#'''上田 馬之助'''︵うえだ うまのすけ︶︵[[天保]]5年︵[[1834年]]︶ - [[明治]]24年︵[[1891年]]︶[[4月1日]]︶とは、[[鏡新明智流]]剣術の[[幕末三大剣客]]といわれた[[桃井春蔵]]﹁[[士学館]]﹂の弟子。別名、上田馬之丞、上原馬之介、植原右馬之助。[[遠江国]][[浜松藩]]出身。[[慶応]]元年︵[[1865年]]︶9月3日に銀座で[[天童藩]]の織田家の師範役[[中川俊造]]︵中島一郎︶と[[伊藤慎蔵]]を切って名をあげた。後、[[新選組]]隊士、[[明治維新]]後に[[警視庁]]撃剣世話掛となった。明治8年︵[[1875年]]︶3月25日[[榊原鍵吉]]と兜割試合を行なうも兜を切り割れず敗北。▼
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'''上田 馬之助'''(うえだ うまのすけ)
▲#上田馬之助︵[[天保]]5年︵[[1834年]]︶ - [[明治]]24年︵[[1891年]]︶[[4月1日]]︶とは、[[鏡新明智流]]剣術の[[幕末三大剣客]]といわれた[[桃井春蔵]]﹁[[士学館]]﹂の弟子。別名、上田馬之丞、上原馬之介、植原右馬之助。[[遠江国]][[浜松藩]]出身。[[慶応]]元年︵[[1865年]]︶9月3日に銀座で[[天童藩]]の織田家の師範役[[中川俊造]]︵中島一郎︶と[[伊藤慎蔵]]を切って名をあげた。後、[[新選組]]隊士、[[明治維新]]後に[[警視庁]]撃剣世話掛となった。明治8年︵[[1875年]]︶3月25日[[榊原鍵吉]]と兜割試合を行なうも兜を切り割れず敗北。
#1.にあやかったリングネームの日本人プロレスラー。詳説する。
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本名、上田裕司︵[[1940年]][[6月20日]] - ︶は、[[愛知県]]出身の元[[プロレスラー]]。身長190cm、体重118kg。頭髪をまだらに金髪に染めていた事から﹁'''まだら狼'''﹂と呼ばれた。
==経歴==
[[大相撲]]から転じ[[1960年]]に[[日本プロレス]]に入門。[[1961年]][[4月]]プロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門した[[ジャイアント馬場]]や[[アントニオ猪木]]の影に隠れ地味な存在だった。だがショー性を一切排した「ガチンコ」に滅法強いといわれていた。
[[1966年]]に[[アメリカ]]に渡り「ミスター・イトー」の[[リングネーム]]で[[ヒール (プロレス)|悪役レスラー]]として活躍した。[[1970年]][[3月]]に帰国し、[[1973年]]に[[大木金太郎]]とのタッグでインタータッグ王座を獲得した。
日本プロレスが崩壊すると[[全日本プロレス]]へ参戦したが前座扱いだった為フリーの身となり、すぐに渡米し髪を染め[[竹刀]]を振り回す「まだら狼」へと変身して南部地区を中心に転戦した。[[1976年]][[5月]]に[[国際プロレス]]へ参戦し、[[ラッシャー木村]]と金網[[デスマッチ]]などで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得した。[[1977年]]に[[新日本プロレス]]へ参戦し[[1978年]]にアントニオ猪木と釘板[[デスマッチ]]で激闘を展開したり、[[タイガー・ジェット・シン]]とのタッグで北米タッグ王座を獲得した。[[1981年]]に再び全日本プロレスへタイガー・ジェット・シンと共に参戦し、その後はインディー団体を転戦した。
[[1996年]][[3月]]に不慮の[[交通事故]]に遭遇し、一命は取り留めたものの(フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられるという大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていた事が一命を取り留める理由となった。普通の人なら、即死だっただろうと言われている。ただし、本人は車が衝突した瞬間以降の事は覚えていないらしい)[[脊椎]]損傷の大怪我を負い[[車椅子]]での生活を余儀なくされた。[[1998年]][[4月16日]]に上田が[[リハビリ]]中の[[熊本県]]で「[[力道山]][[OB]]会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。
==人柄==
* 相撲時代に毛筆の訓練を受けたために、達筆としても知られていた。
* サインの筆跡を似せるほど[[力道山]]に私淑し、[[日本プロレス]]時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「プロレスにライセンス制度を導入すべき」というような発言もしている。
* ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
* 場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
* 引退のきっかけとなった交通事故で、運転していた[[IWAジャパン]]の営業部員は死亡した。その話を聞いたとき、﹁俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若いやつが死ななきゃならないんだ﹂と号泣したという。
==密告事件==
力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員が[[サイン]]をしていたという。
ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている。」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。
一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、この事に気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。
当時の日本プロレスは[[暴力団]]との関係が取り沙汰されたり、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は「経営陣の不正を正したかった事に嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。
いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、その後日本プロレスは崩壊し﹁全日本プロレス﹂と﹁新日本プロレス﹂が誕生した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。﹁裏切り者﹂の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。
馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落とした事も事実である。
上田馬之助の引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの猪木は、「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。
==得意技==
*あらゆる反則攻撃
*コブラクロー
*クロスチョップ フィニッシュで多用
*[[ダブル・リストロック]](逆腕固め) ヒールスタイルになってからはまったく見せていないが、前座時代の得意技。
==獲得タイトル==
*NWA世界ジュニアヘビー級
*IWA世界ヘビー級
*インターナショナル・タッグ王座
*北米タッグ王座
*WOW世界ヘビー級
==外部リンク==
* [http://www.cata.jp:16080/futari/annai.html ふたりでひとり~上田馬之助とその妻の物語~]
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[[Category:日本のプロレスラー|うえた うまのすけ]]
[[category:全日本プロレスに所属したプロレスラー|うえたうまのすけ]]
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