「レニングラード包囲戦」の版間の差分
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| caption=[[1942年]] 包囲中の[[ネフスキー大通り]]を歩くレニングラード市民達
| conflict=[[第二次世界大戦]]([[独ソ戦]])
| date=[[1941年]][[9月8日]] - [[1944年]][[1月
| place=[[ソビエト連邦]]・レニングラード市(現・[[サンクトペテルブルク]])
| result=ソ連軍の勝利
| combatant1={{DEU1935}}<br />{{FIN}}<br />{{ITA1861}}
| combatant2={{SSR1923}}
| commander1={{Flagicon|DEU1935}} [[ヴィルヘルム・フォン・レープ]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ゲオルク・フォン・キュヒラー]]<br />{{Flagicon|FIN}} [[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]<br />{{Flagicon|FIN}} [[エリック・ハインリッヒス]]
| commander2={{Flagicon|SSR1923}} [[マルキアン・ポポフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[クリメント・ヴォロシーロフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ゲオルギー・ジューコフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[イワン・フェジュニンスキー]]<br />{{Flagicon|SSR1923}}
| strength1=725,000
| strength2=930,000
| casualties1=不明
| casualties2=軍人<br />戦死 332,059<br />行方不明 111,142<br />市民<br />
|}}
'''レニングラード包囲戦'''︵レニングラードほういせん、[[ロシア語]]:{{lang|ru| [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]軍は[[ソビエト連邦]]第2の大都市レニングラード︵現・[[サンクトペテルブルク]]︶を900日近く(872日{{Sfn |ニューズウィーク1991年6月27日|p=11}})にわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後に[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]によって[[英雄都市]]の称号が与えられた。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の後継者の有力候補の一人と == 枢軸軍の侵攻 ==
=== [[ダウガヴァ川|西ドヴィナ川]]突破 ===
レニングラードは1939年当時で319万人の人口を擁し、ソ連第2の大都市であり最大の兵器生産地でもあった。独ソ開戦時の1941年6月22日時点で520の工場群と72万の労働者を有しソ連各地の発電所設備の8割を同市に依存していた。また赤色海軍[[バルト艦隊]]の根拠地でもあり鉄鉱石の輸入を北欧諸国に依存するドイツにとって同都市の占領は経済戦略上不可欠だった。[[アドルフ・ヒトラー]]はレニングラードの占領を作戦の最優先目標とし3つの軍集団のうち[[北方軍集団]]に攻略を命じた。北方軍集団は[[第18軍 (ドイツ軍)|第18軍]]、[[第16軍 (ドイツ軍)|第16軍]]、[[第4装甲軍|第4装甲集団]]の3個軍で構成された。第16軍司令官[[エルンスト・ブッシュ (軍人)|ブッシュ]]将軍、第18軍司令官[[ゲオルク・フォン・キュヒラー|キュヒラー]]将軍は熱狂的なナチス党員であり、レニングラード占領はイデオロギー的闘争の側面が大きく、ヒトラーは司令官達を慎重に選んだ。開戦直前、ヒトラーは北方軍集団司令部を訪れ、﹁これは過去24年間、ロシア人を支えてきたシンボルだ。戦闘での敗北はスラヴ人種の精神を萎えさせるだろう。だが、レニングラード失陥は完膚なきまでの崩壊を引き起こすだろう。﹂と語り、レニングラード攻略の重要性を強調した。
バルト諸国からレニングラードに至る広大な空間には赤軍の縦深防御 === スターリン線突破 ===
