「ロベルト・プロシネチキ」の版間の差分
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|血液型=
|所属チーム名=
|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]([[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|OM]]、[[ミッドフィールダー#セントラル・ミッドフィールダー|CM]])<ref name="Robert Prosinecki - Playmakerstats">{{Cite news|title=Robert Prosinecki|newspaper=Playmakerstats|url=https://www.playmakerstats.com/player/robert-prosinecki/6117?epoca_id=133|accessdate=2023-11-14}}</ref>
|背番号=
|利き足=右足
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|監督年7=2019-2020|監督チーム7={{flagicon|TUR}} [[カイセリスポル]]
|監督年8=2020|監督チーム8={{flagicon|TUR}} [[デニズリスポル]]
|監督年9=2022|監督チーム9={{flagicon|SLO}} [[NKオリンピア・リュブリャナ (2005年)|NKオリンピア・リュブリャナ]]
}}
'''ロベルト・プロシネチュキ'''({{lang-hr|Robert Prosinečki}}、[[1969年]][[1月12日]] - )は、[[クロアチア]](旧[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]])の元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]、サッカー指導者。ポジションは[[ミッドフィールダー]]([[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|攻撃的MF]]、[[ミッドフィールダー#セントラル・ミッドフィールダー|セントラルMF]])<ref name="Robert Prosinecki - Playmakerstats"/>。
== クラブ経歴 ==
[[ユーゴスラビア]]からの出稼ぎ労働者の家庭の子供として当時の西ドイツで生まれ、1979年に帰国<ref name="df">{{cite web | url =https://thesefootballtimes.co/2018/10/31/robert-prosinecki-decorated-destructive-damned/ |language=en | title =THE DECORATED, DESTRUCTIVE AND DAMNED CAREER OF ROBERT PROSINEČKI | date=2018.10.31| accessdate = 2020.9.16 | work=thesefootballtimes}}</ref>。その後、[[ディナモ・ザグレブ]]のアカデミーへ入団し<ref name="df"/>、[[ミロスラヴ・ブラジェヴィッチ]]の指導を受けた<ref name="df"/>。1986-87シーズンにプロデビューを飾る<ref name="df"/>。1987年にはユーゴスラビアU-20代表として、[[チリ]]で開催された[[1987 FIFAワールドユース選手権|FIFAワールドユース選手権]]優勝に貢献し、ゴールデンボール賞を受賞するなど、一躍注目されることとなった<ref name="df"/>。 同年に[[レッドスター・ベオグラード]]へ移籍。チーム最年少でありながら、[[ドラガン・ストイコビッチ]]らと共に中盤を組み立てた。レッドスターではリーグ優勝3回(1988年、1990年、1991年)、カップ優勝1回(1990年)。1990-91シーズン、[[UEFAチャンピオンズカップ 1990-91|チャンピオンズカップ]]決勝でフランスの[[オリンピック・マルセイユ]]を下し、チームの初となる欧州制覇に貢献した<ref name="df"/>。
[[1991年]]に[[レアル・マドリード]]へ移籍。当時のユーゴスラビアでは25歳以下の選手の国外移籍が認められていなかったため、最終的に[[欧州サッカー連盟]](UEFA)の裁定に持ち込まれた末の移籍だった。低迷していたチーム復権の希望を背負ったが、故障が続き、ファンの期待に応えることが出来なかった<ref name="df"/>。1994-95シーズンは[[レアル・オビエド]]にレンタル移籍、レアル・マドリードを3-2で破るなど、30試合で5ゴールを挙げ、調子を取り戻し<ref name="df"/>、翌年には[[ヨハン・クライフ]]が獲得を希望し、[[FCバルセロナ]]へ移籍<ref name="df"/>、しかし再び怪我に悩ませされ満足にプレー出来なかった<ref name="df"/>。その後[[セビージャFC|セビージャ]]を経て母国の[[ディナモ・ザグレブ|クロアチア・ザグレブ]]に帰還。2002年にはJリーグの[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]が獲得に動き、一時は本人も移籍に合意したものの最終的には実現しなかった。<ref>{{ == 代表歴 ==
ユーゴスラビアU-20代表として挑んだ[[1987年]]の[[1987 FIFAワールドユース選手権]]では、[[ダヴォール・シューケル|ダヴォル・シュケル]]や[[ズボニミール・ボバン|ズヴォニミル・ボバン]]らと共に優勝に貢献、準々決勝の[[ブラジル]]戦では決勝点を決めるなどの活躍を見せた。累積警告により決勝戦の[[西ドイツ]]戦は欠場となったが、大会MVPに輝くなど早くから才能を発揮していた<ref>[http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=104/edition=191161/overview.html FIFA.com - Chile 1987: Yugoslavian fireworks] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100516194048/http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament%3D104/edition%3D191161/overview.html |date=2010年5月16日 }}</ref>。 [[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア代表]]としては1989年にデビュー。[[1990年]]の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]では、1次リーグ第3戦の[[サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE]]戦で1得点を記録する活躍などで同国のベスト8進出に貢献した。選手としてキャリアの絶頂期にあったが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴いクロアチア国籍を選択したため、[[UEFA EURO '92]]や[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アメリカ大会]]などの主要国際大会からは遠ざかることになった。