「仮面舞踏会 (ヴェルディ)」の版間の差分

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{{Portal box|クラシック音楽|舞台芸術}}
『'''仮面舞踏会'''』(かめんぶとうかい)は、[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]が作曲し、[[1859年]][[2月17日]]に初演された全3幕からなる[[オペラ]]である。
 
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*初演:[[1859年]][[2月17日]]、ローマ・アポロ劇場
*日本初演:[[1923年]][[1月31日]] 東京・[[帝国劇場]] カーピ歌劇団
*邦人初演:[[1959年]][[10月4日]] 東京・[[文京公会堂]] 東京オペラアカデミー<ref>[http://opera.tosei-showa-music.ac.jp/search/Record/PROD-14339 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター]</ref>
 
== 作曲の経緯 ==
[[]]185731856[[]][[]]5710[[|]][[]][[|]][[]][[]][[3 ()|3]][[1792]][[]]{{|3|sv|Mordet på Gustav III|label=}}[[|]]3183318571111
 
当時は[[イタリア統一運動]](リソルジメント)が激化していた時期であり、フランスの影響が強く、検閲の厳しいナポリで国王暗殺事件を扱う作品の上演は上記のように簡単ではなかった。ヴェルディは書き上げた総譜を携え、恋人[[ジュゼッピーナ・ストレッポーニ|ジュゼッピーナ]](既に長年同棲している内縁の妻)を伴って1858年1月からナポリに滞在、劇場側は題名を『ドミノの復讐』とし、ヴェルディとの打ち合わせ通り内容にも多少変更を加えてナポリ検閲当局と交渉したが、折悪しく1858年1月にイタリアの民族主義者[[フェリーチェ・オルシーニ]]が、フランス皇帝[[ナポレオン3世]]暗殺未遂事件をおこしたことなどから、検閲当局は支配者の暗殺場面の上演など許可できない、と態度を硬化させ、支配者が死ぬ設定や舞踏会の場面の削除など、更に内容の大幅な改訂を要求する。劇場側は対応策として、ソンマとは別の脚本家に密かに依頼して新しい台本を書いてもらい、その台本を上演用にとヴェルディに提示したという。ヴェルディは当局の要求について、台本のみならずもはや音楽の根幹にも関わる要求だとして劇場側の提案も即座に拒否、上演の可能性を更に探りたいサン・カルロ劇場は契約不履行だとしてヴェルディを告訴、彼に賠償金を要求する事態となる。ヴェルディも即座に劇場側を告訴して応戦の構えを見せたが、結局ヴェルディが1858年秋の同劇場での上演作を「シモン・ボッカネグラ」に切り替えるという代案を出すことで双方が告訴を取り下げ、事態は一応収束、非建設的な泥沼化は避けられた。新作上演は結局一旦断念せざるをえず、ヴェルディは1858年4月末、ナポリを去ることになる。
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しかし最近は、舞台をスウェーデンに戻し、改訂前のヴェルディの初期版に配した上演も増えてきている。
 
20世紀以降は、1935年、デンマーク・コペンハーゲン王立歌劇場での上演を皮切りに、舞台をスウェーデンに戻した改訂前のオリジナル版での上演も増えてきている(音楽には変更なし)。そして、新たに発見されたヴェルディの草稿を基にした仮説的再構成版が[[2002年]]に『[[グスターヴォ三世]]』の題名で[[ヨーテボリ歌劇場]]で初演され、日本でも[[2023年]]に初演された。この版により、ヴェルディが『仮面舞踏会』として上演する際に大きく手を加えていたことが明らかとされた。
 
== 初演の熱狂 ==
1859217[[]][[]]
 
[[]] ''Viva VERDI!''!VERDI'''V'''ittorio '''E'''manuele, '''R'''e '''D'I'''talia[[|]][[2]]
 
== 原作と台本 ==
上記の通り、このオペラの原作はスクリーブによる戯曲、台本はソンマ執筆による。スクリーブは1833年作曲のオーベール版のために自ら戯曲をオペラ台本化しているため、ヴェルディが改めてオペラ化する際にも、スクリーブによる台本をそのまま用いる手法もありえたが、ヴェルディは結局わざわざソンマにスクリーブの戯曲を再構成しての台本化を依頼している。
 