西ドヴィナ川右岸の橋頭保は拡大され、レープはスターリン線の突破に再び装甲兵力を用いた。7月2日、ラインハルトが[[オストロフ]]を落とした。赤軍は機械化部隊をオストロフにむけたが、待ち伏せていたドイツ軍の榴弾砲部隊に叩かれ、140両の戦車を破壊された。7月8日、[[プスコフ]]を占領してスターリン線に穴を開け、7月11日、[[ペイプシ湖|チュード湖]]を抜けて、ブリュッサ川の橋梁を確保した。ラインハルトは兵士を鼓舞して、さらに進撃し、7月13日、レニングラードの玄関である[[ルーガ川|ルーガ河]]に橋頭保を確保した。赤軍の守備隊はあまりの速さに対応出来ず、その神速さは偵察機がラインハルトの装甲部隊を味方と見間違えるほどだった。彼らは三週間で800キロ進撃し、レニングラードまで110キロの地点に迫っていた。しかし他の諸軍は進撃が難航し、第18軍は[[ナルヴァ]]の赤軍陣地に足止めされ、マンシュタインは地図に == 赤軍の防衛体制 ==
=== 開戦の頃 ===
開戦前バルト艦隊司令長官[[ヴラジーミル・トリーブツ|ウラジーミル・トリブツ]]海軍中将はドイツ人労働者の退去と国境での偵察情報からドイツ軍の侵攻を察知しモスクワの海軍人民委員[[ニコライ・クズネツォフ]]提督に戦闘警戒命令の発令を迫った。その日のうちに[[バルチック艦隊|バルト艦隊]]、[[黒海艦隊]]、[[北方艦隊|北洋艦隊]]に第2種戦闘警戒命令が発令されたがトリブツの求めた第1種戦闘警戒命令は拒否された。1941年6月22日にようやく国防人民委員から独ソ国境付近に布陣していたソ連軍に第1種戦闘警戒命令が発令されたがすでにドイツ軍の侵攻ははじまっていた。バルト地域を防衛する北西方面軍は3方面軍の中で最も弱く、その戦力は3個軍、2個機械化軍団に過ぎなかった。西ドヴィナ川の橋梁爆破を命じられた第11軍は爆破する間もなく後退し、北西方面軍司令部は通信の体系的な混乱と戦力不足から組織的な反撃を実施出来なかった。 === ルガ防衛線 ===
開戦後すぐに、第2防衛線を[[ルーガ川|ルガ川]]沿いに造ることが決定され、老若男女を問わず数十万のレニングラード市民が動員されて北方の[[ナルヴァ]]、[[キンギセップ]]、[[ルーガ (レニングラード州)|ルガ]]、南方の[[イリメニ湖]]畔の{{仮リンク|シムスク|en|Shimsk}}に至る200マイルに地雷原、対戦車壕、陣地などから成るルガ防衛線の建設が進められた。そこには市民から募った多くの義勇軍部隊も配備された。ルガ防衛線はドイツ軍のマンシュタインの部隊に大きな損害を与えるなどしてドイツ軍の進攻を7月上旬から8月上旬までの約1ヶ月停止させたが、8月13日にキンギセップやイリメニ湖のすぐ北の[[ノヴゴロド]]が陥落して、ルガ防衛線は突破された<ref>包囲されたレニングラード 上 P.309 - 344</ref>。 === レニングラードの包囲 ===
<!-- === ヴォロシーロフ赴任 === 開戦前バルト艦隊司令長官[[ヴラジーミル・トリーブツ|ウラジーミル・トリブツ]]海軍中将はドイツ人労働者の退去と国境での偵察情報からドイツ軍の侵攻を察知しモスクワの海軍人民委員[[ニコライ・クズネツォフ]]提督に戦闘警戒命令の発令を迫った。その日のうちにバルト艦隊、黒海艦隊、北洋艦隊に第2種戦闘警戒命令が発令されたがトリブツの求めた第1種戦闘警戒命令は拒否された。1941年6月22日にようやく国防人民委員から独ソ国境付近に布陣していたソ連軍に第1種戦闘警戒命令が発令されたがすでにドイツ軍の侵攻ははじまっていた。バルト地域を防衛する北西正面軍は3正面軍の中で最も弱く、その戦力は3個軍、2個機械化軍団に過ぎなかった。西ドヴィナ川の橋梁爆破を命じられた第11軍は爆破する間もなく後退し、北西正面軍司令部は通信の体系的な混乱と戦力不足から組織的な反撃を実施出来なかった。1941年7月10日、スターリンはレニングラード防衛のため、北西正面軍、北部正面軍、北洋艦隊、バルト艦隊を指揮下に置く北西戦域軍総司令部を設置、クリメント・ヴォロシーロフ元帥を司令官とした。ヴォロシーロフはスターリンの求めた縦深的な防御体系の構築を実施せず、ルーガ河の一線に全ての戦力と資材を投入した。数十万の市民が防御施設の建設工事に動員され、ドイツ軍の来襲までに木材障害物190km、鉄条網635km、対戦車壕700km、[[トーチカ]]5,000か所、[[塹壕]]25,000kmの防御施設が完成した。また兵力不足を補うため、市民や共産党員からなる民警大隊、労働者大隊を多数編成したが、寄せ集めの兵力が機能することはなかった。縦深的な防御体系の構築を怠り、正規軍の再編成を後回しにして、寄せ集めの義勇軍を多数編成したヴォロシーロフの対応は破滅的な結果をもたらすことになる。北部正面軍参謀長ニキショフ少将は、寄せ集めの部隊でドイツ軍の進撃を止められるわけがなく、全く筋が通らないとヴォロシーロフを厳しく批判している。スターリンもヴォロシーロフに失望し、彼を無視して北西正面軍参謀長ニコライ・ヴァトゥーチン中将に機械化兵力での反撃を命じた。