ユーゴスラビア代表での最終成績は15試合4得点<ref>{{cite web|url=https://www.reprezentacija.rs/prosinecki-robert/|title=Prosinečki Robert|language=sr|publisher=reprezentacija.rs|accessdate=2024-01-16}}</ref>。 [[サッカークロアチア代表|クロアチア代表]]としては1993年にデビュー。シューケルやボバンらと共に独立後初めて出場した[[1996年]]の[[UEFA EURO '96]]ではベスト8進出。[[1998年]]の[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・フランス大会]]では、1次リーグ[[サッカージャマイカ代表|ジャマイカ]]戦<ref name="df"/>と3位決定戦の[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦で得点を決める︵ジャマイカ戦は異なる2ヶ国の代表として得点した初のケースとなった︶活躍などで3位入賞に貢献<ref>この大会でも得点したため﹁ワールドカップで2つの違う国の代表でプレーし、得点を挙げた﹂数少ない選手の1人となっている</ref>、クラブでは度重なる怪我で活躍出来なかったが、この大会での活躍で再度名声を取り戻した<ref name="df"/>。[[2002年]]の[[2002 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・日韓大会]]にも出場するなど、クロアチア代表として国際Aマッチ49試合に出場し10得点を記録した<ref>{{cite web|title=Prosinecki|url=https://hns-cff.hr/en/players/19406/robert-prosinecki/|publisher=Croatian Football Federation|access-date=2022-3-1}}</ref>。 == 指導者歴 ==
[[2006年]]からはクロアチア代表のアシスタントコーチに就任し、代表時代の同僚である[[スラヴェン・ビリッチ]]監督を補佐<ref>[http://jp.uefa.com/competitions/worldcup/news/kind=1/newsid=747834.html クロアチア、再度の好結果に自信]-UEFA.com 2009年6月11日閲覧</ref>。またザグレブでは[[2007年]]から喫茶店も経営している。[[2010年]]12月、古巣のレッドスター・ベオグラードの監督に就任した<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/headlines/20101208-00000012-spnavi-socc.html プロシネチュキ氏がレッドスターの新監督に就任=地元紙報道]-sportsnavi 2010年12月12日閲覧</ref><ref>[http://www.dailymail.co.uk/sport/football/article-1337414/Portsmouth-old-boy-Robert-Prosinecki-named-new-coach-Red-Star-Belgrade.html Portsmouth old boy Robert Prosinecki named new coach of Red Star Belgrade]-Mail Online 2010年12月12日閲覧</ref><ref>[http://fourfourtwo.com/news/restofeurope/69924/default.aspx Prosinecki poised to become Red Star coach]-FourFourTwo.com 2010年12月12日閲覧</ref>が、2012年8月に辞任<ref>[http://www.fifa.com/worldfootball/clubfootball/news/newsid=1683784.html Prosinecki quits as Red Star coach] - FIFA.com、2012年8月20日</ref>。2012年10月に[[スュペル・リグ|トルコ・スュペル・リグ]]の[[カイセリスポル]]の監督に就任した。 2014年12月、[[サッカーアゼルバイジャン代表|アゼルバイジャン代表]]監督に就任<ref>[
2018年1月4日、[[サッカーボスニア・ヘルツェゴビナ代表|ボスニア・ヘルツェゴビナ代表]]監督に就任<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/20180105/wor18010501390001-n1.html プロシネツキ氏が監督 ボスニア・ヘルツェゴビナ代表] - サンスポ、2018年1月5日</ref>。
== 人物・プレイスタイル ==
{{要出典範囲|足裏を巧みに使った高速での引き技[[フェイント]]を駆使した抜群のキープ力を誇り、[[FIFA U-20ワールドカップ]]を観戦した各国ジャーナリストから"熊手の足""庭師の足"を持つ男と呼ばれていた。ニックネーム﹁バルカンの黄金銃﹂の由来は、このボールを引く動きから強烈な[[ミドルシュート]]までの流れが[[撃鉄]]を起こしてから[[引き金]]を引くまでの一連の動きに似ていたためだと言われている。日本では[[三浦知良]]のフェイントとして知られる[[シザースフェイント]]も多用していた。攻撃的なスキルに富み、[[テクニシャン]]揃いのクロアチア代表の中盤においても、その技巧は一際目を引くものだった。また、ゲームメーカー的なプレーを得意としており、[[ドラガン・ストイコビッチ]]をして、﹁旧ユーゴスラビア史上最も才能に溢れた選手﹂と言わしめたが、好不調の波が大きく、試合から消えてしまうことが多かった。さらに[[ヘビースモーカー]]であったため、スタミナ面に問題があった。|date=2022年5月}}▼ ▲足裏を巧みに使った高速での引き技[[フェイント]]を駆使した抜群のキープ力を誇り、[[FIFA U-20ワールドカップ]]を観戦した各国ジャーナリストから"熊手の足""庭師の足"を持つ男と呼ばれていた。ニックネーム﹁バルカンの黄金銃﹂の由来は、このボールを引く動きから強烈な[[ミドルシュート]]までの流れが[[撃鉄]]を起こしてから[[引き金]]を引くまでの一連の動きに似ていたためだと言われている。日本では[[三浦知良]]のフェイントとして知られる[[シザースフェイント]]も多用していた。 [[クロアチア・ザグレブ]]では[[三浦知良]]とチームメートであった。
{{要出典範囲|[[ユーゴスラビア代表]]時代に薫陶を受けた[[イビチャ・オシム]]氏と語り口調はそっくりだったと、[[ポーツマスFC|ポーツマス]]時代に同僚だった[[川口能活]]は語っている。|date=2022年5月}} == 監督成績 ==
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{{1998 FIFAワールドカップクロアチア代表}}
{{2002 FIFAワールドカップクロアチア代表}}
}}
{{Navboxes
|title=監督歴
|list1=
{{レッドスター・ベオグラード歴代監督}}
}}
{{DEFAULTSORT:ふろしねちき ろへると}}
213 ⟶ 216行目:
[[Category:1990 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:FIFAワールドカップクロアチア代表選手]]
[[Category:UEFA EURO 1996出場選手]]
[[Category:1998 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:2002 FIFAワールドカップ出場選手]]
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