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姉婿である[[西園寺公経]]の[[猶子]]となる。[[建保]]7年︵[[1219年]]︶、[[鎌倉幕府]][[征夷大将軍|将軍]][[源実朝]]の[[右大臣]]就任の[[鶴岡八幡宮]]参詣に随従してその暗殺を目にする事になる。その後、姉の孫にあたる[[藤原頼経|三寅︵後の九条頼経︶]]が次の将軍に決まったためにそのまま[[鎌倉]]に滞在してその補佐を行うこととなる。[[貞応]]元年︵[[1221年]]︶には参議に任じられ、[[執権]][[北条義時]]の娘を妻に迎えた。三寅の側近であると共に義時の婿ということで幕府内部にも関与し、御家人を集めて独自に軍事訓練をするなど、幕府内に一定の勢力を築いた<ref>石井清文﹃鎌倉幕府連署制の研究﹄ 岩田書院、2020年。 ISBN 978-4-86602-090-7 P31-32.</ref>。 ところが、[[元仁]]元年︵[[1224年]]︶、妻の母である[[伊賀の方]]とその兄[[伊賀光宗]]が義時の死後、その後継者と だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、﹃[[吾妻鏡]]﹄でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、[[北条政子]]に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある<ref>[[永井晋]]﹃鎌倉幕府の転換点 <small>﹁吾妻鏡﹂を読みなおす</small>﹄[[日本放送出版協会]]、2000年</ref>。 4年後の[[安貞]]2年([[1228年]])、配流先で変死を遂げたとされる<ref>『尊卑分脈』では「河死」とある。</ref>。
== 系譜 ==
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