赤軍への食料・物資補給の最高責任者だったアナスタス・ミコヤンは、大量の食料を積んだ貨物列車をプスコフに送った。プスコフは装備と補給の主要貯蔵基地として機能していたが、列車の到着前にドイツ軍が同市を占領した。ミコヤンは独自の権限で、列車の行き先をレニングラードに変えたが、ヴォロシーロフは強引に介入し、貨物列車をノブゴロドで止めた。レニングラード市民数十万人分の食料を積んだ貨物列車はヴォロシーロフの介入が原因で、市内に届くことはなかった。マンシュタインの反撃でイリメン湖で攻勢に転じた赤軍が敗れると、ヴォロシーロフは市内の女性と若者を動員、義勇兵大隊をさらに編成し、ルーガ河防衛線に投入したが効果はなかった。エストニアのタリンが陥落すると、バルト艦隊はタリン港から脱出を試みたが、ヴォロシーロフはなかなか撤退許可を出さなかった。クズネツォフ提督はヴォロシーロフを無視して、スターリンに直接撤退許可を得た。しかし撤退が遅れたバルト艦隊は、ドイツ空軍の格好の標的となり、クロンシュタット港への退避中に多くの艦船が沈められた。狼狽したヴォロシーロフはバルト艦隊に自沈を命じ、沿岸水域の封鎖を試みた。当時バルト艦隊には338門もの火砲と40隻以上の艦船が稼働していた。またドイツ海軍に港へ突入する意図はなく、彼らの思惑はバルト艦隊を港に封じることにあった。9月8日にはシュリッセルブルクが陥落、全ての連絡路・補給路が断たれ、不安を募らせたスターリンはヴォロシーロフと政治委員ジダーノフを叱責した。ヴォロシーロフとジダーノフはバターエフ倉庫で一括管理された食料を、分散備蓄するよう命じられていたが、作業は延期を重ね、ドイツ軍の空爆が全ての食料備蓄を焼き払った。相次ぐ失策に激怒したスターリンは、ついにヴォロシーロフを解任、名将として知られるゲオルギー・ジューコフ上級大将にレニングラードの立て直しを命じた。--> ルガ防衛線を突破したドイツ軍は西からレニングラードに迫るとともに、レニングラードの南方でも東に進んだ後、北に向かい8月30日に交通の要衝のムガ(レニングラードの南東)を陥落させ、9月 8日にはラドガ湖畔のシュリッセルブルクを制圧した。
レニングラード防衛の軍事部門の最高司令官は[[クリメント・ヴォロシーロフ|ヴォロシーロフ]]元帥で、7月10日に着任して以来︵前任のパヴロフ将軍はモスクワに戻り即座に銃殺された<ref>包囲されたレニングラード 上 P.313</ref>。︶、2ヶ月にわたり赤軍を指揮してきたが、ドイツ軍の攻撃の前に退却が続き、シュリッセルブルクの陥落によりレニングラードの包囲の環を閉じられてしまった。<!-- 9月11日 -->レニングラード近郊︵南西方向︶のクラスノエ・セロの戦いではヴォロシーロフは赤軍[[ロシア海軍歩兵 === バルト艦隊の
ルガ防衛線が突破されたことでバルト艦隊の基地があった[[タリン]]は前線の後方に取り残される状況になった。8月26日にバルト艦隊のタリン脱出命令が出され、190隻余りが[[コトリン島]]の[[クロンシュタット]]に向かったがドイツ軍が敷設した機雷と砲爆撃のため、50隻余りが失われた<ref>包囲されたレニングラード 上 P.376 - 413</ref>。しかし、その後のレニングラードの攻防戦において脱出に成功した艦船の艦砲は大きな役割を果たすことになる。 === ジューコフ赴任とレニングラード市街への正面攻撃 ===
規律の回復に定評のあるジューコフの赴任︵9月13日︶は、レニングラードの戦況を劇的に改善させた。<!-- ジューコフはまずヴォロシーロフのだしたバルト艦隊の自沈命令を取り消した。艦隊の強力な火砲群はドイツ軍の阻止に大きく貢献することになる。-->ジューコフはレニングラード市内を6つの防衛セクターに分割すると、防御体系を組み直し、砲兵火力の支援を充実させた。砲兵火力の集中は目覚ましい成果をあげ、365ミリ砲一門で戦車35両、砲 レニングラード防衛を適切に組織したのはジューコフの偉大な功績だが、9月18日からドイツ軍の装甲部隊(第4装甲軍団)がモスクワ方面に転進し始めた代わりにドイツ軍歩兵がレニングラード周辺の包囲攻撃陣地構築に着手する姿が目撃されているにもかかわらず、同日[[ロモノソフ|オラニエンバウム]]の疲弊した第8軍にドイツ軍の攻撃を命ずるなど不要な正面攻撃を多用し多大な損害を出し封鎖の突破に支障をきたした<ref>レニングラード封鎖 P.166 - 167</ref>。
== 包囲戦 ==
[[ファイル:Siege of Leningrad Eastern Front 1941 06 to 1941 12.png|thumb|right|300px|1941年の状況。ドイツ軍がラドガ湖に到達したことでレニングラードへ通じる陸上の連絡線が遮断された。]] === 飢餓計画 ===
