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=== 三根山藩立藩 ===
幕末の[[1863年]]︵[[文久]]3年︶、時の領主[[牧野忠泰|忠泰]]︵ただひろ︶は新田分5000石を新たに打ち出したとして[[江戸幕府|幕府]]への高直りの請願をした結果、許可され、11000石の三根山藩として立藩 実は、この件につき三根山牧野家5代目当主・忠知が宝暦年間には既に立藩の意志を表していたが、忠知の火消役拝命に伴う役屋敷への移転等の事情のため延期するうちに、更に父・[[牧野忠列|忠列]]の死去が重なったため、この代での高直し請願は中止となった。しかし第6代目領主・忠泰はこれを引継ぎ[[1862年]](文久2年)4月には高直し・立藩の請願に至っている。結果、[[江戸城]]にて、牧野忠泰を伴った長岡候・[[牧野忠恭|忠恭]]の名代の[[笠間]]候・[[牧野貞長|牧野越中守]]に老中・松平豊前守より請願を許可し、1100石・江戸[[定府]]、[[菊の間]]詰とする旨が申し渡された。<ref>﹃三根山藩﹄18-19頁﹁三、文久の高直り﹂</ref>{{Efn|[[1754年]](宝暦)4年5月26日、本家・長岡牧野家の家老・稲垣太郎左衛門に、本家を通じて請願を依頼したく来たる夏の参府の折りには長岡本家当主に相談する内容の趣意書を託している。}} なお、三根山領には藩庁として三根山[[陣屋]]が置かれた。また、文化年間までには藩校入徳館を開校して藩士教育に努めている。
=== 戊辰戦争とその後 ===
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