「今村英生」の版間の差分
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1690年︵元禄3年︶9月26日、ドイツ人医師・博物学者[[エンゲルベルト・ケンペル]]は商館付医師として出島に上陸し、前任者の助手であった英生︵当時数え20歳、以下年齢は数え表記︶をそのまま自分の助手として採用した<ref>ユーイン・ブラウン﹁大英図書館所蔵ケンペル将来日本資料の意義﹂﹃ケンペル展﹄︵ドイツ・日本研究所、1990︶</ref>。以後約2年にわたりケンペルは主に英生の協力のもと日本の地誌に関する情報収集を精力的に行い、文物を購入したが、その範囲は当時提供を禁じられていた情報や地図や役職名鑑︵﹃江戸鑑﹄︶や仏像などにも及んだ。ケンペルは意思疎通を図るため英生にオランダ語を文法から徹底的に教え込んだ。また協力の見返りに英生はケンペルから薬学・医学・博物学などを学ぶ。2回におよぶ[[カピタン江戸参府|江戸参府]]にもケンペルは英生を従者として同行させた。ケンペルと今村源右衛門との情報交換の詳細は[[大英図書館]]に残されるケンペルの数々の記録から窺われ、お互いの並々ならぬ努力が明らかにされた<ref>[[ヴォルフガング・ミヒェル]]﹁エンゲルベルト・ケンペルからみた日本語﹂﹃洋学史研究﹄13号︵1996︶</ref>。 帰国後、ケンペルは日本滞在中に得た情報や見聞をHeutiges Japan︵今日の日本︶にまとめたが、生前には刊行されなかった。遺品としてその草稿を買い取ったイギリス王室の医師で群を抜く収集家[[ハンス・スローン]]卿はスイス人博物学者[[ヨハン・ヤコブ・ショイヒツエル]]の四男{{仮リンク|ヨハン・カスパル・ショイヒツエル|de|Johann Caspar Scheuchzer}}︵Johann Caspar Scheuchzer︶にそれを英訳させThe History of Japan︵[[日本誌]]︶と題し、1727年[[ロンドン]]で刊行させた。その本は評判を呼びフランス語やオランダ語にも翻訳された。 原稿の序文で、ケンペルが﹁日本人助手﹂の協力に言及しているが、その名前は著書のどこにも記さなかった。それが明らかにされたのは1990年、大英図書館日本コレクション部長ユーイン・ブラウン︵Yu-ying Brown︶によりケンペルと今村源右衛門︵英生︶との雇用契約書﹁請状之事﹂が発見されたことによる<ref>ユーイン・ブラウン﹁大英図書館所蔵ケンペル将来日本資料の意義﹂﹃ケンペル展﹄︵ドイツ・日本研究所、東京、1990︶</ref>。 |