レニングラードを包囲した北方軍集団は、まず住民の生活能力を断つため、ガス・水道・電力の供給施設、食料倉庫への砲爆撃を開始した。エストニアの飛行場から出撃したドイツ空軍が、最初の爆撃で6000発以上の焼夷弾を投下し、1000ポンドの高性能爆弾を48発投下した。給水施設と市内の全ての食料を備蓄していたバターエフ倉庫が、破壊された。バターエフ倉庫の喪失は、市内の食料事情を急激に悪化させた。9月8日、ドイツ軍参謀本部はミュンヘン栄養研究所のエルンスト・ツィーゲルマイヤー教授と会合し、市内の民間人を餓死させるにはどれだけの時間封鎖が必要なのか見積もりを求めた。レニングラードの人口、市内に備蓄された食料の量、冬の気温など、大量のデータがツィーゲルマイヤーに渡された。ツィーゲルマイヤーは封鎖を一か月続ければ、市内の食料事情は極度に悪化し、一日のパン配給量が250グラムに落ちると予測した。冬季に封鎖を継続すれば市内は飢餓状態に陥ると結論を出し、市民を市内に留めることが重要であると勧告した。ゲッ レニングラード市民への飢餓作戦は科学的な手法で計画的に実施された。ヒトラーは新たな総統訓令を発令した。﹁総統はサンクトペテルブルクを地表から削りとることを決断した。ソビエト・ロシアの敗北後は、この都市が将来に存在するための理由は跡形もなくなる。この都市を隙間もなく封鎖し、あらゆる口径の砲火と絶え間のない空爆によって、これを跡形もなく破壊すべし。たとえこれによって降伏を要請する声が出てくるようになっても、これは拒否される。この戦争においてわれわれは、たとえ一部にせよ、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。﹂
北方軍集団は大規模な包囲陣地を建設し、周囲に塹壕、監視所、射撃陣地、砲撃陣地を設置、防御拠点用のトーチカや掩蔽壕も複数建設された。包囲陣地の後方では、工兵が連絡道路と食料・物資の貯蔵地を建設し、長期的な包囲戦の準備が整えられた。レープは[[ガッチナ]]に司令部を置き、市内への砲撃を指揮した。ウリ―ツクとヴォロダルスキーの間の集落に、3個砲兵連隊を配置、毎日午前10時~午後7時にかけて、2時間毎に休憩を取りながら砲撃が実施された。9月末までに市内に5364発の砲弾が撃ち込まれた。脱出を図る民間人は即刻射殺が決まったが、北方軍集団司令部は民間人を近距離で射殺する兵士への心理的影響を懸念し、陣地の前方には地雷原を設置、必要な場合は砲兵隊で対処することを決定した。兵士が見ている状況下での民間人殺戮は出来るだけ避けなければならないとレープは語っている。多数の[[心理カウンセラー]]が陣地に常駐し、同時に[[ナチズム|ナチイデオロギー]]の思想教育が強化され、[[ウンターメンシュ|劣等人種]]に対する同情は不要であると喧伝された。砲兵隊には兵士が近距離で民間人を射殺する事態を避けるため、市内を厳しく監視し、市内からでた早い段階で正確に処理することが求められた。これらの工夫にも === 飢餓の発生 ===
<!-- {{出典の明記|date=2017年5月|section=1}} -->
連絡線の遮断によってレニングラードへの補給はほぼ途絶した。9月2日、市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められた。9月8日の空襲ではバターエフ倉庫に貯蔵してあった大量の穀類や砂糖が焼失した。9月12日には、食料の残量は以下の通りと試算された。 * 穀類・小麦粉 35日分
* えん麦・粉物 30日分
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* 油脂 45日分
* 砂糖・菓子類 60日分
同日、配給の再度の削減が実施され、肉体労働者は1日にパン500g、労働者と子供は300g、その他の市民は250gと定められた。陸軍と[[バルチック艦隊]]は備蓄を有していたが十分ではなかった。ラドガ湖に配備されていた河川艦隊は装備も十分ではなく、しばしばドイツ軍の空襲を受け、9月には穀物輸送船が撃沈された。輸送船は後に引き上げられ、濡れた穀物もパンを焼くのに使われた。小麦粉を使い果たした後は、セルロースや綿の実の絞りかすが食用に供された。馬の飼料用のえん麦も食用に回された。肉類も底をつき、内臓や皮革が料理された。市内のあらゆる空き地には野菜が植えられた。市内に残った赤軍の状況も深刻だった。モスクワ防衛に呼ばれたジューコフは︵10月7日にモスクワ到着︶、[[イワン・フェジュニンスキー|フェジュニンスキー]]少将を後任とした。しかしフェジュニンスキーは後任を辞退し、ホージン中将を推薦した。将官達は封鎖されたレニングラードの指揮をとることに乗り気ではなかった。ジダーノフはヴォロノフ砲兵大将に司令官就任を要請したが、ヴォロノフは国防人民委員代理の職務を理由に辞退した。やむを得ずジダーノフは、ホージン中将に話をもっていった。ホージンも第54軍の指揮を理由に、辞退したが、[[スタフカ]]はホージンを正式に後任とした。ネフスキー橋頭保を守るネヴァ作戦集団は第54軍との合流を命じられたが、支援を欠いた渡河作戦はドイツ軍砲兵隊の恰好の餌食となり、一方的に殺戮された。