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'''五十嵐 亮太'''︵'''いがらし りょうた'''、[[1979年]][[5月28日]] - ︶は、[[プロ野球]][[東京ヤクルトスワローズ]]所属の[[投手]]である。[[北海道]][[留萌市]]生まれ、[[千葉県]][[千葉市]]出身 == 人物・来歴 ==
=== アマチュア時代 ===
柏井小で軟式野球を始め、その後千葉北のリトル・シニアに所属。中学時代までは[[一塁手]]として活躍 その後、複数の日本球界からの誘いがあったが、[[1997年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1997年のドラフト会議]]でヤクルトスワローズから2位で指名を受け、入団した。
=== プロ入り後 ===
;[[1998年]]
1年目は体力作りとして登板無しに終わる選手も多いチームにおいて、ファームで10試合に登板。二軍ながら30奪三振を記録して注目を集めた。
;[[1999年]]
開幕こそ二軍で迎えたが、[[廣田浩章]]の降格に伴って[[4月20日]]に一軍初昇格。その日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦、12回表同点の場面で初登板したが、制球を乱して敗戦投手となってしまった。しかしその後も故障者の多い投手事情もあって一軍に残留。[[5月27日]]の対[[横浜ベイスターズ|横浜]]戦では、7回表から登板して1回を無失点に抑えると、その裏にチームが3点を取って逆転し、プロ入り初勝利をマークした。その後6月末には二軍に落ちたが、8月に復帰。終盤戦では最速154km/hの速球が買われ、徐々に接戦での登板も増加。四死球が課題とされたが、中継ぎのみで最終的に6勝をマークする活躍を見せた。 ;[[2000年]]
前年の活躍を受け、自身初の開幕一軍スタート。チームは開幕6戦で1勝5敗とスタートダッシュに失敗していたが、4月だけで3勝1敗の五十嵐の活躍を受けて徐々に持ち直した。一時は五十嵐が投げると勝てる、とまで言われ、リリーフのみでオールスター前だけで11勝を記録。ハーラーダービートップを走り、監督推薦で自身初のオールスターにも出場した。しかし[[8月8日]]の試合でマメが潰れ、二軍降格。復帰後は勝ち星を挙げることが出来ず、最多勝は14勝の[[メルビン・バンチ]]に譲った。オフには活躍が評価され、[[古田敦也]]と共に[[最優秀バッテリー賞]]に選ばれている。
;[[2001年]]
前年の活躍から期待されたが、キャンプ中に全治1ヶ月の肉離れを発症。3月に復帰して開幕こそ一軍に間に合わせたが、5月にも右肘痛を発症して二軍に降格。復帰は7月半ばまでずれこみ、チームが優勝する中、波に乗り切れない一年となってしまった。それでも41試合に登板し、防御率は自己最高の2.59と、終盤のチームを支えている。対[[オリックス・バファローズ|近鉄]]戦の日本シリーズにも第2戦8回裏同点の場面で登板したが、[[タフィー・ローズ|ローズ]]に3点本塁打を打たれて敗戦投手となり、以降の試合には出場しなかった。 ;[[2002年]]
ファンからの公募により、同僚の[[石井弘寿]]と共に[[東京ヤクルトスワローズ#ロケットボーイズ|ロケットボーイズ]]の愛称が付いた。シーズンでは不動の[[セットアッパー]]としてチームに貢献し、自身初めて開幕からシーズン終了まで一軍で過ごしている。7月には監督推薦で自身2度目のオールスターにも出場し、速球勝負で話題を集めている。最終的には64試合に登板し、中継ぎのみで8勝をマークした他、防御率は2.08と自己最高の成績を残した。
;[[2003年]]
故障者の多い投手陣の中、前年に続いて開幕から一年間一軍に定着。監督推薦で3度目のオールスター出場を果たした。2年連続60試合登板となる66試合に登板し、7回・8回を抑える勝利の方程式の一翼を担った。 ;[[2004年]]
前年抑えを勤めた石井弘の故障もあって、4月からストッパーに就任。[[6月3日]]の対[[阪神タイガース|阪神]]戦で、[[今岡誠]]に対して自己最速、かつ当時日本最速記録ともなった、158km/hをマーク。史上初のストライキが解除された後、最初の試合となった9月20日にも、阪神戦で[[矢野輝弘]]に対し、3球続けて158km/hを計測。158km/hを計4球マークし、「速球王」の称号を手にした。この最速記録は[[2005年]][[5月11日]]に、[[マーク・クルーン]](現[[読売ジャイアンツ|読売]])が159km/hを出して破られたが、2008年4月現在でも、日本人選手では最速記録である。因みに、この年のオープン戦からシーズン終了までの全登板時の最速記録の平均をとると、154.5km/hであった。
7月にはファン投票1位に選ばれ、自身4度目のオールスターに出場。最終的には5勝3敗37セーブという成績で[[最多セーブ投手]]に輝いている。
;[[2005年]]
2年続けてのストッパーを期待されていたが、開幕前に大腿部を故障。開幕には間に合わせたものの不振をかこち、4月半ばには2001年以来の二軍降格も経験した。怪我や不調もあって成績はいまいちだったものの、2年連続ファン投票1位に選ばれて5度目のオールスターに出場している。最終的には49試合に登板したが、4年連続の60試合登板はならなかった。
;[[2006年]]
