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[[image:Lee Radziwill in India.jpg|thumb|right|280px|リー・ラジウィルと{{仮リンク|クリシュナ・フーシーシン|en|Krishna Hutheesing}}(インド、1962年)]]
[[ファイル:Princess Lee Radziwill.jpg|サムネイル|1962年]]
'''キャロライン・リー・ラジウィル・ロス'''︵Caroline Lee Bouvier Canfield Radziwill Ross, [[1933年]][[3月3日]] - [[2019年]][[2月15日]]<ref>[https://www.bbc.com/news/world-us-canada-47268649?ocid=socialflow_twitter Lee Radziwill: Jackie Kennedy's sister dies aged 85]BBC、2019.2.17</ref>︶は、[[ソーシャライト]]。"fashion icon"︵ファッション アイコン、ファッションリーダーのこと︶としても知名度があ 姓の表記について、ラジヴ''ィ'''ル'''よりもラジヴィ'''ウ'''<ref>Radziwiłłのłłはポーランド語の発音で[w]となる。</ref>、あるいは英語ではラジ'''ウ'''ィ'''ル'''が用いられる。
== 経歴 ==
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1953年秋、マイケル・キャンフィールドと結婚し、同年の9月に結婚した姉より先に結婚。マイケルは老舗出版社ハーパース︵現・[[ハーパーコリンズ]]︶の重役[[:en:Cass Canfield|キャス・キャンフィールド]]の[[養子]]で、チェース・ナショナル・バンク︵[[チェース・マンハッタン銀行]]の前身︶頭取で1953年に駐英アメリカ大使となった[[:en:Winthrop W. Aldrich|ウィンスロップ・アルドリッチ]]の私設秘書としてロンドンで暮らした<ref name=nyt/>︵離婚後ハーバースのロンドン支社代表となる︶。マイケルの実母はアメリカ[[社交界]]の花形で後に重度の麻薬中毒で投身自殺した{{仮リンク|キキ・プレストン|en|Kiki Preston}}、生物学的な父親は[[ジョージ (ケント公)|ケント公ジョージ]]とされ、キャンフィールドは英国女王[[エリザベス2世]]の従兄弟ということとなる。その後、マイケルとは1959年に離婚したが、[[ローマ・カトリック教会]]から﹁"annulment" ︵婚姻無効︶﹂が宣告されたのは1962年11月のことだった<ref name=annul>{{cite news|title=Roman Catholics: The Law's Delay|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,873839-1,00.html|publisher=[[:en:Time Life|Time Life]]|location=New York City|date=February 28, 1964|accessdate=September 4, 2009}}</ref><ref>一方、リーの再婚相手となるスタニスラス・ラジヴィウは、前妻グレース・マリア・コリンとの婚姻自体がローマ・カトリック教会からそもそも﹁"acknowledgement" ︵婚姻承認︶﹂されていなかった。したがって、リーと共に婚姻無効の申立てをする必要がなかった。ちなみに、スタニスラスは最初︵一度目︶の妻 モンレオン伯爵女ローズ︵Rose de Monléon︶とは1945年に離婚したが、婚姻無効が宣告されたのは1958年になってのことだった</ref>。 1959年3月19日、20歳上のポーランド貴族で英国不動産界で財を成したスタニスラス・ラジウィルと"略式結婚"した。スタニスラスは二度目の妻グレース・マリア・コリン(Grace Maria Kolin)と1958年に離婚したが<ref>Lundy, Darryl, ed. [http://thepeerage.com/p990.htm#i9899 "Grace Maria Kolin"]. ''ThePeerage.com'', September 28, 2010</ref>、リー自身もキャンフィールドと依然夫婦であった1957年からスタニスラス・ラジウィルと交際していた。なお、リーとスタニスラス双方とも敬虔なカトリック信者だったが、キャンフィールドとは1962年と、その後すぐに婚姻無効が宣告されたのは、義兄[[ジョン・F・ケネディ]]のおかげだったとのこと<ref name=ell />。また、不倫関係にあった[[アリストテレス・オナシス]]と結婚するつもりでいたが、程なくして姉ジャクリーンに奪われる形となった<ref name=ell />。その後、スタニスラスとも1974年に離婚が成立した<ref>[http://www.people.com/people/archive/article/0,,20064301,00.html "For Princess Lee Radziwill, It's the End of a Marriage"] "People", July 29, 1974</ref>。スタニスラ
スタニスラフと婚姻中の1962年3月、アメリカの[[ファーストレディー]]となった姉ジャクリーン・ケネディとイギリス、インド・パキスタン訪問に同行する<ref name=ell />。1960年代には、カポーティはじめ[[ルドルフ・ヌレーエフ]]、[[マーゴ・フォンテイン]]、[[セシル・ビートン]]ら社交界のセレブたちと親交し、彼らの勧めもあって[[俳優#性別での分類|女優]]としてのキャリアを求め、[[王立演劇学校]]などの教師から演技を習い、カポーティの紹介で1967年に[[シカゴ]]で舞台版﹁[[フィラデルフィア物語]]﹂に出演するが、低い評価しか得られなかった<ref name=nyt>[https://www.nytimes.com/2019/02/16/obituaries/lee-radziwill-dead.html Lee Radziwill, Ex-Princess and Sister of Jacqueline Kennedy Onassis, Dies at 85][[ニューヨーク・タイムズ]]、Feb. 16, 2019</ref>。その後、カポーティ脚本のテレビドラマ版﹃[[ローラ殺人事件]]﹄にも出演したが成功したとは言えず、それ以降は芸能活動から遠ざかった<ref>Clarke, Gerald. ''Capote: A Biography'' (New York: Simon and Schuster, 1988), pages 388–389.</ref><ref name=nyt/>。カポーティとの蜜月も終わりとなり、舌禍によりカポーティが[[ゴア・ヴィダル]]から[[名誉棄損]]で訴えられた際にも証言を拒否している︵ゴアはジャクリーヌ・キャロライン姉妹の継父オーチンクロスと前妻との子で、その縁でケネディ政権の芸術顧問を務めていた︶<ref name=nyt/>。 スタニスラス・ラジウィルと暮らしたロンドン[[シティ・オブ・ウェストミンスター|ウェストミンスター]]にある[[バッキンガム宮殿]]から4番地ほど南側の邸宅︵[[タウンハウス]]︶と{{仮リンク|ターヴィル|en|Turville}}の﹁manor Turville Grange, Oxfordshire﹂の邸宅︵[[マナー・ハウス|マナーハウス]]︶は<!--http://www.pinkpillbox.com/index.php/decor/residences-->、建築家・{{仮リンク|ロレンツォ・モンジャルディーノ|en|Renzo Mongiardino}}の装飾によるものであった。メディアに取り上げられてから、大衆の憧憬の的となったが、彼女自身も1976年にインテリアデザインの会社を興し<ref name=nyt/>、短い期間であったがインテリア・デコレーターとして働いていた時にモンジャルディーノに多くの影響を受けていた。彼女の顧客は富裕層ばかりだが、彼女は一度、"一年に三日と家に居たことことがない人達のために"家を装飾したと述べた<ref name="New York Magazine">New York Magazine, "The Decorating Establishment" February 12, 1979.</ref>。 44行目:
{{DEFAULTSORT:らしういる ろす りい}}
[[Category:ニューヨーク州サフォーク郡出身の人物]]
[[Category:アメリカ合衆国のソーシャライト]]
[[Category:フランスのソーシャライト]]
[[Category:ブーヴィエ家|り らしういる]]
[[Category:ラジヴィウ家]]
[[Category:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者]]
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