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[[File:Motohiro Nijo 01.jpg|thumb|200px|二条基弘]]
'''二条 基弘'''︵にじょう もとひろ、[[安政]]6年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]︿[[1859年]][[11月19日]]﹀ - [[昭和]]3年︿[[1928年]]﹀[[4月 == 経歴 ==
[[1884年]]︵明治17年︶7月7日[[華族令]]の制定に基づき[[公爵]]を授けられ[[華族]]に列せられる。これは元々[[明治維新]]の後[[1869年]]︵明治2年︶には華族制度が創設されており基弘も華族の一員であったが、具体的にそれを裏付ける法的根拠や公爵などの[[爵位]]がなかった。また、華族の呼称は本来[[公家]]の家格の一つである[[清華家]]の別称であった。つまり、[[二条家]]は公家の最高位である[[摂家]]に位置していながら1884年︵明治17年︶の令制定まではいわば一段下の族称となっていたのである。基弘は歌や書に優れていたという。公爵の地位から北海道開拓に関った[[北海道協会]]会頭をつとめ、明治10年代に設立された[[写真協会]]では[[侯爵]][[徳川篤敬]]会長のもと副会長に就任する。
[[1887年]]︵明治21年︶、[[イギリス]]の[[ケンブリッジ大学]]に自費[[留学]]する。貴族の[[ノブレス・オブリージュ]]を学び、上院の地主貴族の行動に深く影響を受けることとなった。帰国後は、貴族は徒食すべきではないとして[[1889年]]︵明治23年︶9月に貴族院議員となり、政治活動を始める<ref>{{Cite book |和書 |author=千田稔 |title=華族総覧 |publisher=講談社現代新書 |year=2009-07 |page=244 |isbn=978-4-06-288001-5}}</ref>。
[[1901年]]︵明治34年︶には貴族院の[[院内会派]]として発足した[[土曜会]]の初代幹事長︵[[党首]]格︶となる。[[1902年]]︵明治35年︶には[[菅原道真]]の遺徳を称えて﹁菅原道真千年祭﹂が挙行されるが、祭を取仕切った北野会会長でもある。同年12月5日弟の正麿が分家し[[男爵]]を授爵する。[[1919年]]︵大正8年︶11月29日に隠居し、その旨、翌年1月14日に[[宮内省|宗秩寮]]より[[貴族院 (日本)|貴族院]]に通牒が届き貴族院公爵議員を退任した<ref>﹃官報﹄第2233号、 妻は[[前田斉泰]]の三女・洽子。基弘の後は子の厚基が継いだ。[[二条厚基|厚基]]︵妻:島津泰子︵[[島津長丸]]と[[島津治子|治子]]の次女︶︶には子が無かった為先の分家筋である[[二条弼基|弼基]]︵義弟・正麿の子︶が後を継ぐ。基弘の女子敬子は[[鍋島直高]]夫人、澄子は[[小津茂郎]]夫人、承子は[[平光壽]]夫人となる。養女・康子︵[[二条正麿]]二女︶は誓康と改名し[[得浄明院]]住職となる{{Sfn|霞会館|1996|p=322}}。 |