[[アメリカ合衆国東海岸|アメリカ東海岸]]の[[サフォーク郡 (ニューヨーク州)|サウサンプトン]]生まれ。[[ジャクリーン・ケネディ・オナシス]]の3歳下の実妹で二人姉妹。裕福な家の出で株の仲買人であり遊び人としても知られた[[:en:John Vernou Bouvier III|ジョン・ブーヴィエ3世]]と不動産業を営む資産家の娘[[:en:Janet Lee Bouvier|ジャネット]]の次女キャロラインとして生まれた。父方の先祖は[[南仏]]の家具職人で、1815年にアメリカに移民した。副業の[[薪]]販売のために購入した地所から[[石炭]]がとれることがわかり、これで築いた財を元手に[[不動産投資]]にも成功して富豪となった一族である。父親の女遊びと飲酒癖を理由に1936年に両親は別居、1940年に離婚し、姉とともに母親に引き取られる。母親は1942年に[[スタンダード石油]]の重役一族で株仲買人の[[:en:Hugh D. Auchincloss|ヒュー・ダドリー・オーチンクロスJr]]と再婚した<ref name=nyt/>。
{{仮リンク|ミス・ポーターズ・スクール|en|Miss Porter's School}}から[[サラ・ローレンス大学]]に進んだが、2年時にイタリアに渡り絵を学びにいき、1950年に[[ハーパーズ バザー]]誌の名物編集者[[ダイアナ・ヴリーランド]]の助手となる。姉ジャクリーンと共に[[パリ]]に遊学し<ref name=ell>[[ELLE (雑誌)|ELLE ONLINE]] [http://m.elle.co.jp/fashion/pick/Lee_Radziwill15_11 ︻vol.2︼大統領の消された妹‥アメリカのファッション史を築いたケネディ家の女たちの光と影] 2015年11月25日</ref>、1951年に二人で帰国した<ref name=nyt/>。
1953年秋、マイケル・キャンフィールドと結婚し、結婚は同年の9月に結婚した姉より先だったに結婚。マイケルは老舗出版社ハーパース︵現・[[ハーパーコリンズ]]︶の重役[[:en:Cass Canfield|キャス・キャンフィールド]]の[[養子]]で、チェース・ナショナル・バンク︵[[チェース・マンハッタン銀行]]の前身︶頭取で1953年に駐英アメリカ大使となった[[:en:Winthrop W. Aldrich|ウィンスロップ・アルドリッチ]]の私設秘書としてロンドンで暮らした<ref name=nyt/>︵離婚後ハーバースのロンドン支社代表となる︶。マイケルの実母はアメリカ[[社交界]]の花形で後に重度の麻薬中毒で投身自殺した{{仮リンク|キキ・プレストン|en|Kiki Preston}}、生物学的な父親は[[ジョージ (ケント公)|ケント公ジョージ]]とされ、キャンフィールドは英国女王[[エリザベス2世]]の従兄弟ということとなる。その後、マイケルとは1959年に離婚したが、[[ローマ・カトリック教会]]から﹁"annulment" ︵婚姻無効︶﹂が宣告されたのは1962年11月のことだった<ref name=annul>{{cite news|title=Roman Catholics: The Law's Delay|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,873839-1,00.html|publisher=[[:en:Time Life|Time Life]]|location=New York City|date=February 28, 1964|accessdate=September 4, 2009}}</ref><ref>一方、リーの再婚相手となるスタニスラス・ラジヴィウは、前妻グレース・マリア・コリンとの婚姻自体がローマ・カトリック教会からそもそも﹁"acknowledgement" ︵婚姻承認︶﹂されていなかったので、後述のように。したがって、リーと共に婚姻無効の申立てをする必要がなかった。ちなみに、スタニスラスは最初︵一度目︶の妻 モンレオン伯爵女ローズ︵Rose de Monléon︶とは1945年に離婚したが、婚姻無効が宣告されたのは1958年になってのことだった。</ref>。
1959年3月19日、20歳上のポーランド貴族で英国不動産界で財を成したスタニスラス・ラジウィルと"略式結婚"した。スタニスラスは二度目の妻グレース・マリア・コリン︵Grace Maria Kolin︶と1958年に離婚したが<ref>Lundy, Darryl, ed. [http://thepeerage.com/p990.htm#i9899 "Grace Maria Kolin"]. ''ThePeerage.com'', September 28, 2010</ref>、リー自身もキャンフィールドとまだ依然夫婦だであった1957年からスタニスラス・ラジウィルと交際していた。なお、リーとスタニスラス双方とも敬虔なカトリック信者だったが、キャンフィールドとは1962年と、その後すぐに婚姻無効が宣告されたのは、義兄[[ジョン・F・ケネディ]]のおかげだったとのこと<ref name=ell />。また、不倫関係にあった[[アリストテレス・オナシス]]と結婚するつもりでいたが、程なくして姉ジャクリーンに奪われる形となった<ref name=ell />。その後、スタニスラスとも1974年に離婚が成立した<ref>[http://www.people.com/people/archive/article/0,,20064301,00.html "For Princess Lee Radziwill, It's the End of a Marriage"] "People", July 29, 1974</ref>。スタニスラフとの間に2児をもうけた。
スタニスラフと婚姻中の1962年3月、アメリカの[[ファーストレディー]]となった姉ジャクリーン・ケネディとイギリス、インド・パキスタン訪問に同行する<ref name=ell />。1960年代には、カポーティはじめ[[ルドルフ・ヌレーエフ]]、[[マーゴ・フォンテイン]]、[[セシル・ビートン]]ら社交界のセレブたちと親交し、彼らの勧めもあって[[女優]]としてのキャリアを求め、[[王立演劇学校]]などの教師から演技を習い、カポーティの紹介で1967年に[[シカゴ]]で舞台版﹁[[フィラデルフィア物語]]﹂に出演するが、低い評価しか得られなかった<ref name=nyt>[https://www.nytimes.com/2019/02/16/obituaries/lee-radziwill-dead.html Lee Radziwill, Ex-Princess and Sister of Jacqueline Kennedy Onassis, Dies at 85][[ニューヨーク・タイムズ]]、Feb. 16, 2019</ref>。その後、カポーティ脚本のテレビドラマ版﹃[[ローラ殺人事件]]﹄にも出演したが成功したとは言えず、それ以降は芸能活動から遠ざかった<ref>Clarke, Gerald. ''Capote: A Biography'' (New York: Simon and Schuster, 1988), pages 388–389.</ref><ref name=nyt/>。カポーティとの蜜月も終わりとなり、舌禍によりカポーティが[[ゴア・ヴィダル]]から[[名誉棄損]]で訴えられた際にも証言を拒否している︵ゴアはジャクリーヌ・キャロライン姉妹の継父オーチンクロスと前妻との子で、その縁でケネディ政権の芸術顧問を務めていた︶<ref name=nyt/>。