'''伊良子 光順'''︵いらこ みつやすおさ<!-- ﹁光順﹂の読みについてはノートを参照ください。-->、[[文政]]6年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]︵[[1823年]]︶x[[10月x7日]]︶ - [[明治]]14年︵[[1881年]]︶[[9月23日]]︶は、[[幕末]]から[[明治時代]]初期の日本の[[医師]]。[[号 (称号)|号]]は無剛。現在の[[奈良県]][[奈良市]]出身で、[[典薬寮]]に所属し[[孝明天皇]]と[[明治天皇]]に仕えた。
==事跡==
===生い立ち===
文政6年︵1823年︶、[[円照寺比丘尼御所]]の[[門跡円照寺]]に仕えた医師・[[和角之寛]]︵わすみ ゆきひろ︶の子として奈良に誕生。後に京都へ遊学し、[[御典医師 (律令制)|典薬寮医師]]・伊良子光通︵~︵みつみち︶の門下生となった。
光通は都に名高かった[[外科医]]・[[伊良子光顕]]︵~︵みつあき︶のに婿養子でありとして迎えられ、光顕の実子が継いだ宗家︵見道斎伊良子家︶から分かれた新たな一家︵千之堂伊良子家︶の創設を許されていた。同時に、従四位下主税助の[[官位]]を授けられ[[仁孝天皇]]の天脈拝診︵実際に天皇の診察に携わること︶を許された名典医であったが、[[天保]]15年︵[[1844年]]︶に実子の光敬︵みつたか︶に先立たれて後継者を欠いていた。そこで門人の光順が、光敬の娘・巌を妻とすることによって光通の養子となった。ちなみに、光順の後継者・光信︵みつのぶ︶も婿養子であるため、伊良子家は3代に渡って[[女系]]で相続されていることになる。
[[弘化]]2年12月17日︵[[1846年]]1月14日︶、光順は典薬寮医師に補せられ、朝廷から[[従六位|従六位上]]の・[[位階]]と備前国|備前介の[[官職]]を与えらに叙任された。[[嘉永]]2年︵[[1849年]]︶には養父の光通が世を去り、光順が26歳にして千之堂伊良子家の当主となる。
===天脈拝診===
嘉永4年([[1851年]])、光順はその2年ほど前から痔に悩まされていた[[孝明天皇]]の治療を命ぜられる。[[安政]]2年には[[従五位|従五位下]]に推叙された。
当時の典薬寮には20人前後の医師が在籍していたが、実際に天皇や[[親王]]の拝診を許されたのは数名に留まり、あとの者は[[後宮]]の[[女官]]や[[公家]]の診察に従事した。光順も家督相続当初は天脈拝診の資格がなく、女官たちの診察を主としていた。
===主上不予===
嘉永4年︵[[1851年]]︶、光順は[[孝明天皇]]の[[痔疾]]治療を命ぜられる。孝明天皇はその2年ほど前から痔に悩まされ、他の複数の典医たちが[[漢方薬]]を用いて治療に携わったが、病状は好転せず[[内科]]的治療に限界が見えていた。そこで、[[外科]]を家業とし痔の治療で実績を持っていた光順がにわかに注目されたわけである。光順はこの拝命を機に、拝診の詳細な記録を日記に残すことを始めた。
[[慶應応]]2年12月11日︵[[1867年]][[1月16日]]︶、風邪気味の孝明天皇は宮禁中[[内侍所]]で執り行われた神事に無理をして参加し、翌12日に発熱する。この発病から[[崩御]]死去に至るまでの病状もを、光順は詳細にメモを取り、日記に詳述している。▼
日記の記述によれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙︵調薬担当天皇の典日常健康管理を行う主治医格︶であった高階経由が拝診して調薬したが、翌日になっても病状が変わら好転しなかった。14日、筆頭典医筆頭のひとりである山本隨が治療に参加、15日には光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が始まった。孝明天皇の公式の伝記である﹃孝明天皇紀﹄によれば、典医たちは、天皇の病状を﹁御容態書﹂として定期的に発表していた。この﹁御容態書﹂における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す﹁御順症﹂とされていた。▼
嘉永4年10月28日︵[[1851年]][[11月21日]]︶、光順は初めて孝明天皇に謁見し、患部の診察を行った。光順は天皇の痔疾について、すでに[[脱肛]]の症状まで進行しており、脱出部位を手術で切除しなければ根治は出来ないと診断するが、時の[[関白]]・[[鷹司政通]]が﹁天皇の体には恐れ多くて刃物など当てさせられない﹂としてこれを許可しない旨を上司から聞かされる。光順は手術を断念し、膏薬等での対処療法をとることとした。
