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上田裕司 2006年5月15日 (月) 17:32 KranKran版へプロレスラーの記事を移動
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'''上田 馬之助'''(うえだ うまのすけ)
#[[]]5[[1834]] - [[]]24[[1891]][[41]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[1865]]93[[]][[]][[]][[]][[]][[]]8[[1875]]325[[]]
#1.にあやかったリングネームの日本人プロレスラー。詳説する。
 
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[[1940]][[620]] - [[]][[]]190cm118kg''''''
 
==経歴==
[[大相撲]]から転じ[[1960年]]に[[日本プロレス]]に入門。[[1961年]][[4月]]プロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門した[[ジャイアント馬場]]や[[アントニオ猪木]]の影に隠れ地味な存在だった。だがショー性を一切排した「ガチンコ」に滅法強いといわれていた。
 
[[1966年]]に[[アメリカ]]に渡り「ミスター・イトー」の[[リングネーム]]で[[ヒール (プロレス)|悪役レスラー]]として活躍した。[[1970年]][[3月]]に帰国し、[[1973年]]に[[大木金太郎]]とのタッグでインタータッグ王座を獲得した。
 
日本プロレスが崩壊すると[[全日本プロレス]]へ参戦したが前座扱いだった為フリーの身となり、すぐに渡米し髪を染め[[竹刀]]を振り回す「まだら狼」へと変身して南部地区を中心に転戦した。[[1976年]][[5月]]に[[国際プロレス]]へ参戦し、[[ラッシャー木村]]と金網[[デスマッチ]]などで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得した。[[1977年]]に[[新日本プロレス]]へ参戦し[[1978年]]にアントニオ猪木と釘板[[デスマッチ]]で激闘を展開したり、[[タイガー・ジェット・シン]]とのタッグで北米タッグ王座を獲得した。[[1981年]]に再び全日本プロレスへタイガー・ジェット・シンと共に参戦し、その後はインディー団体を転戦した。
 
[[1996年]][[3月]]に不慮の[[交通事故]]に遭遇し、一命は取り留めたものの(フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられるという大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていた事が一命を取り留める理由となった。普通の人なら、即死だっただろうと言われている。ただし、本人は車が衝突した瞬間以降の事は覚えていないらしい)[[脊椎]]損傷の大怪我を負い[[車椅子]]での生活を余儀なくされた。[[1998年]][[4月16日]]に上田が[[リハビリ]]中の[[熊本県]]で「[[力道山]][[OB]]会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。
 
==人柄==
* 相撲時代に毛筆の訓練を受けたために、達筆としても知られていた。
* サインの筆跡を似せるほど[[力道山]]に私淑し、[[日本プロレス]]時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「プロレスにライセンス制度を導入すべき」というような発言もしている。
* ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
* 場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
* 退[[IWA]]
 
==密告事件==
退退[[]]
 
ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている。」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。
 
 
当時の日本プロレスは[[暴力団]]との関係が取り沙汰されたり、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は「経営陣の不正を正したかった事に嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。
 
馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落とした事も事実である。
 
上田馬之助の引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの猪木は、「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。
 
==得意技==
*あらゆる反則攻撃
*コブラクロー
*クロスチョップ フィニッシュで多用
*[[ダブル・リストロック]](逆腕固め) ヒールスタイルになってからはまったく見せていないが、前座時代の得意技。
 
==獲得タイトル==
*NWA世界ジュニアヘビー級
*IWA世界ヘビー級
*インターナショナル・タッグ王座
*北米タッグ王座
*WOW世界ヘビー級
 
==外部リンク==
* [http://www.cata.jp:16080/futari/annai.html ふたりでひとり~上田馬之助とその妻の物語~]
 
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[[Category:日本のプロレスラー|うえた うまのすけ]]
[[category:全日本プロレスに所属したプロレスラー|うえたうまのすけ]]
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