一条実雅
一条 実雅︵いちじょう さねまさ、建久7年︵1196年︶ - 安貞2年4月1日︵1228年5月6日︶︶は、鎌倉時代初期の公卿。一条能保の子で母は藤原有恒の娘。
姉婿である西園寺公経の猶子となる。建保7年︵1219年︶、鎌倉幕府将軍源実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従してその暗殺を目にする事になる。その後、姉の孫にあたる九条頼経が次の将軍に決まったためにそのまま鎌倉に滞在してその補佐を行うこととなる。貞応元年︵1221年︶には参議に任じられ、執権北条義時の娘を妻に迎えた。ところが、元仁元年︵1224年︶、妻の母方の伯父である伊賀光宗が政変を起こして次期執権の北条泰時を倒そうとしたいわゆる﹁伊賀氏の乱﹂が発覚、その際光宗は自分の姪の婿にあたる実雅を九条頼経に代わる新将軍に立てようとしていたことも発覚、実雅は妻と離別させられた上で越前国に流刑となった。4年後、配流先にて変死を遂げたと言われている。