「レダと白鳥 (レオナルド)」の版間の差分
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[[File:Leda and the Swan 1505-1510.jpg|thumb|180px|{{仮リンク|チェザーレ・ダ・セスト|en|Cesare da Sesto}}版﹃レダと白鳥﹄。]] [[File:Leda and the Swan 1510-1515.jpg|thumb|180px|[[ボルゲーゼ美術館]]版﹃[[レダと白鳥 (ボルゲーゼ美術館)|レダと白鳥]]﹄。]] [[File:Leda Melzi Uffizi.jpg|thumb|180px|[[ウフィツィ美術館]]版﹃[[レダと白鳥 (ウフィツィ美術館)|レダと白鳥]]﹄。]] レダのポーズは鋭い[[コントラポスト]]︵重心が片方の脚にかかっており、腰のラインが肩のラインと反対になっている︶として見ることができるが、ミケランジェロが[[ローマ]]の[[サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会]]の﹃贖いの主イエス・キリスト﹄で普及させた[[マニエリスム]]の蛇行線の前兆としても見ることができる︵身体は垂直軸に沿って巻き上がる︶。おそらく、この革新はレオナルド・ダ・ヴィンチによって選択されたまさにそのテーマによるものである。レダのバランスの取れたポーズは白鳥︵ゼウス︶にとっては肉体的であり、子供たちにとっては母性的な、彼女の二重の魅力を反映している。 59行目:
===ウフィツィ美術館版===
これは﹃[[スピリドンのレダ]]﹄︵{{en|Spiridon Leda}}︶と呼ばれているもので、フィレンツェの[[ウフィツィ美術館]]に所蔵されている。﹁並外れた品質と保存状態の良さ﹂で知られるこの作品は、ロジェール侯爵︵{{fr|marquis de la Rozière}}︶のコレクションで初めて言及された。その後、ロブル男爵︵{{fr|Baron de Roublé}}︶の手に渡り、ルドヴィコ・スピリドン︵{{fr|Ludovico Spiridon}}︶によってパリからローマに移された。[[第二次世界大戦]]中にガロッティ・スピリドン公爵夫人から[[ナチス・ドイツ]]の[[ヘルマン・ゲーリング]]によって買収されたが、1948年に美術史家の{{仮リンク|ロドルフォ・シビエロ|en|Rodolfo Siviero}}によって回収された<ref>Rodolfo Siviero, historien d'art ayant étudié à Florence et à Berlin ; L'opera ritrovata: omaggio a Rodolfo Siviero. Firenze, Cantini,1984.</ref><ref name=IH68>池上英洋、p.68。</ref>。 ===フィラデルフィア美術館版===
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