三木天遊
日本の詩人
三木 天遊 | |
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ペンネーム | 天友、未奇庵、雪衣、楽天遊 |
誕生 |
三木 猶松 1875年3月12日 兵庫県赤穂市加里屋 |
死没 | 1923年9月1日(48歳没)? |
墓地 | 随鴎寺 |
職業 | 詩人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京専門学校(退学) |
ジャンル | 詩 |
ウィキポータル 文学 |
来歴・人物
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1875年3月12日、兵庫県赤穂市加里屋に、省六・恒子夫妻の次男として生まれる。
1879年に大阪へ移り、大阪府立北野中学校を経て、1894年に東京専門学校に入学。在学中に﹃早稲田文学﹄をはじめとした各新聞・雑誌で詩を発表する。後に病気のために退学。
1897年、浪華青年文学会の客員として、機関誌﹃よしあし草﹄に寄稿された詩の選者となる[1]。1900年3月、須藤南翠、水谷不倒、菊池幽芳などと関西文学同好会を結成する。この頃から詩集﹃心の山川﹄︵後に﹃秋海棠﹄に改める[2]。︶の制作が始まる[注釈1]。1909年3月発行の﹃新小説﹄を最後に文壇から退く[3][注釈2]。
その後も兄・保吉とは連絡を取っていたが、関東大震災を境に音信が途絶え、行方不明となる。親族や友人知人が手を尽くすも、数年絶ってなお消息が分からなかったため[注釈3]、遺族は関東大震災があった1923年9月1日を命日とみなす。
1955年8月19日に生地である赤穂市の随鴎寺に墓が作られ、﹁松月院鼎堂天遊居士﹂の戒名が付けられる。
著書
編集単著
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●﹃鈴舟﹄春陽堂︿新小説第五號﹀、1897年9月。NDLJP:988138。
●﹃恋愛問題﹄也奈義書房、1906年12月。NDLJP:888689。
●﹃名妓小きみ 前編﹄樋口隆文館、1916年7月。NDLJP:917933。
共著
編集脚注
編集注釈
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(一)^ 広告も出されたが、未刊行のままとなる。
(二)^ 最後に掲載されたのは、﹁虻ひとつ 七堂伽藍 しづかなり﹂という俳句である[4]。
(三)^ 河井酔茗は﹁三木天遊君ともあろう大詩人を、生死不明の儘で捨て置く事は、吾国の詩壇の恥辱である。﹂と小林天眠に慨嘆した[5]。
出典
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(一)^ ﹁會告﹂﹃よしあし草﹄第壹卷第貳號、春陽堂、1897年9月25日、1頁。
(二)^ 河井酔茗﹁三木天遊﹂﹃明治代表詩人﹄第一書房、1937年4月15日、351-367頁。
(三)^ 人見圓吉﹁天遊の﹁心の山川﹂﹂﹃學苑﹄第205巻、昭和女子大学光葉会、1957年6月1日、36-38頁、NAID 40000436267。
(四)^ ﹁懸賞吟詠 虻︵俳句︶﹂﹃新小説﹄第十四年第三卷、春陽堂、1909年3月1日、329頁。
(五)^ 小林政治﹃毛布五十年﹄小林産業、1944年6月5日、187頁。
参考文献
編集- 昭和女子大学近代文学研究室「三木天遊」『近代文学研究叢書』 第二十二巻、近代文化研究所、1964年12月、333-372頁。
外部リンク
編集- 『三木 天遊』 - コトバンク
- 早稲田と文学(三木天遊) - ウェイバックマシン(2018年12月19日アーカイブ分)