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== 経歴 ==
姉婿である[[西園寺公経]]の[[猶子]]となる。[[建保]]75年︵[[12191217年]]︶に[[伊予守]]に任じられ、翌建保6年︵[[1218年]]︶には[[左少将]]を兼ねたので伊予少将と呼ばれた。同年、[[鎌倉幕府]][[征夷大将軍|将軍]][[源実朝]]の[[左大将]]拝賀に供奉するために[[鎌倉]]に下向。そのまま鎌倉に住み、建保7年︵[[1219年]]︶1月には実朝の[[右大臣]]就任の[[鶴岡八幡宮]]参詣に随従してその暗殺を目にする事になる。その後、姉の孫にあたる[[藤原頼経|三寅︵後の九条頼経︶]]が次の将軍鎌倉殿に決まったためにそ、三寅のまま[[鎌倉下向に京より供奉。[[承久]]元年︵1219年︶10月20日に滞在してそ[[執権]][[北条義時]]の補佐娘を行うこととなる。妻に迎え<ref>﹃[[貞応吾妻鏡]]﹄承久元年10月20日条</ref>、承久2年︵[[1220年]]︶8月6日には妻が男子を<ref>﹃吾妻鏡﹄承久2年8月6日条</ref>、承久4年︵[[1222年]]︶2月12日には女子を出産している<ref>﹃吾妻鏡﹄承久4年2月12日条</ref>。また承久3年︵[[1221年]]︶には[[讃岐守]]に転じ、承久4年︵1222年︶には在関東のまま[[参議]]に任じられ、[[執権公卿]][[北条義時]]の娘を妻に迎え列した。三寅の側近であると共に義時の婿ということで幕府内部にも関与し、御家人を集めて独自に軍事訓練をするなど、幕府内に一定の勢力を築いた<ref>{{Cite book|和書|author=石井清文﹃|title=鎌倉幕府連署制の研究﹄ |publisher=岩田書院、|year=2020年。 ISBN |isbn=978-4-86602-090-7 P31|pages=31-32.}}</ref>。
ところが、[[元仁]]元年︵[[1224年]]︶、妻の母である[[伊賀の方]]とその兄[[伊賀光宗]]が義時の死後、その後継者と目されしていた伊賀の方の息子の[[北条泰時政村]]を倒そ擁立しようとした[[伊賀氏の変事件]]が起こり、実雅を頼経三寅に代わる新将軍に立てようとしていたことが発覚、。実雅は妻と離別させられた上で京都へ送還された後に[[越前国|越前]]に[[へ配流刑]]となった。
だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、﹃[[吾妻鏡]]﹄でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、[[北条政子]]に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変事件は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある<ref>[[{{Cite book|和書|author=永井晋]]﹃|authorlink=永井晋|title=鎌倉幕府の転換点 <small> ﹁吾妻鏡﹂を読みなおす</small>﹄|publisher=[[日本放送出版協会]]、|year=2000年}}</ref>。
4年後の[[安貞]]2年([[1228年]])、配流先で変死を遂げたとされ去している<ref>『[[尊卑分脈]]』では「河死」とある。</ref>。
実雅の妻だった義時と伊賀の方の娘は[[嘉禄]]元年([[1225年]])11月以降に公家の[[唐橋通時]]と再婚している<ref>『[[明月記]]』嘉禄元年11月19日条</ref>。
== 系譜 ==
*母:家女房([[藤原有恒]]の娘)
*妻:[[北条義時]]の娘
**男子
**女子
*生母不明
**男子:[[一条実顕]]
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