しかし、光順の日記における12月25日の条には「天皇は痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに亡くなられた」と記されている。
幸い、光順の処方は功を奏し、天皇の病状は和らぐ。この功績により、光順は安政2年︵[[1855年]]︶、弱冠32歳で[[従五位|従五位下]]に叙せられ、陸奥守に任命されている。養父の光通が同じ位を与えられたのは47歳になってからであったから、孝明天皇の光順に寄せる信頼が大きかったことが伺える。さらに安政4年︵[[1857年]]︶には、治療の効果を特に褒賞され、陸奥守と兼任で織部正の官職を与えられた。
光順ら典医は天皇在世中の拝診の労をねぎらわれ、[[紫宸清涼殿]]に安置された棺を南庭から拝礼する事を許され、た。さらに光順は[[泉涌寺]]での葬送儀に参加供奉することを命じられた。また葬儀後のあと、典医たちには慰労金が下賜されたほか、特に長年痔疾の治療に携わった光順には、特別に天皇遺品の時計を与えられた。▼
===天皇違例===
▲[[慶應]]2年12月11日︵[[1867年]][[1月16日]]︶、風邪気味の孝明天皇は宮中で執り行われた神事に無理をして参加し、翌12日に発熱する。この発病から[[崩御]]に至るまでの病状も、光順は詳細にメモを取り、日記に詳述している。
▲日記の記述よれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙︵調薬担当の典医︶であった高階経由が拝診して調薬したが、翌日になっても病状が変わらなかった。14日、筆頭典医である山本隨が治療に参加、15日には光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が始まった。
12月16日([[1月21日]])、隨・経由・光順と、経由の息子・経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡([[天然痘]])に罹患している可能性が強まる。17日には正式に[[武家伝奏]]などへ天皇の病名を発表、以後、天脈拝診の資格を持つ15人の医師を下記の3班に分け、24時間体制での治療が始まった。
*'''第1班'''
**筆頭:藤木篤平 (従四位上 典薬権助兼伊勢守)
**執匙:高階経由 (従四位下 典薬少允兼安芸守)
***山本正文 (従五位上 図書頭兼安房守)
***高階経支 (従五位下 丹後守)
***高階経徳 (正六位下 筑前介)
*'''第2班'''
**筆頭:山本隨 (従四位下 典薬大允兼大学助兼大和守、のちに恭隨に改名)
***河原実徳 (正五位下 典薬少属兼伊予守)
***西尾兼道 (従五位上 土佐守)
***大町淳信 (従五位下 弾正大弼兼周防守)
***久野恭 (正六位下 出羽介)
*'''第3班'''
**筆頭:藤木静顕 (従五位上 近江守)
***伊良子光順 (従五位上 織部正兼陸奥守)
***福井登 (従五位上 主計助兼豊後守、後に貞憲に改名)
***三角有紀 (正六位下 摂津介)
***伊良子光信 (従六位上 阿波介)
通常、痘瘡は治癒までに一定の病状プロセスがあることから、典医たちもおおよその病期を予測して天皇の治療計画を立てていた。実際、発症から11日目の12月23日までは、典医たちの予測どおりに病状が進行し、「御順症」であった。しかし、24日の夕方、天皇の容態は急変する。光順の日記にこの日の記述はないが、翌25日の記録には、天皇が痰がひどく、藤木篤平と静顕が体をさすり、光順が膏薬を張り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。
崩御から数日間、典医たちは交代で天皇のなきがらの傍に詰めるよう命じられた。その間の12月30日、[[カルテ]]に近い事務的な記述が大半だった拝診日記に、光順は「御舟ト申ス物ニ月サス」と記した。御舟とは[[棺]]のことで、真冬の静まり返った夜、天皇の棺に月明かりが差す様子を叙情的に写生しており、僅か10文字の短い一文ながら、長年仕えた主君を失った光順の心中を伺うに余りある記述といえる。
