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{{Infobox Buddhist
|名前=仙厓義梵
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|生地=[[美濃国]]
|没地=[[筑前国]]
|画像=Sengai-gibon-cat-1800.jpg
|説明文=「猫の恋図」
|宗派=[[臨済宗]]
|寺院=[[聖福寺 (福岡市)|聖福寺]]
|師=
|弟子=
|著作=
}}
'''仙厓 義梵'''︵せんがい ぎぼん、[[寛延]]3年︵[[1750年]]︶[[4月 (旧暦)|4月]] - [[天保]]8年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]︵[[1837年]][[11月4日]]︶︶は[[江戸時代]]の[[臨済宗]] == 概略 ==
寛延3年︵1750年︶農民井藤甚八の子として[[美濃国]][[武儀郡]]で生まれ 本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている{{sfn|中山 |2003|第2章}}。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。83歳の時、庭に﹁絶筆の碑﹂を建て断筆宣言をしたが結局やめられず、没年まで作品は残っている<ref>{{Cite book|和書|author=中山喜一郎 ・ 福岡美術館|title=仙厓 : その生涯と芸術|publisher=福岡市美術館協会|date=1992-1-16|page=86|isbn=}}</ref>{{sfn|中山 |2003| 昭和初期に﹁仙厓ブーム﹂ともいえるほど仙厓の研究熱が高まった時期があり、多くの作品が各地から発見され、逸話や論説が乱立した{{sfn|中山 |2003|pp.=27-28}}。仙厓の絵のコレクターとして[[出光佐三]]が知られ、そのコレクションは東京の[[出光美術館]]に収蔵されている。 2022年5月21日[[永青文庫]]「仙厓ワールド ―また来て笑って!仙厓さんのZen Zen禅画」展など各地で展覧会が開催されている<ref>[https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/6663 ARTAGEND-仙厓ワールド―また来て笑って!仙厓さんのZen Zen禅画― 永青文庫]</ref>。
== エピソード ==▼
仙厓はその奔放な生き方をもって知られており、[[狂歌]]も多く詠んだ。有名なものとしては、美濃国において新任の[[家老]]が悪政を行ったことに対して﹁よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう﹂という狂歌を詠んだ。後に美濃国を追放された際には美濃国と[[蓑]]を[[掛詞]]とし﹁から傘を広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ﹂とうたった。▼ == 祖死父死子死孫死 ==
また、絵を依頼に来る者が後を絶たないことについても、「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに紙おいてゆく」と誰もが来ては紙を置いていくことを自分の家を便所に擬えた自虐的な狂歌を残している。▼
ある年の正月、[[黒田藩]]の役人が[[聖福寺 (福岡市)|聖福寺]]に年始に参り、仙厓義梵に﹁何かめでたい言葉を書いて欲しい﹂と依頼した。仙厓義梵は﹁よしよし﹂と、すぐに筆をとり、﹁祖死父死子死孫死﹂と書いた。役人は顔をしかめて、﹁めでたいことをとお願いしたのに、これはひどい。縁起でもない﹂と怒り出した。すると仙厓は次の様に言った。﹁そうだろうか、まず爺さんが死ぬ。次に親父が死ぬ。次に子が死んで、その後に孫が死ぬ。順序正しく死んで行けば、家中に若死するものがないということだ。だから、こんなめでたいことはない﹂<ref>これは親死子死孫死などの説もある。また一休絡みでもある。﹃禅の本 無と空の境地を遊ぶ悟りの世界﹄学習研究社発行 1992年 27p</ref><ref>[http://www.rinnou.net/cont_04/myoshin/2011-05a.html 臨黄ネット・法話と禅語 是心寺住職 辻良哲]</ref> ▲== エピソード ==
辞世の言葉は﹁死にとうない﹂だったという逸話がある<ref>向谷匡史﹃名僧たちは自らの死をどう受け入れたのか﹄2016年、[[青春新書インテリジェンス]]、15頁。</ref>。ただし、同様の逸話は[[一休宗純]]にもある。▼ ▲仙厓はその[[奔放]]な生き方をもって知られており、[[狂歌]]も多く詠んだ。有名なものとしては、[[美濃国]]において新任の[[家老]]が悪政を行ったことに対して﹁よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう﹂という狂歌を詠んだ。後に美濃国を追放された際には美濃国と[[蓑]]を[[掛詞]]とし﹁から傘を広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ﹂とうたった。 ▲また、絵を依頼に来る者が後を絶たないことについても、「うらめしや わがかくれ家は[[雪隠]]か 来る人ごとに紙おいてゆく」と誰もが来ては紙を置いていくことを自分の家を便所に擬えた
▲辞世の言葉は﹁死にとうない﹂だったという逸話がある<ref>向谷匡史﹃名僧たちは自らの死をどう受け入れたのか﹄2016年、[[青春新書インテリジェンス]]、p.15 <!-- 「和尚と山芋」という仙厓が登場する昔話が伝わる。金儲けに勤しむ商人に授けた誡めとされる「おごるなよ 月の丸さも ただ一夜」、の句が伝わる。[[乃木坂工事中]]で[[齋藤飛鳥]]の画風に似ていると紹介される。
-->
== 代表作 ==
[[File:Sengai 3.jpg|thumb|right|250px|「[[○△□ (絵画)|○△□]]」 出光美術館蔵]]
* [[○△□ (絵画)|○△□]]図 ([[出光美術館]]) 紙本墨画
* [[指月布袋
* [[豊干]]・[[寒山]][[拾得]]図屏風 ([[幻住庵]]) 紙本墨画 六曲一双 文政5年([[1822年]])
<gallery widths="250" heights="200">
File:Sengai Welcher Monat.jpg|「[[指月布袋画賛]]」
File:Sengai Hanshan-Shide.png|「寒山拾得図」
File:Sengai Gibon - Kanzan and Jittoku.jpg|「寒山拾得図」
File:Sengai 4.jpg|「いぬの年祝ふた」
</gallery>
== 関連項目 ==
* [[白隠慧鶴]]
== 脚注 ==▼
* [[道鏡慧端]]
* [[関市武芸川ふるさと館]] - 出生地の武儀郡[[武芸川町|高野村]](現・[[関市]])にある資料館。仙厓の作品を中心に展示。
▲== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* [[森本哲郎]] ﹃この言葉!﹄、[[PHP新書]]、2000年、ISBN 978-4-569-60961-4、pp.72-74 * [[堀和久]] 『死にとうない 仙厓和尚伝』、[[新潮文庫]]、1996年4月、ISBN 978-4101454214。
* [[水上勉]] [[泉武夫 (美術史学者)|泉武夫]] 『水墨画の巨匠 第七巻 白隠・仙厓』、[[講談社]]、1995年3月 ISBN 4-06-253927-6
* 『出光美術館蔵品図録 仙厓』、[[平凡社]]、1988年8月 ISBN 4-582-21825-3
* {{Cite |和書 |author = 中山喜一郎 |title = 仙厓の○△□:無法の禅画を楽しむ法 |date = 2003 |publisher = [[弦書房]] |isbn = 4902116014 |ref = harv }}
== 外部リンク ==
{{commonscat|Sengai Gibon}}
*[http://
*[https://web.archive.org/web/20090120192525/http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/sengai/ 仙厓和尚の書画(九州大学)]
{{DEFAULTSORT:せんかいきほん}}
[[Category:18世紀日本の画家]]
[[Category:19世紀日本の画家]]
[[Category:日本の禅僧 (臨済宗)]]
[[Category:江戸時代の僧]]
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