その後も封鎖の打破を試みる、ネヴァ河での攻勢はことごとく失敗に終わり、死体の山が積み上げられた。相次ぐ敗戦と食料事情の悪化は規律を再び低下させ、市内では兵士の逃亡や盗難が相次いだ。ジダーノフもホージンもな 軍人的資質に欠けるジダーノフはジューコフの始めた欠陥のある戦術を継続し、ネフスキー橋頭保から封鎖を突破しようと兵力を送るが大半が死傷し、10月に橋頭保に渡った看護師エレーナ・スヴェトコーワが手当てし、更に適切な治療のためにネヴァ川の向こう岸に戻そうとした重症者の内、幸運にも戻れた少数者の一人に未来のロシア大統領[[ウラジーミル・プーチン]]の父親(第86歩兵師団第330連隊所属)がいた。<ref>レニングラード封鎖 P.190 - 191</ref>。
9月末には石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木であった。10月8日には市の北方にある森林での木材の伐採が計画されたが、機材も作業施設もなく、10月24日までに木材伐採計画の1%が実施できたのみであった。電力供給も不足し、電力の使用は軍の司令部や地域委員会、防空拠点などを除き厳禁とされた。大部分の工場が操業を停止し、11月には全ての公共交通機関が運行を停止した。1942年の春には一部の[[路面電車]]が運行を再開したが、[[トロリーバス]]とバスは終戦まで再開しなかった。 [[ファイル:Anti aircraft Leningrad 1941
冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。植物学者の[[ニコライ・ヴァヴィロフ]]の研究スタッフの1人は、食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。[[ターニャ・サヴィチェワ]]という当時12歳の少女は、12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している︵[[ターニャ・サヴィチェワ#ターニャの日記|ターニャの日記]]︶。レニングラードの街角は死体で溢れた。 === 命の道 ===
{{Main|{{仮リンク|命の道|ru|Дорога жизни}}}}
[[ファイル:LocomotiveLeningradBlocade.jpg|thumb|left|レニングラードへ食糧を輸送する氷上列車]]
ドイツ軍はレニングラードの包囲をさらに強化するため、レニングラードの南東部にある鉄道の拠点の[[チフヴィン]]を攻撃し11月8日に占拠した。チフヴィンの陥落により内陸部からラドガ湖への輸送ルートが遮断され、レニングラードは危機に陥ったが赤軍は1ヶ月後にここを奪回し輸送ルートの維持に成功した<ref>ライフ P.112</ref>。
11月20日、ラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が氷上を通ってレニングラードへ物資を送り届けた。その後トラックによる輸送も可能となった。氷上の連絡路は'''﹁命の道﹂'''︵{{lang|ru|Дорога жизни}} <small>ダローガ・ジーズニ</small>︶と呼ばれた。湖の対岸から市内へ物資が運び込まれ、市民の脱出も可能となった。命の道は1942年4月24日までの152日間利用可能であった。この間に市民51万4千人、負傷した兵士3万5千人がレニングラードから脱出し、重要な産業設備も運び出された。命の道は対空砲と戦闘機によって防衛されたが、ドイツ軍の砲撃と空襲による脅威にさらされ続け、危険は高かった。人々は皮肉を込めてこれを﹁死の道﹂と呼んだ。1942年の夏にはラドガ湖の湖底を通る長さ29kmの石油パイプライン﹁命の動脈﹂が敷設された。冬になると命の道は再開した。12月20日から馬の往来が始まり、12月24日から自動車輸送も始まった。氷上鉄道の建設も行われた。 77 ⟶ 102行目:
=== 1942年のレニングラード ===
[[ファイル:Leningrad Siege May 1942 - January 1943.png|thumb|left|イスクラ作戦前のレニングラード周辺図]]
