[[後醍醐天皇]]の倒幕計画に早くから関わったとみられ、[[元弘]]元年︵[[1331年]]︶8月天皇の[[笠置山 (京都府)|笠置]]潜幸に及んで、[[四条隆資]]・[[二条為明]]とともに天皇に扮した[[花山院師賢]]を供奉する態で[[比叡山]]に登った。この謀略が露見した後、下山して天皇と合流した[[公家]]の中に定平の名はないが、恐らく彼も同行し、9月笠置陥落の折に[[河内国|河内]]辺りへ逐電したのであろう。
やがて[[護良親王]]の側近となり、数通の[[令旨]]に奉者として[[花押]]を据えている。元弘3年/[[正慶]]2年︵[[1333年]]︶初め、[[左少将]]から[[右中将]]に遷る任。2月の[[吉野城#吉野城攻防戦|吉野合戦]]では、[[木本宗元]]・[[高間行秀]]・[[松尾寺_(和泉市)|松尾寺]][[衆徒]]らを率いて東方に逃れ、[[吉野山]]麓の波津坂の合戦を経て[[宇陀郡]]一帯で[[二階堂道蘊]]率いる[[鎌倉幕府|幕府]]軍を翻弄した<ref>元弘3年2月25日付護良親王令旨案︵﹃[[師守記]]﹄[[紙背文書]]︶、﹃[[松尾寺文書]]﹄建武元年5月日付松尾寺住侶等言上状案︵﹃[[徴古雑抄]]﹄所収︶</ref>。3月には[[赤松円心]]に擁されて﹁聖護院宮﹂と僭称し、山崎・八幡に陣して西国との往還を阻止し、翌月には[[良忠 (二条家)|良忠]]とともに一方の大将として3000余騎を率い、[[鳥羽街道|鳥羽]]・[[竹田]]方面から[[六波羅]]へ攻め込んだが、幕府軍に敗れて気力と体力を消耗した赤松勢は八幡に退却したという。6月[[千早城]]から[[奈良|南都]]に引き揚げた[[北条治時|阿曾治時]]・[[北条高直|大仏高直]]らが京都を攻めようとしているとの噂が立ったため、定平は大将に任じられて大軍を率い、搦手の[[楠木正成]]とともに[[大和路]]へ向かうも、戦わずしてたちまちに平定し、高直らを捕縛して京都へ凱旋した。8月までには[[能登国]]の[[知行国主]]護良親王の申任によって[[能登国司]]に任じられるた。またこの頃、九州武士らから提出された[[軍忠状]]・[[着到状]]にも証判︵花押︶を加えている<ref>﹃[[松浦文書]]﹄元弘3年7月8日付[[相知蓮賀]]軍忠状、﹃三原文書﹄同年10月25日付三原種昭着到状など︵[[森茂暁]]による︶。</ref>。
以上の軍功に与りが認められ、[[建武政権]]下の[[建武 (日本)|建武]]元年︵[[1334年]]︶5月には[[恩賞方]]寄人として一番局︵[[東海道]]・[[東山道]]担当︶を務めた。当時既に親王護良の許を離れていたが、能登国司の地位には依然留まったと思われ、親王護良失脚後の同2年︵[[1335年]]︶4月勅裁に因んで[[永光寺]]へに下した[[国宣]]には定平が[[袖判]]を加えているた<ref>﹃永光寺文書﹄建武2年4月15日付能登国宣</ref>。同年6月[[西園寺公宗]]らによる[[北条氏]]再興の陰謀が露見するや、[[結城親光]]・[[名和長年]]らを率い、公宗を逮捕して自邸に幽閉するも、その後生まれた遺児︵後の[[西園寺実俊|実俊]]︶については、[[昭訓門院春日局|昭訓門院春日]]の嘆願により助命を上奏した。[[延元]]元年︵[[1336年]]︶5月の[[湊川の戦い]]では、[[新田義貞]]軍の一部将として[[生田神社|生田森]]で[[足利氏|足利]]方の[[高氏]]や[[上杉氏]]と交戦したが<ref>ただし、[[安井久善]]によれば、[[楠木正成]][[戦死]]後のこの後衛戦は﹃[[太平記]]﹄による虚構の可能性が高いとされる。</ref>、衆寡敵せずして[[京都]]へ敗走し、[[後醍醐天皇]]の避難していた[[近江国|近江]]東坂本に参候。6月入京した[[足利尊氏]]を挟撃するため、[[宇治郡|宇治]]へ派遣されて南方から流入する[[兵糧]]を阻止し、洛中合戦にも参戦したらしい。10月に天皇が尊氏と和睦して帰洛すると、命を受けて[[河内国|河内]]東条に下り、[[北陸朝廷]]の義貞、[[伊勢国|伊勢]]の[[北畠親房]]、[[紀伊国|紀伊]]の隆資らと呼応して再挙を期した。
これを最後に﹃[[太平記]]﹄には定平の活動が見えなくなるため、﹁以後消息不明﹂と結ぶ辞典類もが少なくない。ただし、同年中には[[従三位]]に叙されて[[公卿]]に列していたらしく<ref>﹃[[公卿補任]]﹄建武4年︵[[1337年]]︶項に非参議従三位﹁源良定﹂として初出するが、[[暦応]]2年︵[[1339年]]︶以降不見。南朝に仕えたためであろう。</ref>、翌[[延元]]2年/[[建武 (日本)|建武]]4年︵[[1337年]]︶3月河内[[鷲尾城 (河内国)|鷲尾]]と[[神感寺城|神感寺]]︵ともに[[東大阪市]]︶に城を構えて北軍を撃退したという﹁中院[[右兵衛督]]﹂<ref>﹃[[南狩遺文]]﹄所収[[紀伊国]][[海部郡 (和歌山県)|海部郡]][[性応寺]]所蔵文書</ref>とは恐らく定平のことであろう。また、延元3年︵[[1338年]]︶[[1月7日 (旧暦)|正月7日]]付で[[観心寺]]に自筆[[願文]]を納めた﹁右兵衛督﹂も定平に比定され、天下泰平・家門繁昌が成就すれば私領を寄進すると約している。
[[1340年]]代には[[征西将軍|征西府]]関係の文書に定平の花押を確認できるものが若干あるが<ref>﹃[[忽那文書]]﹄[[興国]]3年4月28日付中院定平[[奉書]]、﹃[[相良家文書]]﹄[[正平 (日本)|正平]]2年11月12日付中院定平[[御教書]]。</ref>、定平が[[懐良親王]]に属して[[九州]]に下っていたとすれば、同じく親王従者として軍事活動を展開した[[公家大将]]'''[[中院義定]]'''との関係が無視できない。[[正平一統]]の[[正平 (日本)|正平]]7年︵[[1352年]]︶1月には、かつての能登国司の権限に基づくものであろう、[[總持寺祖院|惣持寺]]の敷地について元弘3年の[[宣旨]]・国宣に任せる旨の[[安堵状]]を下しており<ref>﹃[[総持寺文書]]﹄正平7年正月11日付中院定平安堵状</ref>、これによれば時に[[中納言]]であった。以後の活動は管見に入らず、その終焉も定かでないが、﹃[[新葉和歌集]]﹄に前[[大納言]]として2首入集しているから、これが[[極官]]と思われ、しかもその内容からは80余歳まで存命したことを窺い得る︵雑上・1109︶・1109︶。定平の年齢については他に確証がない。なお、﹃[[尊卑分脈]]﹄の定平の袖書には﹁伺候南朝、元弘以来致軍忠--''遁世''﹂と見えているので、晩年の80代には恐らく[[出家]]していたと考えられる。