongiardino}}の装飾によるものであった。メディアに取り上げられてから、大衆の憧憬の的となったが、彼女自身も短い期間であったがインテリア・デコレーターとして働いていた時にモンジャルディーノに多くの影響を受けていた。彼女の顧客は富裕層ばかりだが、彼女は一度、"一年に三日と家に居たことことがない人達のために"家を装飾したと述べた<ref name="New York Magazine">New York Magazine, "The Decorating Establishment" February 12, 1979.</ref>。▼ ▲スタニスラス・ラジウィルと暮らしたロンドン 1988年9月23日、彼女の三度目の夫ハーバート・ロス(ロスにとっては二度目の妻となるが)とは、2001年に離婚ののちロスはすぐに亡くなった<ref name=Ross>{{cite news|title=Lee Bouvier Radziwill Weds Herbert Ross, Film Director|url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=940DE0DA1731F937A1575AC0A96E948260|publisher=New York Times|date=September 24, 1988|accessdate=June 21, 2007}}</ref>。また、ロスとの結婚後、[[ジョルジオ・アルマーニ]]と意気投合。彼女の社交界の人脈で「GIORGIO ARMANI」のPRに動いた<ref name=ell />。ロスと離婚後、子供たちの父親である二番目の夫の姓ラジヴィルを再び名乗る。▼
▲1988年9月23日、彼女の三度目の夫ハーバート・ロス(ロスにとっては二度目の妻となるが)とは、2001年に離婚ののちロスはすぐに亡くなった<ref name=Ross>{{cite news|title=Lee Bouvier Radziwill Weds Herbert Ross, Film Director|url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=940DE0DA1731F937A1575AC0A96E948260|publisher=New York Times|date=September 24, 1988|accessdate=June 21, 2007}}</ref>。また、ロスとの結婚後、[[ジョルジオ・アルマーニ]]と意気投合。彼女の社交界の人脈で1986年から1994年まで「GIORGIO ARMANI」のPRに動いた<ref name=ell /><ref name=nyt/>。ロスと離婚後、子供たちの父親である二番目の夫の姓ラジヴィルを再び名乗る。
2003年「''Happy Times''」を出版、自らの半生を綴っている。2008年、フランス政府から[[レジオン・ドヌール勲章]]シュバリエ章を受章した。
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== 参照 ==
* [[ELLE (雑誌)|ELLE ONLINE]] [http://m.elle.co.jp/fashion/pick/Lee_Radziwill15_11 【vol.2】大統領の消された妹:アメリカのファッション史を築いたケネディ家の女たちの光と影] 2015年11月25日
<!-- en:Lee Radziwill 01:25, 21 September
{{commonscat|Lee Radziwill}}
== 脚注 ==
<references />
{{People-stub}}▼
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:らしういる ろす りい}}
[[Category:ニューヨーク州サフォーク郡出身の人物]]
[[Category:アメリカ合衆国のソーシャライト]]
[[Category:フランスのソーシャライト]]
[[Category:ブーヴィエ家|り らしういる]]
[[Category:ラジヴィウ家]]
[[Category:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者]]
[[Category:サラ・ローレンス大学出身の人物]]
[[Category:1933年生]]
[[Category:2019年没]]
▲{{People-stub}}
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