レニングラードは冬季の包囲戦を耐え抜いたが、依然戦況は絶望的だった。守備軍は栄養不足に苦しみ、赤痢が流行、規律と士気は最低となり、兵士たちの状態は極めて劣悪となっていた。モスクワでの勝利に自信を得たスターリンは全戦線での反撃に転じ、レニングラード解放を目指す攻勢を開始した。しかし兵力と補給を欠いた攻勢は失敗に終わり、ウラソフ中将が指揮する第2突撃軍が包囲された。一方ドイツ軍はモスクワ方面での敗北により、司令官達が一斉に更迭された。レープ元帥も更迭となり、第18軍司令官[[ゲオルク・フォン・キュヒラー|キュヒラー]]上級大将が北方軍集団司令官に就任した。キュヒラーはバルト艦隊の火力が、レニングラード防衛の要になっていることを見抜き、バルト艦隊を標的とする航空作戦を開始した。1942年4月4日、大規模な戦闘機と爆撃機の編隊が、バルト艦隊を強襲し、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻を無力化した。5月には包囲した第2突撃軍を殲滅、ウラソフ中将を投降させた。1942年6月上旬、ホージン中将が更迭され、[[レオニード・ゴヴォロフ|ゴヴォロフ]]中将がレニングラード方面軍司令官に就任した。砲兵の権威であるゴヴォロフは、兵士の高い死傷率は適切な砲兵支援を欠いたからだと考え、砲兵火力の集積に全力を注いだ。観測所を複数設置し、装備弾薬を大幅に増強、砲兵隊の打撃力を強化した。またゴヴォロフは、レニングラード市内の[[オーケストラ|交響楽団]]を全面的に支援した。孤立した都市では、交響楽団の演奏が兵士や市民の心の支えになっていた。その事をよく心得ていたゴヴォロフは、演奏を妨害するドイツ軍の砲撃に対する予防措置として、突風作戦を開始、演奏前にドイツ軍の砲兵陣地を徹底的に砲撃で叩いた。また市内にスピーカーを設置し、兵士が演奏の中継を聞けるようにした。ゴヴォロフの取り組みは、兵士の士気を劇的に回復させた。
1942年8月、クリミア半島を落としたマンシュタイン元帥の増援部隊がレニングラードに到着した。マンシュタインは空軍と砲兵の総力を挙げて、赤軍の前線陣地を叩き、凍結したラドガ湖の補給路を完全に遮断する計画を立てた。スタフカはゴヴォロフ軍にラドガ湖方面で攻勢を実施させ、マンシュタインの攻勢を牽制する計画で対応した。ゴヴォロフはドイツ軍陣地を2時間砲撃した後、ラドガ湖方面で東に布陣していた赤軍部隊との合流を試みた。封鎖打破の危険性を察知した[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|国防軍最高司令部]]は狼狽し、ヒトラーはマンシュタインに攻勢を中止し、ゴヴォロフ軍の撃退を命じた。スタフカの作戦は成功し、マンシュタインは攻勢中止を余儀なくされた。ゴヴォロフも攻勢開始地点に後退したが、作戦の成功は赤軍の兵士達に大きな自信を与えた。ゴヴォロフはレニングラード解放の鍵は、ドイツ軍の砲兵陣地を狙った正確な対砲兵射撃にあると考えていた。そのためには巧妙に隠された、ドイツ軍砲兵陣地の正確な場所を把握する必要があった。そこでゴヴォロフは囮を使い、北方軍集団司令部、飛行場、鉄道駅を標的とする奇襲砲撃を実施した。ドイツ軍砲兵隊は即座に応戦し、16の砲兵陣地が一斉に火を噴いた。しかしドイツ軍砲兵の反撃は、砲兵陣地の正確な位置を見事にさらけだした。 上記のように1942年の赤軍の数回の攻勢はいずれも失敗に終わり、一方のドイツ軍の攻勢計画も頓挫した。このため両軍とも大きな損害を出したものの、戦線に大きな変化は生じなかった。
=== イスクラ作戦(1943年) ===
{{main|イスクラ作戦}}
[[スタフカ]]は[[スターリングラード攻防戦|スターリングラード]]での反攻作戦にあわせて、ゴヴォロフにレニングラード解放攻勢の詳細な計画を求めた。ゴヴォロフはシュリッセルブルク回廊に前進し、ドイツ軍の東側に展開するヴォルホフ方面軍と合流して封鎖を打破する計画を立てた。攻勢に備えて4500門の火砲が集積された。ゴヴォロフの計画はスタフカに承認され、[[イスクラ作戦|イスクラ︵火花︶作戦]]と命名された。作戦を調整するため最高司令官代理ジューコフ元帥も派遣された。入念な準備の後、1943年1月12日、イスクラ作戦が開始された。まず、ありとあらゆる口径の火砲が、特定したドイツ軍の全砲兵陣地を徹底的に叩いた。ゴヴォロフが指揮するレニングラード方面軍はネヴァ河対岸を押さえると、前進を開始した。ドイツ軍は要塞化したシニャーヴィノ丘陵で前進を阻んだが、ゴヴォロフは正面攻撃を避け、迂回を命じた。ヴォルホフ方面軍は要塞化された第8労働者団地で激しい抵抗を受けた。しかしゴヴォロフの対砲兵射撃が大きな効果をあげ、先制射撃で叩かれたドイツ軍砲兵陣地は機能しなかった。1月15日、凍結したラドガ湖を経由して、赤軍のスキー旅団がシュリッセルブルクに突入した。二つの方面軍は合流まで800メートルの距離まで接近し、ゴヴォロフは最期の障害である第5労働者団地の堡塁に攻撃を命じた。2時間の激戦の末、ドイツ軍はシニャーヴィノ丘陵に撤退し、ついに二つの方面軍が合流に成功した。1943年1月17日、レニングラード市当局はラジオでレニングラードの解放を宣言、市民達は狂喜乱舞した。 この頃、[[スターリングラード攻防戦|スターリングラード]]でも赤軍は勝利し(1月31日)、[[独ソ戦]]は大きな転換期を迎えた。
=== 解放(1944年) ===