この年も抑えを期待され、開幕の対阪神戦でセーブを記録した。しかし成績が安定せず、6月半ばには二軍降格。8月に復帰したものの、[[9月18日]]の試合を最後に一軍登録を抹消された。 独特のピッチングフォームで、所謂[[担ぎ投げ]]だが、敢えて腕を畳んだまま最小の半径で腕を振ることが、爆発的な速球を生み出す源になっていると日本テレビの[[スポーツうるぐす]]で専門家に解析されていた。理論的には、フィギュアスケートで腕を縮めるとスピンの回転が速くなるのと同じという解説であった。▼
;[[2007年]]
一年間をリハビリに費やし、実戦登板は一軍二軍共に公式戦では出来なかった。10月にフェニックスリーグで復帰登板を果たしている。
;[[2008年]]
キャンプ・オープン戦共に順調に過ごし、開幕戦の[[3月28日]]対読売戦9回表に登板。最速154km/hを記録し、一年半ぶりの公式戦登板を無失点で切り抜けた。しかしその試合で全治3週間の肉離れを発症し戦線離脱。[[4月29日]]に再登録されている。
[[アイドル歌手]]グループ[[SMAP]]の[[木村拓哉]]に顔が似ていることから﹃'''球界のキムタク'''﹄という異名を持つ︵球界のキムタクは五十嵐だけでなく同姓同名同音異字の[[木村拓也]]もそうである︶。ただ、本人は常に似ていないと言っていて、ファンから発信されたものを周りが騒ぎ立てていたといった感じである。また[[SMAP×SMAP]]に[[古田敦也]]と共に出演した後、実際に生の木村拓哉と対面も果たしている。▼ == エピソード ==
▲[[2006年]][[9月]]末に﹁右肘靭帯断裂﹂が発覚し、オフに手術。この手術のリハビリの影響で、2007年シーズンの復帰が絶望的であることを2006年[[11月12日]]の選手会主催イベントで発表した。そして2007年シーズンは出場無しに終わった。 === プレースタイル ===
2004年以前は「分かっていても打てない」と評価された速球<ref>[[2001年]]日本シリーズの際の解説による。</ref>を武器に、稀に[[フォークボール]]などを交えて投球を組み立てていた。四死球や暴投も多いが、被安打が少なく奪三振が多いため、安定感をもたらしていた。
==家族==▼
*叔父が[[北海道高等学校一覧#廃止になった学校|北海道夕張工業高等学校]]の投手、父親が[[北海道夕張高等学校|北海道夕張南高等学校]]の[[アルペンスキー|アルペン]]国体選手というスポーツ一家に生まれる。▼ *妻は[[横浜ベイスターズ]]のマスコットガールをしていた。2人の間には[[2003年]]に生まれた娘がいる。▼
▲独特のピッチングフォームで、所謂[[担ぎ投げ]]だが、敢えて腕を畳んだまま最小の半径で腕を振ることが、爆発的な速球を生み出す源になっている ▲=== 家族・交流 ===
▲ メジャー移籍を口にする選手も多い中、ブログ・インタビューなどで度々チームや日本野球への愛着を述べている。メジャー移籍願望を否定していることでも知られる。
▲[[アイドル歌手]]グループ[[SMAP]]の[[木村拓哉]]に顔が似ている ▲*そのスピードボールを武器に、[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の速球王として人気を博す。同僚の[[石井弘寿]]とともに、速球にちなんだ﹁[[東京ヤクルトスワローズ#ロケットボーイズ|ロケットボーイズ]]﹂という愛称で呼ばれる。 ▲*2005年以降は開幕前の大腿部の故障で︵一部ではカットボール習得のためという憶測もあった︶フォームを崩し、自慢の快速球は鳴りを潜め、球速が10km/h以上も落ちて思うような成績を上げられず、ストレートを見せ球にし、[[フォークボール]]で勝負するというスタイルになっていた。因みに大腿部の故障は、速過ぎる速球で大腿部に掛かる負担が他の投手よりも大きかったためと診断されており、日本最速記録を奪ったクルーンも同様の故障で苦しんでいる。 == 通算成績 ==
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!年度!!登板!!完了!!勝!!敗!!S!!HP!!勝率!!打者!!投球回!!被安!!被本!!与四!!与死!!奪三!!暴投!!ボーク!!失点!!自責!!防御率
|-
|1998||colspan="19"|一軍登板なし
|-
|1999||36||14||6||4||1||-||.600||207||47 2/3||34||4||29||1||59||3||1||27||26||4.91
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!407||178||41||25||48||16||.621||1976||472 2/3||352||52||215||12||544||39||2||188||175||3.33
|}
(2007年末現在)
* 初登板
:1999年4月
* 初勝利
:1999年5月27日[[横浜ベイスターズ|横浜]]戦(神宮) 7回より登板、1回無失点 被安打0 奪三振0 四死球0
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:1999年10月3日[[広島東洋カープ|広島]]戦([[広島市民球場|広島]]) 8回より登板、2回無失点 被安打1 奪三振0 四死球0
=== タイトル ===
*[[最優秀バッテリー賞]]1回 (2000年、14歳上の古田と。同受賞バッテリーでは史上最大の年の差)
*[[最多セーブ投手]]1回 (2004年)
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<references />
== 関連項目 ==
*[[千葉県出身の人物一覧]]
*[[野村克也]]
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