「レニングラード包囲戦」の版間の差分
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=== ジューコフ赴任とレニングラード市街への正面攻撃 ===
規律の回復に定評のあるジューコフの赴任︵9月13日︶は、レニングラードの戦況を劇的に改善させた。<!-- ジューコフはまずヴォロシーロフのだしたバルト艦隊の自沈命令を取り消した。艦隊の強力な火砲群はドイツ軍の阻止に大きく貢献することになる。-->ジューコフはレニングラード市内を6つの防衛セクターに分割すると、防御体系を組み直し、砲兵火力の支援を充実させた。砲兵火力の集中は目覚ましい成果をあげ、365ミリ砲一門で戦車35両、砲12門、一個歩兵大隊、弾薬列車一本を撃破した。次にジューコフは規律の回復に全力を注いだ。ヴォロシーロフの稚拙な指揮により、各部隊はバラバラに戦い、相次ぐ敗戦は士気を低下させ、許可なく防衛線を後退する兵士が相次いだ。ジューコフは許可なく防衛線を後退した兵士、将校、政治委員は即刻射殺すると布告。後退中だった各軍に反撃を命じ、拒否した指揮官は即座に更迭した。<!-- オラニエンバウムに孤立した第8軍には死守を命じ、ネヴァ河対岸のネフスキー橋頭保に大規模な戦力を送り込み、レニングラードへの接近を阻止した。ジューコフの目覚しい軍事的手腕と非情なまでの措置は、浮足立つレニングラードを立て直し、900日の包囲に耐え抜く基盤を作り上げた。デビッド・グランツ は﹁ジューコフの鉄の意志がネヴァ河の奇跡をおこした。﹂と評価し、ジョン・エリクソン は﹁一月も経たずに最悪の危機を克服し、防御を立て直し、士気をとりもどした。﹂と評価している。一方でエヴァン・モーズリーは﹁ドイツ軍はモスクワ攻勢にむけ北方軍集団から装甲軍をひきぬき破壊から封鎖へと方針を展開している。ネヴァ河の作戦は無用な犠牲を招いた。と批判している。-->ジューコフが到着して数日後、ドイツ軍はレニングラード市街の攻略をめざして、市の近郊のプルコヴォ︵レニングラード中心部から 17Km 現[[プルコヴォ空港]]がある一帯︶等で大規模な攻撃を開始した。しかし、赤軍の頑強な抵抗のため防衛線を突破できなかった。一方、ドイツはモスクワ戦線への増援のため、北方軍集団の兵力の一部を引き抜いた。赤軍の抵抗による損失やモスクワ増援により戦力が低下したドイツ軍はレニングラードに対する方針を力による制圧から、包囲による飢餓作戦へと変更した。ジューコフはモスクワ防衛のために呼ばれ、10月7日にモスクワに戻った<ref>包囲されたレニングラード 下 P.79 - 105</ref>。 レニングラード防衛を適切に組織したのはジューコフの偉大な功績だが、9月18日からドイツ軍の装甲部隊(第4装甲軍団)がモスクワ方面に転進し始めた代わりにドイツ軍歩兵がレニングラード周辺の包囲攻撃陣地構築に着手する姿が目撃されているにもかかわらず、同日オラニエンバウムの疲弊した第8軍にドイツ
== 包囲戦 ==
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