封鎖を打破したとはいえ、北方軍集団は依然として強大であり、大多数の包囲陣地を維持していた。<!-- 北方軍集団を強力な陣地群から追い出すには、戦力も時間も足りなかった。デビット・グランツは包囲網にひびをいれた程度だと表現している。-->赤軍は奪還した地域の確保に全力を注ぎ、新しい補給線を急ピッチで建設して、大規模な食料を市内に送り込んだが、イスクラ作戦で確保した狭い回廊はドイツ軍の砲爆撃の標的となり、不完全ながらレニングラードの包囲は継続されていた。<!-- しかし時間が味方をしたのは赤軍だった。-->しかし、南方では[[クルスクの戦い]]とその後の赤軍の攻勢の前にドイツ軍は退却を続け、[[ドニエプル川の戦い|ドニエプル川]]の西のキエフまでも赤軍に奪還されていた。赤軍は1943年9月からゴヴォロフらによりレニングラードの解放作戦の検討を進めた。作戦は[[ロモノソフ|オラニエンバウム]]︵レニングラードの西側の赤軍橋頭保︶、プルコヴォ︵レニングラードのすぐ南︶、[[ノヴゴロド|ノブゴロド]]︵レニングラードの南東方向、イリメニ湖のすぐ北︶から開始することが決定され<ref>包囲されたレニングラード 下 P.458</ref>、作戦に備えて膨大な量の火力集積が開始された。21000門の火砲、1500以上のロケット砲、600門の対空砲が攻勢用に集められ、開戦以来最大規模の砲兵火力集積を実現させた。<!-- 1943年11月から、レニングラードの西側のオラニエンバウムで孤立しながらもドイツ軍と対峙していた第8軍にも弾薬と補給物資が送られた。-->北方軍集団司令官キュヒラーは、赤軍の大規模攻勢を察知していた。後方の予備陣地であるパンテル・ラインに部隊を移す準備を整えたが、ヒトラーは依然としてレニングラードの攻略をあきらめていなかった。キュヒラーは占領地の人的資源が赤軍に渡ることを恐れ、民間人を強制的にパンテル・ラインへ連行した。レニングラードの完全解放、レニングラード州の奪還、北方軍集団の撃滅を目標とする<!-- 戦略攻勢レニングラード・ノヴゴロド-->解放作戦︵レニングラード・ノヴゴロド攻勢︶にはレニングラード、ヴォルホフ、第2バルトの3方面軍に、長距離航空艦隊とバルト艦隊が加わり、125万の兵士が参加して、イスクラ作戦から約1年後の1944年1月15日<!-- レニングラード・ノヴゴロド-->に開始された。1マイルあたりの砲配置数は320門に達し、史上空前規模の集中砲火がドイツ軍陣地に降り注いだ。2時間30分で、50万発の砲弾が撃ち込まれた。ドイツ第18軍と第16軍は壊滅的打撃を受け、北方軍集団は戦闘力を喪失して敗走した。赤軍は封鎖を完全に解放、レニングラード州全域を奪還、[[トヴェリ州|カリーニン州]]西部、エストニアまで兵を進めた。ドイツ軍はこの攻勢でレニングラードから280キロ押し返され、攻守は完全に逆転した。今度はドイツ軍が絶望的な防衛戦を強いられた。 1944年1月27日、レニングラードでは包囲からの解放を祝う祝砲が轟いた。1941年9月8日にシュリッセルブルクが陥落して包囲が始まってから872日目であった<ref>包囲されたレニングラード 下 P.474</ref>。
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== 題材とした作品 ==
=== 映画 ===▼
* 『[[レニングラード攻防戦I]]』 - [[1974年]] ソ連 (監督:[[ミハイル・エルショフ]])▼
* 『[[レニングラード攻防戦II]]』 - [[1977年]] ソ連 (監督:[[ミハイル・エルショフ]])▼
* 『[[レニングラード大攻防1941]]』 - [[1985年]] ソ連 (監督:[[ヴィクトル・アリストフ]])▼
* 『[[レニングラード 900日の大包囲戦]]』 - [[2009年]] ロシア・イギリス (監督:[[アレクサンドル・ブラフスキー]])▼
ほか[[セルジオ・レオーネ]]が『[[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ]]』に続く作品としてこのレニングラード包囲戦を題材とした[[映画]]を構想していたが、逝去のため実現しなかった。▼
=== 楽曲 ===▼
* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番]]は、包囲下のレニングラードで作曲され、『レニングラード交響曲』と呼ばれている。▼
* [[ビリー・ジョエル]]の曲『レニングラード』は、レニングラード包囲戦で父親を失ったロシア人の少年ヴィクトールを主人公とするものである。▼
* イタリアのバンド、[[ダーク・ルナシー]]のアルバム『The Diarist』は、全編がレニングラード包囲戦を扱ったコンセプトアルバムである。▼
=== 文献 ===
* 『レニングラード』 ニコライ・チーホノフ著、前芝確三訳 創元社 (1952年)
* 『封鎖下のレニングラード』 [[ドミトリー・パヴロフ]]著、藤木伸三、滝沢一郎訳 大陸書房 (1971年)
