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[[元治]]元年10月、[[近藤勇]]や[[藤堂平助]]の勧誘を受け上洛。伊藤らと共に新選組に加盟した。その際の第二次組織編成では、[[斎藤一]]の四番組に属し、伍長となっている。[[慶応]]3年3月の御陵衛士の拝命により、新選組から分離したとされている。しかし、御陵衛士の[[阿部十郎]]や[[篠原泰之進]]は中西を同志に数えていない<ref>{{Cite book|和書|title=幕末動乱の記録 : ﹁史談会﹂速記録|editor=史談会|publisher=桃源社|year=1965|series=桃源選書|page=160}}</ref><ref>{{Cite book|和書|contribution=秦林親日記|author=秦林親|title=維新日乗纂輯|volume=3|editor=大塚武松|publisher=日本史籍協会|year=1926|series=日本史籍協会叢書|page=312}}</ref>。 阿部によれば、中西は元御陵衛士の[[佐原太郎]]︵篠崎慎八郎︶を殺害したという<ref>{{Cite book|和書|title=幕末動乱の記録 : ﹁史談会﹂速記録|editor=史談会|publisher=桃源社|year=1965|series=桃源選書|page=174}}</ref>。しかし、篠原は佐原が久留米新檄隊を組織していた慶応4年7月5日に同隊の田口次郎らによって殺害されたものとしている<ref>{{Cite book|和書|contribution=秦林親日記|author=秦林親|title=維新日乗纂輯|volume=3|editor=大塚武松|publisher=日本史籍協会|year=1926|series=日本史籍協会叢書|page=341}}</ref>。戒光寺墓所の佐原の墓には慶応4年︵明治元年︶9月1日に京下寺町で死んだとある<ref>{{Cite book|和書|author=市居浩一|title=高台寺党の人びと|publisher=人びと文庫|year=1977|page=220}}</ref>。 == 脚注 ==
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