「二条基弘」の版間の差分
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DarthDerailer (会話 | 投稿記録) m →経歴: 「したがって、公家の最高位である摂家に位置していた二条家は」→「つまり、二条家は公家の最高位である摂家に位置していながら」に変更。 |
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== 経歴 ==
[[1884年]]︵明治17年︶7月7日[[華族令]]の制定に基づき[[公爵]]を授けられ[[華族]]に列せられる。これは元々[[明治維新]]の後[[1869年]]︵明治2年︶には華族制度が創設されており基弘も華族の一員であったが、具体的にそれを裏付ける法的根拠や公爵などの[[爵位]]がなかった。また、華族の呼称は本来[[公家]]の家格の一つである[[清華家]]の別称であった。 妻は[[前田斉泰]]の三女・洽子。基弘の後は子の厚基が継いだ。[[二条厚基|厚基]]︵妻:島津泰子︵[[島津長丸]]と[[島津治子|治子]]の次女︶︶には子が無かった為先の分家筋である[[二条弼基|弼基]]︵義弟・正麿の子︶が後を継ぐ。基弘の女子敬子は[[鍋島直高]]夫人、澄子は[[小津茂郎]]夫人、承子は[[平光壽]]夫人となる。養女・康子︵[[二条正麿]]二女︶は誓康と改名し[[得浄明院]]住職となる{{Sfn|霞会館|1996|p=322}}。 |