* 『攻防900日:包囲されたレニングラード』 各・上下、[[ハリソン・ソールズベリー]]著、大沢正訳 早川書房 (1972年)
* 『攻防900日
* 『グラフィックアクション 第2次大戦 第6号「レニングラード攻防戦」』
* 『独ソ戦:この知られざる戦い(燃える東部戦線:独ソ戦の全貌)』
* 『900日の包囲の中で』 ユーリ・イワノフ著、宮島綾子訳 岩崎書店 創作児童文学(1982年) ISBN 4-265-92727-0
* 『レニングラード物語:華麗なる都の250年』 NHK取材班
* 『封鎖・飢餓・人間:1941-1944年のレニングラード』 アレーシ・アダーモヴィチ、ダニール・グラーニン共著、宮下トモ子訳 新時代社 (1986年)
* 『歴史群像 アーカイブ Vol.7「独ソ戦」』 学習研究社 (2009年)
* 『レニングラード封鎖:飢餓と非情の都市1941-1944』 マイケル・ジョーンズ著、松本幸重訳 白水社 (2013年)
* 『戦火のシンフォニー―レニングラード封鎖345日目の真実―』 [[ひのまどか
* 『レニングラード日記』 ヴェラ・ミハイロヴナ・インベル(Vera Inber, 1890-1972)、ハル・ニケイドロフ訳、柘植書房新社(2023年)
* 『ライフ 第二次世界大戦史 「独ソの激闘」』、ニコラス・ベサル著、[[加登川幸太郎]] 監修、横田恒 翻訳、タイム ライフ ブックス
* {{Cite magazine|title = レーニンの名も風前のともしび [[ニューズウィーク]]日本版(1991年6月27日号) |chapter = |newspaper = |publisher = TBSブリタニカ |date = 1991-6-27 |ref = {{Sfnref |ニューズウィーク1991年6月27日}} }}
=== 小説 ===
* 『[[戦争は女の顔をしていない]]』 [[スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ]]著、[[三浦みどり]]訳、群像社、岩波現代文庫(1985年)
* 『卵をめぐる祖父の戦争』 [[デイヴィッド・ベニオフ]]著、田口俊樹訳 早川書房 (2010年) ISBN 978-4-15-001838-2
▲=== 映画 ===
* 『[[レニングラード攻防戦 (映画)|レニングラード攻防戦]]』『[[レニングラード攻防戦II/攻防900日]]』 - 1974年 ソ連 (監督:[[ミハイル・エルショフ]])
* 『[[脱走特急 (2019年の映画)|脱走特急]]』 - 2019年 ロシア (監督:[[フェドール・ポポフ]])
* 『[[戦争と女の顔]]』 - 2019年 ロシア (監督:[[カンテミール・バラーゴフ]])
▲* 『[[セイビング・レニングラード
▲=== 楽曲 ===
▲* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第7番]]は、包囲下のレニングラードで作曲され、『レニングラード交響曲』と呼ばれている。
▲* [[ビリー・ジョエル]]の曲『レニングラード』は、レニングラード包囲戦で父親を失ったロシア人の少年ヴィクトールを主人公とするものである。
▲* イタリアのバンド、[[ダーク・ルナシー]]のアルバム『The Diarist』は、全編がレニングラード包囲戦を扱ったコンセプトアルバムである。
== 出典 ==
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{{War-stub}}
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{{DEFAULTSORT:れにんくらあとほういせん}}
[[Category:市街戦]]
[[Category:第二次世界大戦下のロシア]]
[[Category:サンクトペテルブルクの歴史]]
[[Category:レニングラード州|ほういせん]]
[[Category:第二次世界大戦の包囲戦]]
[[Category:1941年の戦闘]]
[[Category:1942年の戦闘]]
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[[Category:1943年のソビエト連邦]]
[[Category:1944年のソビエト連邦]]
[[Category:独ソ戦の作戦と戦い]]
[[Category:ゲオルギー・ジューコフ]]
[[Category:クリメント・ヴォロシーロフ]]
[[Category:カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]
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