「五社神古墳」の版間の差分
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Weatherman2009 (会話 | 投稿記録) m →陵墓の混乱 |
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次代[[仲哀天皇]]の皇后・神功皇后<ref>﹃古事記﹄に記された名は﹁息長帯比売命﹂。</ref>の陵は﹃古事記﹄に記されておらず、﹃日本書紀﹄神功皇后紀にのみ﹁'''狭城盾列陵'''に葬った﹂と記した<ref>﹃日本書紀﹄神功皇后紀︽神功皇后摂政69年︵己丑269年︶十月壬申の条︾﹁冬十月戊午朔壬申 葬狭城盾列陵。是日、追尊皇太后、曰気長足姫尊。﹂</ref>。 陵名は[[諡号]]と同様のものであって、通常は合葬でない限り同名であることはないし、次代の天皇の皇后を先帝の陵に合葬することはまずありえないことだが、﹃日本書紀﹄作成当時に陵名が正されることはなく同名陵は並存し、後世で混乱が生じた。﹃[[続日本後紀]]﹄は顛末を大意次のように伝えている。 *[[843年]]︵承和10︶3月の日食の時に盾列陵で二度にわたって山鳴りがし、雷鳴のようだった。<ref>﹃続日本後紀﹄巻十三︽承和10年︵843年︶四月己未朔の条︾﹁夏四月己未朔。楯列陵守等言。去月十八日食時。山陵鳴二度。其聲如雷。即赤氣如飄風。指離飛去。申時亦鳴。其氣如初。指兌飛亘。遣參議正躬王加検校。伐陵木七十七株。至■木等不可勝計。便即勘當陵守長百濟春繼上奏矣。﹂ </ref>
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