▲光順ら典医は拝診の労をねぎらわれ、[[紫宸殿]]に安置された棺を南庭から拝礼する事を許され、さらに光順は[[泉涌寺]]での葬送に参加することを命じられた。また葬儀後、典医たちには慰労金が下賜されたほか、特に長年痔疾の治療に携わった光順には、特別に天皇遺品の時計を与えられた。
===明治時代===
孝明天皇の崩御死去に伴ってより[[儲君]]の睦仁親王︵[[明治天皇]]︶が[[践祚]]すると、光順は引き続き新帝の天脈拝診を許さ命じられた。[[明治]]2年︵[[1869年]]︶には[[正五位下]]に叙せられるが、[[明治維新]]に伴う同年の官制改革で典薬寮が廃され、織部正・陸奥守の官職を失う。さらに翌年には正五位の位階も返上させられた。
新制度によって天皇の侍医は大典医・中典医・少典医の3階級に分けられることとなり、光順は少典医に任ぜられる。[[東京奠都]]の際には天皇に従い東下するが、明治4年︵[[1871年]]︶、免官により京都に帰る。
明治14年([[1881年]])[[9月23日]]、光順は京都で生涯を閉じ、[[紀伊郡]]深草村(現在の[[京都市]][[伏見区]])の[[宝塔寺]]に葬られた。享年59歳。
==位階官職履歴==
※日付は旧暦
* [[弘化 ]]2年 ([[1845年]])[[12月17日 (1846年1 (旧暦)|12月 1417日 )]] 叙 [[従六位|従六位上 ]]・任 [[備前国|備前介 ]]▼
* [[嘉永 ]]5年 ([[1852年]])[[1月27日 (1852年2 (旧暦)|1月 1627日 )]] 叙 [[正六位|正六位下 ]]▼
* [[安政 ]]2年 ([[1855年]])[[9月23日 (1855年11 (旧暦)|9月 223日 ) ]] 叙 [[従五位|従五位下 ]]・遷 [[陸奥国司|陸奥守 ]]▼
* 安政4年 X([[1857年]])月 X日 不詳 任 [[織部司|織部正 ]](陸奥守如旧) ▼
* [[明治]]2年([[1869年]])
** [[2月23日 (旧暦)|2月23日]] 叙[[正五位|正五位下]]
* 同年* [[7月 87日 (1869年8 (旧暦)|7月 157日 ) ]] 行政官達により百官受領廃止、並びに位階上下廃止 ▼
** [[9月3日 (旧暦)|7月7日]] 任少典医
* 明治3年 ([[1870年]])[[11月 2019日 (1871年1 (旧暦)|11月 1019日 ) ]] [[太政官布告]]により位階廃止 、改めて叙[[正七位]]▼
* 明治4年([[1871年]])[[8月17日 (旧暦)|8月17日]] 少典医免官
* 明治5年([[1872年]])[[1月18日 (旧暦)|1月18日]] 位階返上
▲*弘化2年12月17日(1846年1月14日) 叙従六位上・任備前介
*伊良子光孝 『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』 (「医譚」復刊47・48号、1976年) ▼
▲*嘉永5年1月27日(1852年2月16日) 叙正六位下
*山田重正 『典医の歴史』 (思文閣出版、1980年) ▼
▲*安政2年9月23日(1855年11月2日) 叙従五位下・遷陸奥守
*[[日本歴史学会]]『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1981年)
*明治2年x月x日 叙正五位下
▲*同年7月8日(1869年8月15日) 行政官達により百官受領廃止、並びに位階上下廃止
▲*明治3年11月20日(1871年1月10日) [[太政官布告]]により位階廃止
==「天脈拝診日記」と孝明天皇暗殺説==
{{節stub}}
▲*伊良子光孝 『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』 (「医譚」復刊47・48号、1976年)
▲*山田重正 『典医の歴史』 (思文閣出版、1980年)
*[[三上景文]] 『[[地下家伝]]』
==関連項目==
*[[伊良子道牛]]
*[[伊良子光顕]]
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[[Category:19世紀日本の医師]]
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[[Category:江戸時代の医学者]]
[[Category:江戸時代の医師]]
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