「仮面舞踏会」に描かれたリッカルドとアメーリアの道ならぬ恋、またアメーリアの夫レナートはリッカルドに最も忠実な側近であるとの設定は共にもともと史実ではなく、スクリーブの完全な創作になる脚色である。また、グスタフ3世がウルリカ・アルヴィドソンから暗殺について警告を受けたのは事実とされているが、その警告は暗殺の数年前のことであった。スクリーブはその逸話を暗殺直前の時期にずらして取り入れることで物語の緊迫感を高めている。これら作中のスクリーブによる脚色については、史実でない以上、別の描き方をヴェルディとソンマで検討することも可能であったと思われるが、おそらくヴェルディはあえてこれらの脚色をそのままにしていることから、彼がスクリーブの筆力を評価していたことはほぼ確実である(ヴェルディは1854年の「[[シチリアの晩鐘 (ヴェルディ)|シチリアの晩鐘]] 」作曲の際にスクリーブの台本に作曲する共同作業も経験している)。
 
ヴェルディがもともとスクリーブの戯曲から強い印象を受けていたのは、「国王という公的な地位にある人間の、それ故にこそ一層劇的な形の矛盾となって迫る友情と信頼と恋の相克の悲劇」<ref>全曲盤CD解説「ドラマの史実とその特質」(執筆:高崎保男)より</ref>という内容だったとの指摘もあり、この点を考えるなら上記の脚色についてヴェルディが改変を求めなかったのも頷ける。そのようにヴェルディがスクリーブの戯曲から感銘を受けていたにもかかわらず、ソンマにあえて台本の再構成を依頼したのは、オーベール版を超えるための布石であったと考えられる。既にオペラ化された題材を再びオペラ化すること自体はそれ以前からごく一般的に行われていたことであったが、作曲家としてあえて先行作品のあるものに取り組む以上、先行作を上回るものに仕上げたいと考えるであろうことは想像に難くなく、ヴェルディも作曲を思い立った時、同じ台本を用いるより(いつものように台本作成に細かく目を注いで)戯曲の本質を損なわずに再構成することで、より自分の音楽的意図に沿った台本を得て、総合的にオーベール版より上質の作品を作りあげたいと意図していたと思われる。
 
== 構成 ==
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===第1幕===
====第1場====
簿退
 
 
====第2場====
 
使退!
 
 
===第2幕===
!12姿
 
 
===第3幕===
====第1場====
退2
 
====第2場====
 
====第3場====
3
 
== 聴きどころ ==
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*アリア「私の最後の願い」(アメリア)
*アリア「おまえこそ心を汚すもの」(レナート)
*:リッカルドへの怒りとアメリアのレナートの思いが切なを歌綴るバリトンの名アリア。
*ロマンツァ「もしも、私が永遠に」(リッカルド)
*:アメリアへの思いを諦める決心を歌う。切々とした思いが伝わる
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年6月|section=1}}
*『イタリア・オペラ〈下〉 スタンダード・オペラ鑑賞ブック〈2〉』 [[音楽之友社]] 1998年
*『200CD アリアで聴くイタリア・オペラ―ベルカントの魅力』 [[立風書房]]  2002年
*『仮面舞踏会 オペラ対訳シリーズ (13)』 音楽之友社 1967年
*『歌劇大事典』[[大田黒元雄]] 音楽之友社 1952年
 
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|work=Un_ballo_in_maschera_(Verdi,_Giuseppe)}}
 
{{Commonscat|Un ballo in maschera}}
{{ヴェルディのオペラ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かめんふとうかい}}
 
[[Category:ヴェルディのオペラ]]
[[Category:19世紀1850年代のオペラ]]
[[Category:イタリア語のオペラ]]
[[Category:戯曲を原作とするオペラ]]
[[Category:1850年代ウジェーヌ・スクリーブ台本音楽オペラ]]
[[Category:1859年の音楽]]
[[Category:スウェーデンの歴史を題材とした作品]]
[[Category:アメリカ合衆国北東部ボストンを舞台とした作品]]
[[Category:ボストの文化スを題材とした楽曲]]
[[Category:ダンを題材とした楽曲‎タフ3世]]
[[Category:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]