乾正房
来歴
生い立ち
跡目相続以降
1689年7月28日︵元禄2年6月12日︶、土佐藩主・山内豊昌より、亡父跡目を無相違下し置かれる。
土佐藩上士︵知行1200石︶板坂永吉の娘と結婚する。板坂永吉の父、板坂永政︵三右衛門︶は、土佐藩家老・乾和三︵山内備後︶の二男に生まれ、板坂利正︵馬左衛門︶の養子となった人物であり、土佐藩家老の乾家︵本姓土岐氏︶と、正房の乾家︵本姓板垣氏︶は別家であったがこの縁組によって、両家の血が交わることになった。
また乾七郎左衛門という名は、土佐藩祖・山内一豊の時代、一豊が高知城の築城を視察する際に、身の安全のために仕立てた影武者・同装束六人衆︵野中玄蕃・市川大炊・柏原半右衛門・乾宣光︵七郎左衛門︶・乾和三︵猪助︶︶の一人で、乾和三の実兄﹁乾宣光﹂の名を襲名したものである。
1705年︵宝永2年︶、土佐藩主山内豊房の時代、本山郷での在番を仰せ付けられる。同年、江戸御留守居番を仰せ付けられ、江戸の土佐藩邸に勤めた。
1721年11月14日︵享保6年9月25日︶病死。
墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山︵現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近︶の代々墓地に建てられた。