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== 略歴 ==
===生い立ち===
[[1934年]][[4月7日]]、[[東京都]][[豊島区]][[西巣鴨]]に生まれる。小学生時、戦火を逃れる 西巣鴨第四小、市川小、市川一中を経て、東京都立三高︵現在の[[東京都立両国高等学校・附属中学校|両国高]]︶に進学する。 30行目:
===晩年===
[[2000年]]ごろから内臓に多発性の[[悪性腫瘍|がん]]が発見され、入退院を繰り返していた。﹃プロ野球ニュース﹄に代わる新スポーツ番組﹃[[すぽると!]]﹄でもメジャーリーグコーナーを担当する予定だったが、体調を崩し、一度も担当できなかった︵弟子である[[福島良一]]が代わりに担当した︶。[[2001年]]には、[[イチロー]]が出場した[[MLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]の特集にて久々にスタジオ出演したものの、深い椅子に座り、げっそりと [[2002年]][[7月4日]]、[[心不全]]で死去。{{没年齢|1934|4|7|2002|7|4}}。イチローの出場したオールスターゲームを生観戦出来ず終いだった。﹃すぽると!﹄の追悼企画では、伊東が﹁ボクの娘﹂と可愛がっていた[[松井みどり]]アナウンサー︵当時︶がナレーションを担当した。生涯[[独身]]で、晩年には[[森中千香良]]と﹁プロ野球独身貴族会﹂を結成。 ==評論歴==
1992年 - 2002年 フジテレビ、ニッポン放送解説者
== ドラフト会議の司会者 ==
{{by|1965年}}から始まった[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]]では *[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]から指名された[[芝草宇宙]]︵投手、[[帝京高等学校|帝京高]]︶の﹁宇宙﹂を説明するために、英語に堪能な伊東は﹁ひろしは宇宙、大宇宙、コスモ﹂と例えた。 *[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1984年のドラフト会議]]では、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]に指名された[[蒲谷和茂]]に対して﹁うなぎの[[蒲焼き]]の蒲﹂と発言している<ref> 最も物議を醸したエピソードとしては[[1972年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1972年]]、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]4位指名の[[益山性旭]]︵投手、[[履正社高等学校|大阪福島商高]]︶の名前を説明する際に、﹁'''﹃性﹄は[[セックス]]の性!'''﹂と高らかに説明した件が挙げられる。この﹁セックス﹂はいわゆる性行為ではなく﹁性別﹂の意︵英語ではどちらも“sex”である︶であり、英語が堪能な伊東らしい言い回しではあったのだが、場内は爆笑に包まれ、特に当時[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]監督の[[西本幸雄]]は座っていた椅子から転げ落ちて大笑いしたという。後日伊東は﹁﹃性別の性﹄と言っておけばよかった﹂と語っており、益山に対して謝罪している<ref> [[1976年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1976年のドラフト会議]]では、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]がいの一番に指名した投手・[[酒井圭一]]の読みを﹁さかい せいいち﹂と読んだり︵戦前の[[慶應義塾大学]]の名監督・阪井盛一と混同したという︶、最後の司会となった[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1991年のドラフト会議]]にも、ヤクルトが1位指名した[[石井一久]]の学校名︵[[東京学館浦安中学校・高等学校|東京学館浦安高]]︶を﹁[[東京学館高等学校|東京学館高校]]﹂と読んだ。なお後者の際は、1度目に読む時には正しく発音している。同年のドラフトで全選手中、最後に指名された︵[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]のテストを200名近い全受験者中たった一人合格した︶[[田畑一也]]が最後に伊東から名を読み上げられた指名選手となった。 エピソードは山ほどあるドラフト司会だが、非常に冷静沈着であった。思わぬ指名(例で言うと[[読売ジャイアンツ]]の[[桑田真澄]]の指名。これは本人が何度も「これでいいの?」と確認を取った
== メジャーリーグ通 ==
{{出典の明記|section=1|date=2007年9月|ソートキー=人2002年没}}<!-- ノートに質問があります -->
高校1年の時、{{by|1950年}}に[[ジョー・ディマジオ]]が野球指導で[[フランク・オドール]]と2人で模範実技の披露のために日本を訪れた際、オープンカーで銀座通りをパレードした。その際に[[白バイ]]と白バイの間を MLBと比べての[[日本プロ野球]]の[[犠牲バント]]や[[ヒットエンドラン]]多用、ボールを選び過ぎるスタイルには批判的であり<ref>{{ パ・リーグの仕事の合間を縫って、メジャーリーグの全球場を巡るのが趣味となった。アメリカにおいて[[メキシコ]]人を [[2001年]]にイチローが出場した[[MLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]では生観戦が適わなかったが、[[MLBコミッショナー]]の[[バド・セリグ]]が伊東のプレゼントした黄色いネクタイを着用した。これを見つけた伊東は「粋なこと」と喜んだという。
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{{cquote2|まさか、長い野球人生の間に、こんな事でピリオドを迎えるとは思っていなかった。<br />しかし振り返ってみれば、[[ジョー・ディマジオ|ディマジオ]]最後のホームラン、[[ジャッキー・ロビンソン]]のホームラン…これら日本野球の歴史に残る、ものすごい当たりを見られたことはこれほど人生にとってラッキーな事があるだろうか。<br />これから先、[[日米野球]]でたくさんのチームが来日するだろう。そのたびに新しい歴史が出来ていく。そういうことを。それを大いに期待したいものだ。<br />それを本塁ベースの向こうからじっくり眺めていたい。ではみなさん、さようなら。パンチョ伊東}} ==脚注==▼
{{reflist}}▼
==著書 ・翻訳書==
*『アメリカ大リーグ:テレビ観戦が3倍楽しめる本』([[サンケイ出版]]
*[[ピート・ローズ]](著)、伊東一雄(監修訳) 『挑戦する624人の大リーガー』([[日之出出版
*
*『メジャー・リーグ紳士録』([[ベースボール・マガジン社]]
*『パンチョ伊東のMLB名鑑. 1999』(ベースボール・マガジン社
*伊東一雄(著)、吉川達郎(監修) 『メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事』([[産経新聞出版|産経新聞ニュースサービス
==出演番組==
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==出演CM==
*[[日立製作所]] パソコン・フローラ︵1995年、[[長嶋茂雄]]、[[福留功男]]とともに出演。新聞広告でのキャッチコピーは﹁長嶋さんが始めた以上、私、パンチョも﹂︶ ▲==脚注==
▲{{reflist}}
==関連人物==
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