「今井順斎」の版間の差分
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'''今井 順斎'''(いまい じゅんさい、[[万治]]元年([[1658年]]) – [[享保]]3年[[8月 (旧暦)|8月]]([[1718年]]))は、[[江戸時代]]中期の日本の[[篆刻家]]である。
[[名]]を健、[[字]]を元昌、順斎は[[号 (称号)|号]]。はじめ松浦姓を名乗ったが今井姓に復した。[[長崎市|長崎]]の人。 9行目:
傍らで[[篆刻]]を嗜み、篆学に精しく︵一説に亡命した[[明]]の石周麟に学んだという︶[[鉄筆]]を揮った。[[貞享]]3年︵1686年︶に[[江戸]]に出て、[[池永一峰]]の家に寓居してともに篆刻を研鑽した。一峰の﹃一刀万象﹄に序文を寄せ、そのタイトルも順斎が名付けたという。[[日本の篆刻史|篆刻の黎明期]]にあって[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]以降の装飾的な印風を排撃し[[篆刻#歴史|古印]]を尊ぶ姿勢を示している。[[法帖]]を[[模刻]]したが、技術が未開発で劣悪だった。貞享年間に[[榊原篁洲]]や[[細井広沢]]と正面刷の技法を編み出して以来、法帖の精度が格段に高まった。後にこの方法を世に紹介している。 [[元禄]]2年︵1689年︶10月、医師として[[水戸藩]]に仕え、[[正徳 (日本)|正徳]]5年︵1715年︶3月には[[江戸幕府|幕府]]の[[侍医]]に至る。 == 出典 ==
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*[[中井敬所]]篇「日本印人伝」『日本の篆刻』1966年 [[中田勇次郎]]編 [[二玄社]]
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[[Category:17世紀日本の医師]]
[[Category:18世紀日本の医師]]
[[Category:17世紀の能書家]]
[[Category:18世紀の能書家]]
[[Category:江戸時代の医師]]
[[Category:奥医師]]
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