「伊丹万作」の版間の差分
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[[1917年]]︵大正6年︶3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と<ref name="記念館" /> 家庭の事情で<ref name="作家1" /> 父とともに[[樺太]]に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた<ref>[[#米田1985|米田1985]]、p.295</ref> が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷<ref name="創造者" />、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める[[鉄道院]]に勤務した<ref name="作家1" />。その傍ら独学で[[絵画|洋画]]を学んだ。 翌[[1918年]]︵大正7年︶、鉄道院を退職し<ref name="作家1" /><ref name="記念館" />、2月に少年向け雑誌﹃[[少年世界]]﹄でに[[石黒露雄]]の小説﹃木枯吹く夜﹄の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする<ref name="挿絵"> 同年、映画製作の事業に乗り出した[[松竹]]が[[松竹キネマ俳優学校]]の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と[[本郷区]][[根津|根津須賀町]]の下宿2階3畳で同居生活を始める<ref name="傍観史" /><ref name="作家2">[[#冨士田1985|冨士田1985]]、p.246</ref>{{Refnest|group="注釈"|﹁根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。<ref name="傍観史" />﹂}}。しかし、翌[[1921年]]︵大正10年︶には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、[[谷中 (台東区)|谷中真島町]]の下宿で別々の部屋に暮らした<ref name="傍観史" />。同年5月、補充兵として[[広島市|広島]]の野砲連隊に3ヶ月間入営した<ref name="挿絵" />。 99行目:
[[1961年]]︵昭和36年︶[[11月15日]]、[[筑摩書房]]より﹃伊丹万作全集﹄全3巻が[[志賀直哉]]、伊藤大輔、[[北川冬彦]]、[[中野重治]]の監修で刊行された。第1巻に52作の著述、第2巻に44作の著述、第3巻に﹃花火﹄﹃天下太平記﹄﹃國士無双﹄﹃[[闇討渡世]]﹄﹃[[忠次売出す (1935年の映画)|忠次売出す]]﹄﹃赤西蠣太﹄﹃無法松の一生﹄﹃不惜身命﹄﹃手をつなぐ子等﹄の脚本が収録されている。 [[1997年]]︵平成9年︶[[12月20日]]、長男の十三が満64歳で亡くなり、[[2004年]]︵平成16年︶[[7月1日]]には妻のキミが満100歳で死去した<ref>[https://web.archive.org/web/20140528005904/http://www.47news.jp/CN/200407/CN2004070601001061.html 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻]、[[共同通信]]、2013年1月13日閲覧</ref>。 [[2010年]](平成22年)6月に、[[ちくま学芸文庫]]から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。
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|author = 伊丹万作
|year = 1936
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|title = 私の活動写真傍観史 |publisher = [[青空文庫]]
|isbn =
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