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'''井田 正孝'''︵いだ まさたか、[[1912年]]︵大正元年︶[[10月5日]] - [[2004年]]︵平成16年︶[[2月6日]]︶は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[実業家]]。最終階級は[[陸軍中佐]]。後に旧姓・岩田に復した。▼ {{基礎情報 軍人
| 氏名 = 井田 正孝
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| 生年月日 = [[1912年]][[10月5日]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1912|10|5|2004|2|6}}
| 画像 = 井田正孝 m.png
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
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| 署名 =
}}
▲'''井田 正孝'''︵いだ まさたか、[[1912年]]︵[[大正]]元年︶[[10月5日]] - [[2004年]]︵[[平成]]16年︶[[2月6日]]︶は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[実業家]]。最終階級は[[陸軍中佐]]。後に旧姓・岩田に復した。 == 経歴 ==
[[1912年]] [[1935年]]︵昭和10年︶頃より、東大教授[[平泉澄]]の直門として[[竹下正彦]][[歩兵中尉]]︵[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#42期|42期]]︶、畑中健二砲兵少尉と親交を深める。[[1936年]]︵昭和11年︶4月、[[男爵]][[井田磐楠]]砲兵少佐︵[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#13期|13期]]︶の[[養嗣子]]となる。[[陸軍砲工学校]]高等科で学び、[[1939年]]︵昭和14年︶に起きた[[ノモンハン事件]]では、[[野戦重砲兵第3旅団]]の観測将校として参加している︵﹃ノモンハン④﹄p.362︶。[[1941年]]︵昭和16年︶12月、[[陸軍大学校]]︵[[陸軍大学校卒業生一覧#55期 ︵昭和16年卒︶|55期]]︶を[[恩賜の軍刀|優等]]で卒業した。以降、[[第33師団 (日本軍)|第33師団]][[参謀]]、[[陸軍省#軍務局|軍務局]]課員︵軍務課︶、[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]参謀︵台湾軍から改編された[[第10方面軍 (日本軍)|第10方面軍]]参謀︶などを歴任する。陸軍中央に戻った井田少佐は、[[1944年]]︵昭和19年︶1月に[[松代大本営跡#松代が選ばれた理由|大本営移動計画]]を発案し、陸軍次官[[富永恭次]]中将︵[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#25期|25期]]︶に計画書を提出。大本営の建設場所には松代︵現在の[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代地区]]︶を選定した<ref>[http://doraku.asahi.com/earth/showashi/110908.html Vol.60 松代﹁大本営﹂着工 本土決戦に備え巨大地下壕 昭和19年11月11日︵1-2︶- 昭和史再訪セレクション - 地球発 - どらく] 2010年8月28日朝日新聞夕刊紙面より</ref>。この時のことを[[1981年]]︵昭和56年︶12月26日に放映された、[[NHK放送センター|NHK]]番組﹁[[歴史への招待]]﹂︵﹁幻の大本営 昭和20年﹂︶の中で司会の[[鈴木健二]][[アナウンサー]]に話している。 [[1945年]]︵昭和20年︶6月、[[陸軍省#軍務局|陸軍省軍務局]]軍務課員︵予算班︶となり、同月、45期一選抜のひとりとして最後の[[中佐]]進級者となっている。終戦時、[[ポツダム宣言]]受諾に反対し、﹁[[宮城事件]]﹂の首謀者の一人となり、[[近衛師団長]][[森赳]]中将︵[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#28期|28期]]︶の殺害現場に居合わせている。その後赴いた陸相官邸において陸軍省軍務局軍務課内政班長の竹下中佐とともに[[陸軍大臣]][[阿南惟幾]][[大将]]︵[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#18期|18期]]︶の自刃にも立ち会うことになった。[[クーデター]]は失敗し、8月15日に陸軍省で自決する決心をしていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。同月、重謹慎30日の処分を受け、同月31日、[[予備役]]に編入。なお敗戦によって裁くべき軍組織が解散させられたため、井田は[[軍事裁判]]にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。 終戦後は[[在日米軍]]司令部戦史課に勤務した後、[[電通]]に入社し、総務部長及び関連会社[[電通テック|電通映画社]]の常務を勤めた。[[1955年]]︵昭和30年︶に[[離婚]]して、姓を岩田に復姓している。敗戦後も一貫して、 == 余談 ==
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*義父:井田磐楠(男爵、砲兵少佐、[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#13期|陸士13期]])
*弟:岩田道孝([[陸軍大尉|歩兵大尉]]、[[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#48期|陸士48期]])戦死
== 関連項目 ==
* [[岐阜県出身の人物一覧]]
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*[[アルヴィン・D・クックス]]著『ノモンハン④ [教訓は生きなかった]』、朝日文庫、1994年
*[https://twitter.com/fukuoka_t/status/1289824723291971585 福岡貴善@金子文子伝執筆中]
== 関連項目 ==
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*[[宮城事件]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いた まさたか}}
[[Category:大日本帝国陸軍軍人]]
[[Category:太平洋戦争期の日本の
[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:電通の人物]]
[[Category:陸軍大学校出身の人物]]
[[Category:陸軍砲工学校出身の人物]]
[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]]
[[Category:岐阜県立大垣北高等学校出身の人物]]
[[Category:岐阜県出身の人物]]
[[Category:1912年生]]
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